見出し画像

SNSを辞めても繋がる人は、親友なのか。

僕は昔から、人の言葉や行動に影響を受けやすい。それは、プラスの意味でもマイナスの意味でも。これまでの人生、どちらかといえばマイナスに受け取ってしまうことの方が多かったかもしれない。最近特にそれを感じるのがSNS。例えば、Instagramは高校3年生くらいの頃(約8年前)からやっていて、その歴としては長い方なのだが、近頃はそこで目にするコンテンツに悪影響を受けている、気がする。なぜ、今になってなのか。自分でも不思議に思っていた。

よくよく考えてみると、みんながシェアするコンテンツが変化したことに理由がある気がしている。僕が高校を卒業する頃、または大学生の前半期頃に目にしていたコンテンツは「◯◯ちゃんとかき氷食をべに来たよ〜!」とか「先週、部活の仲間とディズニーへ行ってきた!」のように、自分の近い友人が日常のある一瞬を切り取ったものだった。でも、大学3年生を終える頃には、友人だけではなく広く一般人の「日常の全貌」をはじめ「人生」というコンテンツを目にすることが当たり前になってきた。これにはコロナの影響やTikTokをはじめとするショート動画が流行したことも関係しているはずだ。

見ず知らずの他人がどう生きているか、個人的には面白いなと感じて日々楽しく見させてもらっている。自分では決して買わなかったようなインテリアや知ることのなかった飲食店、考えることのなかった選択肢、そういうものが目の前にたくさん広がっている。いざ、言葉にしてみればそこまで悪くないようにも思える。

前置きが長くなってしまったが、そういったものを毎日目にすることで、実際のところは自分と比較しネガティブになることが増えている。自分の人生に迷いを覚えるようにもなったりして心理的には心地良くない。疲弊にまで繋がっている気もする。だからなのか、気づいたらデジタルデトックスに関する記事を読んだり、数日間泊まり込みで行う寺での修行のようなものに興味を持ち始めていた。

ならばいっそのことSNSを全て辞めたらどうなのか。そういうことも考えてみた。実際、1年以上前にTikTokを辞めて、若者の流行には疎くなった反面、読書や散歩など心に健康的な時間が増えた。でも、SNSを辞めて怖いと感じてしまったのが、友人との関係性だ。連絡ツールとしてのLINEは除くとして(メールは時代ではないので…)、InstagramやX、Facebook、noteなどSNSは「自分という存在を思い出してもらう」という役割があると思っている。その意味では、SNSをやらないことで、知らず知らずのうちに自分は忘れられてしまうのかなという不安がある。みなさんはLINEの友達一覧で「あ、この人に久しぶりに連絡しよう!」となるだろうか。僕はならない。SNSを通じて、久しぶりに連絡をしてみようと思うことがほとんど。つまり、SNSを辞めても自分に連絡してくれる人というのは、現時点で関係性が深い人に限られると思っている。たとえば、学生時代を振り返って真っ先に僕を思い出してくれる人というのは、当時から仲良くしていて、定期的に連絡をしていた人などだ。

SNSがあれば繋がっていた人と、辞めたことで繋がらなくなるというのは健康的なのか。不安だし、寂しいけど僕の人生には良いのかもしれないと思う。自分が連絡したい人には積極的にLINEで連絡を取ればいいし、僕を遊びに誘ってくれたりする人がいれば、それはそれでとても嬉しいことだ。数は限られてしまうかもしれないけれど、大切なのは数ではない。以前、『人生は引き算なのか。』という記事でも書かせていただいた内容に近いが、自分にとって本当に必要なものだけを残していくということが、今の時代を生きる人には必要なのかもしれない。少なくとも僕のような人間には。いろんな意味で。周りに流されない強さを持つという考え方、生き方もあるが、人生をより良くするという意味では、生きる環境を整備することも大切だろう。自分を必要としてくれる人、自分が必要とする人、プライベートくらいは本当にすきな人たちとの時間に捧げることに価値があると思う。そういう小さいようで大きな自分改革こそ、幸せへの一歩かもしれない。

この記事が参加している募集

スキしてみて

振り返りnote

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?