見出し画像

コンセプト・ブックシェルフ 1話『令月にして、気淑く風和ぎ』(5月)

「う~ん……何だろうなあ~」

 リビングのソファに座り、新聞を広げている父さんがうなり始めた。

「何だろうなあ~。う~ん……」
「はいはい。何がですか、お父さん?」

 水のジャーッと勢いよく流れる音が止まった。台所にいる母さんが、いつもの呆れた調子で尋ねた。

「何って。アレだよ、アレ。わかるだろ?」

 父さんは新聞を見ながら、あごをしゃくるようにして言う。

「まーた始まったんだから。アレじゃわからないでしょう?」
「アレって言ったら、アレだろう。何でわからないんだ?」
「アレアレじゃわかんないのよ~」

 母さんがエプロンの裾で手を拭きながらリビングに来た。だからよそに向く。

「はあ。ちょっと高志? あんたもずっとごろごろしてないで。散歩でも行って来たら?」

 くそ。言われると思ったから、顔背けたのに。

「もうすぐ晩飯だろ母さん? そのあとにするって」

 振り向いて答えたあと、座ってた長ソファに横たわった。頭の位置がうまくおさまらないから、両手を枕にする。

「まったくもう! 普段からぐーたらばっかりして。誰に似たんだか!」
「俺は忙しいんだっての」
「え? 何だって?」

 母さんの呼びかけには答えない。
 俺は自分のことで手一杯なのだ。
 うんうん悩んでる父さんを尻目に。俺は俺で、強く悩んでいる。

「ただいま~」

 そんなとき。玄関からガチャリと戸の開く音と、能天気な声が響いて来た。

「は~今日も頑張った。チア部疲れる~」
「おかえり美咲。お風呂沸いてるわよ」
「は~いお母さん♡」

 はあ、姉ちゃんだ。今悩んでるっていうのに……ったくもう。
 しょうがなく体を起こして、リビングから廊下に出た。
 玄関で片足をあげていた姉ちゃんは、ローファーを乱雑に脱ぎ捨てた。バトンが突き出たバックを足元に置いている。

「あ、高志ただいま。わたしのバッグからお弁当箱出しといてくれる?」
「あのさあ、だから毎回こうして来てるだろ?」 

 しぶしぶ、言われずとも廊下まで拾い上げに行ってやってるというのに。バッグに手を伸ばしたとき、姉ちゃんの「ありがと♡」って声がした。
 姉ちゃんはそのまま風呂場に行き、手を振りながら扉を閉めた。

「ほんっと、何で毎日毎日こうしてるんだか……いよっ。うわ、重っ?」
「お父さん、美咲があがってきたらご飯にしましょうか? 支度は済んでいますから」
「う~ん……」

 父さんは母さんに答えない。俺は姉ちゃんのカバンをリビングのソファに置いた。

「何だろうなあ~」

 またかよ? 台所に戻っていた母さんが、後ろ姿で右手をあげて肩をすくめた。

「父さん、帰って来てからずっとそれじゃんか。いったい何に悩んでるんだよ?」

 まだ新聞を覗き込んでいる父さんに、聞きたくないのに聞く羽目になってしまった。

「ん。だから、お前さ」
「アレ禁止」
「うぬ……」

 先手を打って父さんの得意技を封じておく。

「あがったよ。おまたせ~♡」

 元気な声に振り向くと、肩から湯気を出す青パジャマ姿の姉ちゃんがいた。

「姉ちゃん、それ俺の?」
「高志のにおいがする~」

 袖を鼻に持っていって嗅ぐ。

「いやいや俺のパジャマだし。つーかやたら風呂あがんの早くね? ちゃんと洗ってんの?」
「だって晩御飯できてるでしょ? みんなを待たせるのはやだし~」

 まだ弁当箱をカバンから出してないぞ? すると姉ちゃんがカバンに近寄って、開けた。俺に手渡す。いや出したなら自分で行けよ。
 くそ。弁当箱を水に漬けるため、台所に立ち寄る。

 そのとき……ソースの温い香ばしさが、たちまち香った。
 腹が急激に空く。そりゃもう、ガツンと来た。
 食卓の上を見ると。
 チンジャオロースの大皿が湯気をたてていた。ピーマンの緑とパプリカの赤。たけのこの黄色。そして豚肉。我が家では豚肉なのだ、父さんの好みだから。
 それらすべてが、とろみのある、黄金色のソースで絡められている。箸で掴んだらとろりと持ち上がりそうだ。
 見れば見るほどてらてらと輝いて、香ばしい。姉ちゃんを見ると、つばを飲んでいた。

