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人生は引き算なのか。

今朝のこと。いつもなら通勤時間は読書をすると決めているが、きょうはその気が起きなかった。それでなんとなく、インスタグラムで友人のストーリーや、いかにもサブカルチックな特段自分好みの投稿を見漁っていた。と、本当であればこんな調子で数十分電車に揺られていれば名古屋駅に着くのだが、きょうは違った。とある友人のことがふと頭に浮かんだのだ。たぶんそのとき聴いていた曲のせいだろう。何の気なしに音楽をかければ、その曲を知った頃、ハマっていた当時の記憶が瞬時に蘇る。これだから音楽って最高なんだと思うのだが。

「最近連絡を取っていないな〜」というその友人は大学時代の後輩Y。出会いはたしかサークルだった。学部も学年も違うし、こっちは八王子で一人暮らし、向こうは実家暮らし。ばったりキャンパス内や下宿先近くのスーパーですれ違うなんてことはほとんどなかった。日常的に話す機会こそ少なかったが、今振り返るとYは僕のことを結構慕ってくれていた気がする。もちろんサークルの期間はたくさん話したし、サークルが終わってからも(そのサークルは半期で8割のメンバーが入れ替わる珍しいものでした。)たまにLINEやインスタのDMでやりとりをすることがあった。久しぶりに連絡を取ればご飯を食べにいくこともあった。代々木や学芸大学駅、白金台あたりの引くほどオシャレなお店。「就活の相談をしたい」と頼ってくれたこともあって、自分に何ができるだろうと考えながらも、やっぱりそれは嬉しかった。Yは附属高校からエスカレーターで大学に進学したから友達は多かったはず。同じ高校の連れと一緒の大学に進めるなんて羨ましい。新しい友達を作りたくなる気持ちは当然あるだろうけど、それでも高校3年間を共にした友人がいるってのは大きいと思う。その中でだ。どうしてYは僕とそんなに遊んでくれたんだろう。いまさら思う。

Yのインスタのアカウントがないことには今朝、はじめて気がついた。自分のフォロワーを一人ひとりチェックしているなんてことはないけど、もともと大学時代の友人は限られた人しかフォローしていないおかげでそれに気がついたのだろう。だからどうってわけではない。単にインスタをやめたのか、アカウントを変えたのか、はたまたブロックされたのか…。その答えを詮索したいとも思わない。でも、なんだか寂しいなと思った。大切な大学時代の4年間の一部には、間違いなくYとの時間がある。Yに限らず、あの頃の濃い時間を過ごした友人たちと知らず知らずのうちに距離ができ、もう気軽には連絡を取らない関係になっていくのはどうなんだろう。一定期間、連絡を取っていなかったことは事実。ということは、それまでなのか。今はお互い社会人で、あの頃と見ている世界も違うし、いろんな部分の価値観が変わったはず。でも、あの日々で感じていた楽しさは本物だったと思う。今のことも過去のことも他人のことであれば、それはどこまで考えたって僕の憶測や妄想に過ぎない。

Yと最後に話したとき、総合広告代理店に進んだと言っていた。今いる自分の業界と決して遠すぎない場所だ。


”縁があればいつか再会できる”


恋愛の話になると時折でてくるこの言葉。真実なのか、一つの解釈なのか、僕は前者であると考えている。これは恋愛に限らず言える真実だ。何より僕とYは別に恋人関係だったわけではない。僕には今年の8月で付き合って3年を迎える彼女がいるのだが、出会いは小学生の頃。高校以降はお互い別々の道を進むことになったが、一つの縁で再会し、恋人となった。ここで肝心なのは、僕らはもともとただのクラスメイトであったということ。”一度別れた”なんて枕詞がつくような関係性ではない。蛇足したが、Yとも縁があれば再会できるのだろうかということ。できなければ、それだけのこと。こちらから求めるものではないものなんだと思う。ただ、人は誰しもそんな日が来ることを想像しながら進むのもまた面白いじゃないかと思う。思い出は思い出。そこが一番輝いていればいい。いい広告、デザイン、コピーを生み出すために大切なのは、引き算だというけれど、はたして人生もそうなのか。それなら、完成するまでの時間が一番面白いのかもしれない。こんなことを考えているうちに、電車は8番線に到着した。

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