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デトロイト、デトロイト、デトロイト!

前評判がとても良く、キャスリン・ビグローの監督作は全部見ているし、どれも良かったし、142分か、よし!と気合いを入れて見に行ったもの。

デトロイト

67年、夏のミシガン州デトロイト。権力や社会に対する黒人たちの不満が噴出し、暴動が発生。3日目の夜、若い黒人客たちでにぎわうアルジェ・モーテルの一室から銃声が響く。デトロイト市警やミシガン州警察、ミシガン陸軍州兵、地元の警備隊たちが、ピストルの捜索、押収のためモーテルに押しかけ、数人の白人警官が捜査手順を無視し、宿泊客たちを脅迫。誰彼構わずに自白を強要する不当な強制尋問を展開していく。(映画.comより転記)

何て言えばよいのか…。負の感情しか沸き起こらない。

昔、こんなことがあったのか。もっと何とか出来なかったのか。今こそ当時の警官達を追求できないのか。やるせない気持ちばかりが募る。

そして、今でもこの映画について、私自身が考える「最も相応しい言葉」で感想を言い表すことができずにいるのだ。

いい映画? うん、とても「いい」映画だよ。でも周りに強く見てねって言えない。このフツフツと湧き上がるどうしようもない気持ちを何に昇華させたらよいのかわからないから。

時代がそうだったのだ、仕方ない、なんて聞きたくもない。アメリカは何も変わっていない。変わろうとする素振りは何度も見せてきて、たしかに変わった部分もあると思う。あのアルジェモーテルで起きた事件は、アメリカ自身が見たくもない事実であり、今、それを見て何をどうすべきなのかを皆で考えよう、でもないんだと思う。だって、警官による黒人射殺事件は相変わらず起きているし、そのほとんどが裁かれず、裁かれても抜け道はありまくりで、軽い刑で済む。「フルートベール駅で」を見たときもそうだった。

そして、昨日偶然にもNHK BS1のドキュメンタリー「デトロイト暴動 真実を求めて」という番組を見た。2014年にニューヨーク、スタッテン島で起きた複数警官による黒人男性圧迫死事件報道から始まる。彼は違法たばこを路上販売していて拘束される際、警官らに取り押さえられ、首を圧迫され、そのまま生き絶えた。通行人がその全容をスマホで撮っていたが、警官たちは不起訴になった。

何度でも言う。

アメリカは何も変わらない

アルジェモーテル事件をその当時克明に記録したジャーナリスト、ジョン・ハーシーの孫キャノンが、50年後、祖父の足跡をたどりながら進むこのドキュメンタリー。当時取り押さえられた黒人男性の一人や、守衛だった黒人男性、また白人警官たちを弁護した弁護士のインタビュー、また事件を起こした白人警官のうちの一人とのメールでのやりとりなども挟まれ、とても興味深かった。

弁護士の言っていた言葉が印象的だ。「当時の警官というのはブルーカラーの白人ばかり。ろくに教育も受けずにそんな彼らが正義をふりかざす。黒人といえば「犯罪者」だし実際そうだった。ろくでもない奴らから市民を守るために彼らがいた」と。(一言一句同じではないです)

アメリカ国民皆が共犯者である」としたためたジョン・ハーシー。それは私が映画を見て感じたことと同じだった。事実、無罪になった警官たちは、その後、連邦裁判所でも国が定めた公民権法違反として裁かれたが、それも無罪になった。つまり「国が負けた」も同然だと。

今もデトロイトのあの街は壁で分断され、白人居住区と黒人居住区に分かれている。

「俺たちはあっちに行ったら酷い目に遭うから、絶対に行かない」

これは、黒人男性が言った言葉。いるだけで、厄介者扱いされて、酷い仕打ちを受けるから。

50年前と何も変わらない。むしろひどくなっているのかもしれない。互いに理解しようとしてもしきれない大きな何かがアメリカ全体に横たわっている。それを押しのける力は今のアメリカにない。

この映画をとおして、「傍観者」である私は、何をすればいいのかは求められていない。でも考えた。ひたすらに考えた。私が見てもこの感情の行き場の無さをどうしようかと考え込むくらいだから、アメリカの人々はそれ以上だろう。それでも白人、黒人双方の諦めのようなものも感じられて。今、この映画が上映される意味ってあるのかな。諦めたくない気持ちもわかるのだけど。

心に重くズーンときて、なんだか叫びたくなって、こんな記事タイトルにしてみた。

2018年7本目。TOHOシネマズ西宮OSにて。

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