見出し画像

『オッペンハイマー』を、日本人はどう観るべきか

我々日本人にとって、さまざまな意味で「もやもやする」映画となっている『オッペンハイマー』。

事前に"バーベンハイマー騒動"もあったため、「どうやらアメリカ人と私たちは、原爆について大きく意見が異なっているようだ」という印象を持ってしまった人も多いと思う。
私もそのひとりだった。

しかし、そんな作品がアカデミー賞で7部門も賞を取った。
いや、取ってしまった、と言うべきかもしれない。
「原爆の父」を描いた映画が、アメリカではそんなふうに持ち上げられているのなら、ここはいっちょ日本人として言うべきことを言ってやらなければならない。

こんなひがみ根性を持って映画を観に行ったということは、今更隠さない。

しかし結論から言うと、私が映画を観終わった後に座席で思ったことは

・・・実にすばらしい。

の一言だった。

この作品を、原爆投下の事実を軽視するものだ決めつけて「だから観に行かない」という発言をしている人もいるが、その考えはこの映画にふさわしくない。

そう感じざるを得ないほどに、『オッペンハイマー』は我々日本人にとって、「観ておいた方がいい」作品だった。

一方で日本人としては、この映画を手放しで「おもしろい」と評価することは、もちろん難しい。

それも踏まえつつ、映画『オッペンハイマー』の「私たち日本人が、観ておいた方がいい理由」について、お伝えしていこうと思う。


この3時間を味わい切った人にしか得られないものがある

『オッペンハイマー』は、「人間」を本格的に描いた芸術作品だ。

監督のクリストファー・ノーランがこの作品を撮った動機も、「核兵器を開発したことによって世界の悪を倒し、戦争を終結に導いた英雄」を描くことではなく、「"人間"オッペンハイマーの多面性と葛藤」を描くことにあったのは明らかだ。
このことは、オッペンハイマーを演じた俳優キリアン・マーフィーの、陰影のある複雑な表情からもはっきりとわかる(それらは予告編の映像でも確認することができる)。

といっても、ただオッペンハイマーを「たくさん悩んだ人」として描いているかといえば、そういうわけでもない。
科学者としての止まることを知らない好奇心と、もはや「高慢」と言ってよいほどのプライド。プロジェクトリーダーとして仕事を終えた達成感と喜び、自己顕示欲。高すぎる感受性にはち切れそうになるビジョン。天才の孤独と性欲を含む俗物の欲求。ひとりの人間としての純粋さと心の脆さ。
こう列挙したくなるほどに、この映画で描かれるオッペンハイマーは実に多面的だ。

オッペンハイマーに加えて、ロバート・ダウニー・Jr.演じる成り上がりの政治家ストロース(アジア人を差別しているとしたら残念だが、やはり彼の演技はすばらしい)、エミリー・ブラント演じる妻キャサリン、フローレンス・ピュー演じる浮気相手のジーン・タトレックなどなど、人間としての深みが表現されている登場人物は数多い。

私が特に印象に残ったのは、ゲイリー・オールドマン演じる、原爆投下の決断を下したとされるトルーマン大統領だ。
登場するのはほんの僅かな時間でしかないのだが、そのセリフには思わず"日本人として"唸ってしまった。

また役者たちの演技や演出もハイクオリティであるため、ノーラン監督の「人間を描く」という試みを成功へと導いている。
ぜひ観てほしい。

ノーラン監督が数々のインタビューで答えているように、映画『オッペンハイマー』は、主人公であるオッペンハイマーの主観をとおして、その背後にある「原爆」の問題へと、我々観衆を引き込むようにつくられている。

このオッペンハイマーが生きた20世紀という時代、それはだれにも止めることのできない巨大な渦のような時代だった。

天才科学者アインシュタインが特許庁で働きながら頭の中で実験を行い、物質とは巨大なエネルギーであると突き止めたこと。
第一次世界大戦でドイツが戦勝国から手ひどい仕打ちを受け、その反動としてナチスがドイツ国民の怒りを焚き付けのし上がっていったこと。
ナチス・ドイツによってユダヤ人が家畜以下の仕打ちを受けて虐殺されたこと(アインシュタインもオッペンハイマーもユダヤ人であり、ナチスドイツよりも先に原爆を開発することが彼らにとっての重大事だった)。
第二次世界大戦の勃発によって、世界中でおびただしい死傷者が出たこと。

これらすべてが、まるですべての川の水が海に流れていくように、「原爆開発」へと収束していく。

このような、だれにも止めることのできない巨大な渦の中に、天賦の才を持った人間が置かれたとしたら・・・?

