裸になれなかった私|塩田千春展 in 森美術館
私は芸術家にならなかった。
昔から絵を描くことが好きで、高校から美術科に通い、美術大学で油画を描き、22歳くらいまで自分は作品でごはんを食べる人になるのだと信じていた。
でも、
「あれっ?」
おかしいな。
ぜんぜん裸になれない。
描きたくてしょうがない気持ちとか。ふつふつ湧いてくる創作意欲とか。急にやってくる不思議な言葉たちとか。つくるための衝動は、それなりにあるように思う。なにより、つくることが好きだし、私にはそれしかできることがない。
けれど、気づいてしまった。
裸になれないことに。
おそろしくつまらないペラッペラのなにかに、負けているのだと思った。
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令和元年、7月。
森美術館にて『塩田千春展 魂がふるえる』を観た。
もともと塩田千春の作品が好きで、学生の頃、名古屋の名門ギャラリー・ケンジタキで幾度か展示を観て、それこそ、心がふるえていた。
言葉にできない感情が、そこにあった。
せつない。こころぼそい。不安。愛しい。懐かしい。
どれも当てはまるような、当てはまらないような。でもたしかに経験したことのある感情が、糸に紡がれたり、ドローイングになったり、オブジェのかたちになったりして、そこにあった。
その糸が、時を経て、場所を越えて、するする、するすると、令和の六本木につながっていく。
森美術館の大空間に広がる、塩田千春の糸。
本展は、塩田千春の過去最大規模の個展です。副題の「魂がふるえる」には、言葉にならない感情によって震えている心の動きを伝えたいという作家の思いが込められています。大型インスタレーションを中心に、立体作品、パフォーマンス映像、写真、ドローイング、舞台美術の関連資料などを加え、25年にわたる活動を網羅的に体験できる初めての機会になります。「不在のなかの存在」を一貫して追究してきた塩田の集大成となる本展を通して、生きることの意味や人生の旅路、魂の機微を実感していただけることでしょう。
出典:https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/shiotachiharu/
展示の説明を、素晴らしく明解なオフィシャル文章に託し、私はつらつらと自己解釈を綴ろうと思う。
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塩田千春作品には、赤が多い。
たぶん誰もが「血」を想起するだろう。
私も、血を思った。
からだのなかにドクドクと流れる血液。つまりは命。自分と家族や親族をつなぐ血縁。社会的なんたら。そして作品に通う血。
初期作品のひとつに、こんなキャプションがついていた。
「テクニックが先行していて、空っぽで、なにを描いても誰かの真似でしかなく、絵を描くことをやめた」
大学1年時に描かれた抽象画に添えられた言葉。
たしかに、「ふつうに上手い絵」だった。
血は通っていなかった。
それから彼女は絵を描くことをやめ、からだに絵の具を塗り、自身が絵画になるパフォーマンスをし、ドイツ留学をして芸術家としての道を歩んでいく。
――――――
血の通った作品を生み出すには、裸にならないといけない。
私は裸にならずに、血を流さずに、よさげな作品をつくろうとしていた。そんなことは本当に無意味だと思ったから、芸術家にならない道を進んだのだと思う。
けれどいまは、こう思っている。
芸術家じゃなくとも、裸になって、血を通わせないと、一流と呼ばれるものにはなれない。まわりのひとに喜んでもらえるような、ハッピーにできるような、いいものは生み出せない。
いまこれを読んでくれているあなたがもしも、プロと名の付くなにかに向き合っているのなら、ぜひ塩田千春展に足を運んでほしい。
きゅっと心がしめつけられて、魂がふるえて。
あなたが向き合っているなにかに、力を与えてくれると思うから。
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塩田千春展 魂がふるえる
森美術館(六本木ヒルズ 森タワー53階)
2019/10/27(日)まで
https://www.mori.art.museum/jp/
自分メモ / 観た展示 / クリスチャン・ボルタンスキー展(国立新美術館)/ クリムト展(東京都美術館)
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