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さいごのことば

真上から光が差し込む斎場の火葬室には、5台の火葬炉が用意されている。

そのうち既に、父を入れるための1台の扉が大きく開いている。あの奥に入ったら最後、父の姿はこの先もずっと…もう二度と見れなくなる。

この場所にいるのは家族である私を含め、母や弟。父の唯一のきょうだいである姉と、その旦那さんに従兄妹たち。そして親戚や、学生の頃から付き合いがある同級生の友人や、今日に至るまで支えあった仕事仲間だ。

皆がそれぞれの思いを抱えながら涙を浮かべ、棺の中にいる父の前で一人一人、最後の対面を終えていく。

そんな中で私は一人だけ、父の姿を見るのもこれで最後だというにも関わらず、表情を変えることさえなければ、一粒の涙もこぼれ落ちていない。


(これでいい、これでいいんだ…)


私が子供だった頃に、この先もずっと涙を人前で見せるなと、そんな約束を父と交わした憶えはない。一生をかけて守り抜けと、そう言われた記憶もない。

これは自ら望んで、自らの意思で決めたことだ。人前で涙する姿を見せず、父の息子として、長男として、最後まで堂々した姿勢を貫く。

そう言い聞かせながら、ここにいる誰よりも辛くとも、心が悲しみに押し潰されてしまおうとも、自分の顔が歪んでしまっているところを皆に見られないように、ずっと無表情を貫いていた。

やがて、最後の一人が父との対面を終えたところで、そこに居合わせている職員の一人が何かを察知したのか、突然私のいる方に声をかける。


「ご子息様、もう一度お顔を覗かれてはー」

声に導かれるように、私は再度棺の前に向かい、再び父の顔を覗く。ある物語のように、もう一度息を吹き返すことはない。どれだけ神に祈りを捧げようとも、これ以上奇跡は起こらない。

今、目の当たりにしているすべてが現実だ。それもあと数秒で、この現実はたった一つの永遠のものになる。頭の中でわかっていた。これ以上、交わす言葉も何もない、はずなのに…






………



……








その瞬間、自分の心を縛り付ける何かが断ち切れた。


気がつけば、視界がとてつもなく歪んで見えている。


かけている眼鏡にいくつもの涙がこぼれ落ちて、


水溜りなるものが両方のレンズを埋め尽くしている。


仮面代わりとして身につけていた眼鏡を外す。


けれど、ずっとき止めていた感情は止まらない。


父といた時間がこれほど愛しいものだと思わず、


今までどうして気がつけなかったのだろう。


自らの意思を持って親元を離れた日からいつか必ず、


永遠の別れが訪れる時が来るとずっと覚悟していたのに…。


これまで父と過ごした日々が、瞼の裏で蘇ってくる。


共に過ごした日々が頭の中で駆け巡っては、今にかえってくる。


抱えていた思いが、一つの滴と成って溢れ出てくる。




あぁ…


これが最後だ。


これで最後なんだ。


もう父と会えなくなるんだ。


これがもし最後じゃなかったら、


もう一度、父と酒を呑み明かしたかった。


もう一度、父とドライブに行きたかった。


もう一度、父さんと話したかった。


もう一度、あの頃のように、あの日のように。


だけどその願いは叶えられない。


どれだけ悔やんでも悔やみきれない。


時間は止まらない。もう止まってくれない。


巻き戻しも利かない。振り出しにも戻れない。


父さんはもう二度と手を伸ばすことはない。


父さんはもう二度と目を開けることはない。


父さんはもう二度と口を開けることはない。



そうと知りながらも、私は棺越しに、父さんに声をかけた。














最後の言葉を伝え終わると、私は涙を拭いて、元にいた立ち位置へと静かに戻る。

職員の手によって顔部分の蓋が閉じられると、ここにいる誰もが見守る中、父の棺はゆっくりと火葬炉に入っていく。



父はこれから大いなる旅へと、自身の舟に乗って舵を切る。

皆に見送られながら、果てのない空へと舞い上がって行く。




父が生まれ育ったこの街に、ほんの少しの狼煙が上がる。











最後までお読みいただきありがとうございました。 またお会いできる日を楽しみにしています!