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【30代OLエッセイ】摂食障害・大学中退。人生の底から這いあがるまでのインターバルで考えたこと。

冷蔵庫にトマトときゅうりがあった。母が買ってきたものの残りだ。ちょうどTwitterに流れてきた気になるレシピの材料が揃っていたので、今日の夕飯はサラダを作った。

私は趣味を聞かれたら「読書と料理」と答えるようにしている。そう答えると、未婚女性に対する敬意であるかのように、「女子力高いですね」という返答があるが、ただの食いしん坊である。(そもそも料理にジェンダーは関係ないことは言わずもがなだ)

食べたいものがある。外食してもいいが、田舎なので食べたい時に店に飛び込めばすぐに食べられる、という環境でもない。それでは自分で作ってしまおう、という算段である。

まな板にきゅうりを並べ、一口大に乱切りしている時だった。不意に、料理をし始めた時の自分のことを思い出した。

私の人生において、派手に転んで起き上がれなくなっていた頃の話だ。

1.起き上がり方が分からなかった日々


今から8年ほど前のことだ。

大学を中退し、身も心も自尊心も、粉々になって実家に帰ってきたときだった。
自律神経をやられていたのか、よくひっくり返るようにして倒れていた。正午を過ぎると何故か起き上がれなくなり、寝込むことが多い毎日だった。

4月、5月、6月、7月…。
私が何もしなくても、月日は淡々と、無情に過ぎていく。

同級生は就職し、華々しく活躍している。「仕事がきつい」「月曜日が嫌だ」というSNSの投稿でさえ、その時の自分には直視できなかった。

Twitterのアカウントは消した。Facebookの友達を全て解除した。LINEに並ぶ友人も全て、自分のホーム画面からはすぐには見れないようにした。

私は自分の弱さを他人にひた隠ししたい、ずるくて愚かな人間だった。

昔から、誰かに「助けてほしい」というのが苦手だった。

大学に入学するタイミングで上京し、一人暮らしを始めた。その時は兎に角周りに合わせなければ、うまくいっているように振舞わなければ、と自分の世界だけで必死になっていた。誰にもそんなこと求められていないのにも関わらず。

周りから見た目やファッションセンス、自分の地元のことをいじられても、どう怒って良いか、どう言い返せばいいか分からなかった。その苦しみを全て自分にぶつけて昇華させるような日々だった。

学業や生活を心配してくれた友達もいたが、「大丈夫」としか返さなかった。
親にも「どうにかなるよ」と言っていた。勉強が上手くいっていないこと、そもそも生活そのものが破綻しかけていることを相談できなかった。

高校時代からの摂食障害が酷くなり、食べ物に奨学金もバイトも使い込んでしまう。過食衝動が酷く、手元に現金がないときはクレジットカードで支払いを済ませていた。引き落とし日ギリギリになってから、何度親に泣きついたかわからない。

何か口に入れていないと不安で、駅のホームでも何か食べれるように必ずNEW DAYSによって菓子パンを買い、口の中に詰め込んでいた。

そんな調子なものだから部屋の掃除すらままならず、ごみ袋が溜まっていく。

そんな生活を4年間送っていたことを、両親には話せなかった。
両親にそれが判明したのは全て、中退が決まり、部屋を退去しなければいけなくなってからのことだ。

当然のごとく、父も母も、泣いていた。

自分は何てしょうもなくて、惨めで、駄目な人間なんだろう。
太っていて、男子からはからかいの対象でしかなかった。成績の良さ、それだけが自分を守ってくれていた。

それが、この様だ。
自分が唯一評価されていた部分が無くなってしまった。自分は何の価値もない人間だ。
そう思いながらベッドに横たわり、毎日重たく沈んでいた。

2.台所に立つことを覚えた日々


料理をし始めたのは、自分も何か家族の役に立てないか、と思ってのことだった。

両親が買い物に行っている間に昼食を作る。仕事が終わる時間を見計らって夕食を作る。
それは、自分にとっての一種の罪滅ぼしだった。

3分クッキングや今日の料理ビギナーズを録画して毎日のように見ていた。少しでも料理が早く上手くなりたかったからだ。元々食べるのが好きだということもあって、本来の目的を忘れて、私は料理自体にのめり込んでいった。