彼は自分の才能をどう扱うべきなのか。
政治家たちはその才能をどう活かすべきなのか。
大衆はその才能を社会の中にどう受け入れていくべきなのか。

これらの問いに答えを出すことは、決して簡単ではない。

あれから何十年も経った今の視点から見れば、映画の中のオッペンハイマーをはじめとした登場人物に対して、「あのときこうしておけばよかったのに!」と非難することもできる。
しかし、目の前で激動する状況があるときに、その問題点と解決策を冷静に把握することは、極めて難しい。

映画の中には、努めて現状を理解しようとするオッペンハイマーと、時にその状況に流されてしまうオッペンハイマーがいた。

と同時に、そんなオッペンハイマーを「英雄」として扱う軽薄な大衆たちもいた。
私たち日本人は、そんな大衆のやんやの喝采を聞いて、煮え切らない感情を抱くことだろう。
だがここで伝えておきたいことは、原爆が戦争を止めた一方で、大量の死者と後遺症に苦しむ人を出し、日本人を恐怖のどん底に突き落としたことを知らない軽薄な大衆たちに対して、ノーラン監督が中立の立場から批判の目を向けているのは明らかだということだ。

中には、「オッペンハイマーを英雄として描いている」という感想も見られたが、それはオッペンハイマーの科学者としての達成を喜ぶシーンと、軽薄な大衆たちの喝采をごっちゃにしているからだろう。
もちろん、映画を観てそのように感じるということ自体に間違いはないし、いろいろな見方がなされてしかるべきだ。

ただ、「冷静に観ればわかること」も少なくない。
そのために私たちに出来ることは、ノーラン監督の誠実さを受け取って、しっかりと事実を把握しながら観る、ということだ。
実際に、背筋に寒気が走るような描写でアメリカ人の大衆たちを批判しているシーンがあるので、そこからノーラン監督の心の内を感じてほしい。

・・・(でも、私がその当時のアメリカ人のひとりであったならば、私も彼らと同じような反応を示していたかもしれない)・・・

複雑極まりない時代状況の中を生きたオッペンハイマー。
この激動の時代というのは、ひとりの人間のドラマを描く上で、非常に有効なシチュエーションとなりうる。
このように言うことは不謹慎なのかもしれないが、『オッペンハイマー』はドキュメンタリー作品ではなく、あくまでも「芸術作品」なのだから、鑑賞者側の「芸術として受け取る態度」は非常に重要だ。

さらに、このような人間ドラマを、ノーラン監督によるユニークな「映像美」と、『ブラックパンサー』でも手腕を発揮したルドウィグ・ゴランソンの「音楽」、そして圧倒的なクオリティで爆発音や"振動するひも"の音を表現した「音響」が支える。これらもすごい。

そして、重すぎる時代背景と厳しすぎる内面の葛藤を描き切るために、ノーラン監督は『オッペンハイマー』という映画に3時間の尺を与えた。

同じ3時間でも、『RRR』のように圧倒的な面白さで引っ張ってくれる映画ではないので、正直観るのはかなりしんどい。

それゆえ、この作品を観る上でより「人間」を味わいたいのであれば、予習記事や動画等で、ストーリーと時代背景はある程度おさらいしてから行くのがよいかもしれない。

どちらにせよ、この3時間を全身全霊で体験した人にしか得られないもの、見えてこないものが、確かにあるはずだ。

それが、私がこの映画をすべての日本人に勧めたい理由のひとつめである。


*予習にオススメの動画を一本だけ上げるなら、こちらがオススメです。ただ、予習は絶対に必要というわけではありませんので、ご自身で判断の上、劇場へ足を運んでみてくださいね。


日本人が考えるべき"2つのこと"を思い起こされる

"原爆"を体験していない人々にとって、原爆を「忘れてしまうこと」に抵抗するというのは、ひとつの重要な仕事である。

この映画は、『はだしのゲン』などの当事者の視点とは違った形ではあるが、世界そのものを破壊してしまうかもしれない原爆の恐ろしさを、すさまじい迫力で描いている。

だから、『オッペンハイマー』は映画館で観るべきだ。

実際私はこの映画を観て以来、改めて広島や長崎にどんな被害があったのかを知りたくなり、さまざまな媒体をとおして学んでいる。

このように「原爆」について考えるきっかけになるということが、この映画の重要な意義のひとつだ。

・・・と、ここまではよく言われていることであり、今更書くまでもなかったかもしれない。

私がこれから書くのは、『オッペンハイマー』を観て思い起こされた、日本人として考えるべきもうひとつことだ。

それは、日本が「敗戦国」であるという事実だ。

世界中に向けて"オッペンハイマー"という人間を描くことができるのは、「戦勝国」の人間だけだ。
なぜなら、特別な意図を感じさせず、彼の多面性を公平に描けるからだ。

実際、『オッペンハイマー』には「戦勝国のおごり」を感じさせるシーンがいくつもある。
先にも書いたように、ノーラン監督はそれを中立の立場で批判的に描いてはいるが、アメリカの人々の喜ぶ姿を観て、日本人は悔しく感じるだろう。

