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祖母のレモンのマドレーヌ


マドレーヌが食べたい、という娘のリクエストをうけてから、もう1週間がたっている。そろそろつくりましょうかと材料はそろえたけれど、腰がおもい。

型がないのだ。
マドレーヌといえば、あのかたち。あの貝殻のシュッとしたやつ。買おうか迷ったこともあるけれど、立派すぎるし、高価だし。そもそも、こってりとしたマドレーヌを子どもたちはほんとうに好きなのか、この先もずっとずっと好きなのか。それさえもよくわからないし、なんなら私も夫もフィナンシェのほうが好きだし。などとごちゃごちゃ考えて、なかなか型を買うことができない。

とりあえず家にある型でつくろうと、丸い縦長のセルクルを引き出しから引っぱりだした。


たまごをわり、濃いめのはちみつとグラニュー糖を加えて、泡立て器でかき混ぜる。
チャカチャカ、チャカチャカ。
泡立て器のなる音は、どうしてこんなに心を踊らせてくれるのだろう。

たまごはつぶれ、はちみつは溶け、砂糖は黄色く色づいていく。
形をかえ、まざり合い、新しいものが生まれるような気がする瞬間。
魔法のかかったしらべのように、音をきざむのが、ただただたのしい。

しばらく混ぜ、液がなめらかになったのをみて、レモンをひとつ手にとった。


***

それは、先日実家から届けられた、亡き祖母の家の庭に実ったレモンだった。もの好きだった祖母が、みなの知らないうちに植えていたのだ。

祖母が亡くなった年の冬、庭をぼんやりながめていると、茶色く枯れた木々の合間にぽっかりと、鮮やかな黄色が浮かんでいるのを見て、自然と涙がこぼれたことを思い出す。
主がいなくなってからも変わらず毎年、実をむすぶ。

大切につかおうと、冷蔵庫に保管して2週間も経つのに、外皮は野に咲くタンポポのように黄色いまま。コロンとしたフォルム。外国産のレモンよりも、ややずんぐりむっくりして丸い。

おろし金でけずると、一瞬にしてさわやかな香りがたちのぼる。
鼻をひくひくさせながら、少しずつ位置をずらし、けずっていく。

薄力粉とベーキングパウダーを加え入れ、溶かしバターをぽってり流し、またチャカチャカとかき混ぜる。

それから少し生地を寝かせようと、ボウルを冷蔵庫にしまいながら、ふと祖母との記憶がよみがえった。


***

祖母は自宅で書道教室をひらいていた。

若くして農家の本家に嫁いだものの、どうしても夢をあきらめきれず、50歳を過ぎてから農業に加えパチンコ店などでアルバイトをして受講費用を捻出し、車で往復2時間かけて講座を受け、師範免許をとったのだと、亡くなる前の年、私にそっと教えてくれた。


私もその教室に、4歳から15歳くらいまで通いつづけた。
はじめての教室にワクワクした日も、思春期まっただなかの日も。


そうだ、あれは思春期真っただなかの記憶。
あの瞬間の居心地の悪さを、いまも鮮明におぼえている。
結局、祖母に謝れなかった。

それは、ある日の書道教室でのこと。私は中学生だった。

祖母が背後から私の握った筆を持ち、一緒に書くことで流れを導こうとした。それは正しい筆の運び方を教える、いつもの指導風景だった。それなのに、その日の私は、くさくさしていた。

そしてその時、何を思ったか、祖母が動かそうとする方向と逆の向きに、思いきりグッと力を込めて、祖母が筆を動かせないようにした。

力が拮抗し、筆がとまる。無言の対立。ささやかな反抗。

祖母もすぐ異変に気がついたはずだった。それなのに何も言わなかった。
どちらかというと気が強くて、気の短い祖母なのに。

それから祖母は小さく息をつき、さらに強い力をこめて私の筆を導いた。
私は手の力を強めることも、弱めることも、筆をはなすこともできないまま、引きずられるようにして字を書きおえた。


あの時、私はいったい何に反抗していたのだろう。
従わせようとする大人にだろうか。本音にすぐフタをする自分にだろうか。

殻を少しでもぶ厚くしていないと、過ごしていられないような時期だった。それなのに、自分の殻が嫌で嫌で仕方なかった。そんな矛盾ばかりの、脆く青くさい時代。


かたづけをして教室を出る時、祖母はいつもどおり、がんばったねと笑って言って、子どもの生徒に配っていた、ごほうびの小さな袋菓子を手渡してくれた。


***

レモンの皮はかたい。
削ったり切ったりすると、そこからカビたり腐ったりする。
だから、ぶ厚い皮が、中のみずみずしさを保ってくれる。

あの頃、殻をつくって必死に守ろうとしていたものは何だったのだろう。
今なら取るに足りないものだと思えるけれど、あの時期特有の大切な何か。
甘酸っぱくて、なつかしい。


***

冷蔵庫に寝かせておいた生地を型に入れて焼き上げると、
「ただいまー!」
という声がして、子どもたちが帰ってきた。

「わあ、いいにおい! きょうのおやつ、なあに?」
「マドレーヌだよ」

バターの焼けた香ばしいかおりが、部屋いっぱいにひろがっている。

「やったあ! え? これ、マドレーヌ?」
焼けたそれを見て、子どもたちがさわぎ出す。

「そうです、たてながマドレーヌです」
はらぺこの私はそう言って、みずからむしゃむしゃ食べはじめると、子どもたちはあわてて自分のぶんを皿にとった。

「うん、おいしい! かたちはちがうけど、ふわっふわでおいしいね」
「これは、きのこマドレーヌだな!」
「ちがう、イスでしょ。こしかけるマドレーヌ!」
「ブタのはなじゃない? ほら、ブタのはなー」

ケラケラと笑い、おしゃべりがとまらない。
口いっぱいにほおばって、10個も作ったはずのそれは、あっという間になくなった。

「またつくって!」
その声に、私は笑顔で大きくうなずく。


祖母のレモンの皮も思い出も、思春期のほろ苦さも。
いろんなものをチャカチャカと混ぜ合わせて焼いたマドレーヌは、変なかたちになったけれど、どれもおいしさの一部になって、子どもたちのたのしいにつながっていたらいいなあと思う。

ひ孫に会わせることはできなかったけど、子どもが大好きだった祖母も一緒に笑って食べているみたいだった。


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