レシピ通りに材料を図り、肉や魚を包丁で切る。火加減を自分で見極めながら、いい塩梅になるまで炒める。

単純でいて生産的な時間は、私の考え事であふれ出しそうな頭の中を束の間解放させてくれた。自分の手を動かして、五感を研ぎ澄まして完成まで持っていく作業。一人で台所に立つ時間が、その時の私にとっての癒しであり、救いだった。

料理をし始めるようになってから、ベッドでスマホを眺めることが大半だった私の生活に変化が起こった。

頭に入らなかった文字も目で追えるようになり、読書をするようになった。思えば、この時に読んだ本が私の人生の根底を支えている。



ちょっとした行動で人は少しずつ変化していく生き物なのだろう。

3.自分自身を模索した日々


人はただ生きているというだけでは満足ができない生き物だと思う。誰かに必要とされたい、認められたい、評価されたい・・・。そんな、他者からの評価がある程度無ければ、どこか満たされない。

その満たされない部分に何を埋めればいいのか、どうすれば塞ぐことができるのか。それを探すことに時間を費やす人、追求することができている人は、案外少ないのかもしれない。

皆、毎日をすごいスピードで走っている。いや、走らなければ、という観念のようなものに走らされているのかもしれないし、走らなければ生活ができない、という人だっている。

私は自分の犯した過ちによって転んでしまい、起き上がるまで時間を費やした。けれど、その転んだ時間に、自分という人間の核を覗き込み、分析し、その手触りを確かめることができた。

無駄な見栄や、必要以上に他人を恐れる癖。今でも治っていない欠点は多々あるが、それらを見つめ直す時間であり、芯棒に粘土を一から塗りたくって、新たに彫刻を作っているような、そんな時間でもあった。

そして本を読み、映像作品を鑑賞し、孤独感に苛まれなら、これから生きていくためにどうしたらいいか、もう一度地図を広げるまで、傷だらけになりながらも何とか辿りつくことができた。

私の履歴書を見た人は、「ああ、田舎の子が東京に馴染めなかったのだな」と思うだろう。
中退後、通信制の大学を卒業し、就職するまでの空白期間。その空白が私に何の意味をもたらしたのか、第三者に理解してもらうことは中々難しい。

けれど、あの数年間は間違いなく、私の中に必要だった。きっと、全てに目をつむって何とかその場をやり過ごして大学を卒業し、ストレートに就職していたとしても、どこかで必ず倒れていたと思う。

自分自身を知らないままで、人生をつつがなく送ることはとても難しい。それを探す時間が与えられたのはある意味幸運だったんじゃないか、と思う。

(ハチミツとクローバーの竹本くんも自分探しの果てに大切なものを掴んで帰ってきていましたね)

「他人に理解はされなくとも自分だけが理解しているもの」を増やすことは、生きづらさを少し解消できるのかもしれない。

4.私から「あなたへ」何を伝えられるだろう?


冒頭で作ったサラダを食べながら(とても美味しかった)、あの当時のことを忘れかけていた自分に驚いた。我ながら現金な人間である。

それと同時に、あのもし8年前の自分と同じように絶望した中で佇む人がいたら、どんな言葉をかけたらいいのか、どう寄り添うべきだろうか、と考えた。

その人自身の苦しみが分かる、訳ではない。人それぞれ状況は異なるし、分かったような台詞は口が裂けても言えない。

そもそも、その人自身も苦しみの源泉が分からないからこそ、その状況におかれているのだろう。また、私のように派手に転ぶでないにしろ、怪我を負ったまま、毎日を過ごしている人だっているだろう。

8年前の自分に、「2022年のあんたは中々楽しくやってるよ」と伝えてもきっと信じてもらえない。渦中の中にいる人に、根拠のない希望をぶら下げても、それを鵜呑みにすることも直視することも、あまりにも難しすぎる。

ただ、暗闇の中で与えられた時間が、未来のあなたにとっての光になるということだけは信じてほしい、と思う。そして、その人自身が、立ち上がるきっかけを掴むことを願ってやまない。

まだまだ器の小さいちっぽけな私から言える最大限の、精一杯の気持ちである。

そして、もし自分自身がまた派手に転んで複雑骨折するようなことがあっても、それだけは忘れずにしがみついていたいとも思う。

私はまた明日も、自分の手で料理をし、次は何を作ろうかな、と考えて眠りにつく。弱音を吐きながらも、毎日を重ねていく。

過去の自分は、未来の自分がきっと救い出してくれる。それが、一筋の光明として人生を重ねる助けになると信じて。


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