もし、日本人がオッペンハイマーを描いたらどうなるだろうか。
その作品において、彼がハッピーな様子や、喝采を浴びている様子を描くことは、極めて難しいだろう。
それは私たちが、彼が開発した原爆の「被害者」だからだ。
ゆえに、私たち日本人に出来るのは、『ゴジラ』のような被害者としての作品をつくることだけだ。

戦勝国の人々は、「勝った」からこそ、第二次世界大戦を「正義の戦争」だと言うことができ、その一方でこの主張に反省の目を向けることもゆるされるのだ。

もし、日本がアメリカに原爆を落とし、戦争に勝っていたらどうなるか。

「八紘一宇」の精神のもと行われた"大東亜戦争"は、「正義の戦争」だったと喧伝され、天皇は「神」であり続けただろうし、国際秩序の中心には日本・ドイツ・イタリアが座り、軍の発言権が大きく世界に影響し、人類をとんでもないところに連れて行ってしまうかもしれない。
そして世界に責任ある立場の日本の知識人の間で「加害の意識」に苦しむ人が現れ、原爆投下への反省を口にしただろう。

だが日本は、「アメリカに負けた国」だ。

「アメリカに負けたこと」が、現代に至るまで日本を縛っている。
そして私たちは、そのことを知ってか知らずか、「アメリカに負けた国」で育ってきた。

この「敗戦国」であるという事実を、私たちはよく考えなければならない。
何も「卑屈になれ」と言っているのではなく、「私たちの未来のために」「私たちの成長のために」、この事実を直視せよ、と言いたいのだ。

なぜなら私たちは戦後、アメリカの「核の傘」の下、政治的成熟の機会を奪われた「リトル・ボーイ」として、幻のような平和を享受しているからだ。

そう、戦後の日本の平和は、日本がアメリカと同盟国であり、アメリカがオッペンハイマーが開発した技術を土台にした兵器を大量に持っていることで維持されている。

もし日本がアメリカと同盟国ではなかったら?
周辺の国々が、武力を用いて領土を拡大しにくるかもしれない。

ちなみに、2023年6月の時点で、アメリカで実戦配備されている核弾頭の数は1770であり、その数は世界一多い。

そのような状況にある私たちが、憲法と自衛隊をどうするべきかということ。
加えて、世界平和への責任を、唯一の被爆国である日本はどう果たすのか、ということ。

そういった重要なことを、学校は教えてくれないし、考える機会さえくれない。
大人になったらなったで、「生活」に忙殺されてそんなことを考える余裕もない。

「日本人の誇り」と言うが、歴史教育を変えるだけで誇りは取り戻せるだろうか。
日本の素晴らしい歴史を学ぶことは言うまでもなく重要なことだが、それだけではまるで「過去の栄光にすがっている、今はしょぼい人」のような国になってしまう。

過去も素晴らしいけど、今も素晴らしくてカッコいい。
日本がそんな国になるためには、冷静な現状認識と議論によって、政治的成熟を果たさなければならない。
(もちろんこれは、憲法9条を改正し軍隊を持つことだけが解決策だということを意味しない。核兵器も軍隊も要らない世界をつくるためにできることだってあるはずだ。それは夢物語かもしれないが、想像することも必要だ)

『オッペンハイマー』の映画からはやや飛躍したかもしれない。
だが私は思う。このような大人の芸術作品を観る私たちも、大人として成長しなければならないと。

ひとりの日本人として成長したい。ならばこの映画は、「原爆」と「敗戦国である事実」を思い起こし、成長の機会とするために、"使える"ものなのだ。

とはいえ、映画を観る上での態度を「自分を決める」というのも、大人として重要なことだ。
だから私は、私が言ったように映画を観なかった人とも語り合ってみたい。

しかし、この文章を最後まで読んでいただいたのも何かの縁なので、「大人として」ご自身の映画鑑賞、あるいは感想をまとめる際の参考にしてもらえたら、非常に嬉しく思います。

この記事が参加している募集

映画感想文

映画が好き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?