 その大皿を取り囲むように。まぐろの叩き。きゅうりの漬物。プチトマト。白菜のキムチ。
 大小の皿が並んでいた。チンジャオロースの濃い味を引き立たせるラインナップだ。
 4つの席の前には、伏せたお椀とお箸かあった。

「うまそだね。高志の好物でよかったね~」

 姉ちゃんがにやにやしながら言った。む、と思って見やると。
 よく見たら髪が濡れていない。帰って来たときのままだ。 

「髪、ちゃんと洗ってるのか?」
「朝シャンでゆっくり手入れするからいいの~。ほら高志のにおいする♡」
「袖をこっちに向けなくていいから!」
「あんたたち、くっちゃべってる暇あったら手伝ってよ?」

 台所の母さんが振り向いた。

「は~い。ほら高志、手伝え♡」
「姉ちゃんだって怒られただろ! 姉ちゃんこそ手伝え!」

 と言っても、お互い手伝うことなんてもうなかった。姉ちゃんがご飯をよそって、俺が味噌汁をよそって並べたぐらいだ。
 万能ねぎをちらした味噌汁は、薄く味噌の香りがした。食卓の味をさらに引き立たせてくれそうだ。

「よし。いっちば~ん♡」

 姉ちゃんがするりとした身ごなしで、食卓の席にいちばんに座った。

「あ! ずるいだろ!」

 慌てて俺も席に座ろうとする。
 カップの納豆を冷蔵庫から出して、並べている母さんがため息をついた。

「いつまでもはしゃいでないのよ? 父さんを見習いなさい」
「え。父さんをか?」
「お父さんいつもお疲れ様~♡」
「いっ、痛! 痛えだろ姉ちゃん!」

 母さんに睨まれて、座った姉ちゃんから脇をつねられた。痛ってえ……。俺だけが悪いのかよ!?
 姉ちゃんの腕に引っ張られるがまま、隣の席に着いた。何か納得いかない。
 母さんは、俺の正面の席に座った。

「ほらお父さん、いただきますよ!」
「ん……」

 父さんは、いかにも「重い腰を上げて」といった風に、新聞を持ったまま席に着いた。
 父さんの席が、廊下からいちばん遠い。いちばん近いのは俺だった。

「揃ったね。それじゃ、いただきます!」
「……いただきます」
「はい、いただきます♡」
「ん」

 全員で声を合わせたあと、右手で箸をとった。まずは味噌汁をいただく。……鰹節と昆布の旨味を感じる。ほどよい熱さが喉元を通った。
 大皿のチンジャオロースを、自分のご飯の上にとりわけた。一緒にかきこむ。
 ソースの濃い味とピーマンの苦味、たけのこの歯ごたえのよさ。豚肉やご飯の触感が絡み合って、ああ、やはり母さんの味だ。

「たまんねえ……」
「もー。はしたないよ高志。その雑に食べる癖やめたら?」
「姉ちゃんだって家じゃバッテン箸じゃねえかよ? 俺よりよくないぞ?」
「外ではきちんと使ってるからいいも~ん♡」
「おい、お前たち。わかんないかアレ」

 父さんが新聞を下ろして、俺たちを見つめて聞いた。
 食卓はしんとする。
 母さんはしょうゆを取りながら、父さんのほうをちらと見て、ため息をついた。

「やめてくださいよ、食事中に」
「いっつもアレだね~? アレがたくさんで、どのアレなの?」
「ばっかじゃないのほんと」
「お母さん、それ言いすぎ~。でもわかる~」

 女性陣から非難轟々で、さしもの父さんもしょんぼりしてしまう。

「だから、アレだって。新元号……」

 新元号。
 今最も、聞きたくない単語。

「あ~そっか。お父さん、大変だもんね? いつもお疲れ様」

 姉ちゃんがすかさず父さんをねぎらった。

「お父さん。仕事で悩んでるのはわかりますけど、食事中はやめてください。……あとでゆっくり聞きますから」

 母さんも、毒をはらみつつも父さんをいたわった。

「高志も何か言ってあげなよ?」

 姉ちゃんが俺のほうを向く。

「俺が? 何で? 何言えばいいんだよ?」

 食卓に出された納豆を箸でグリグリかき混ぜる。

「高志って悩みなさそうだもんね~」

 姉ちゃんはけたけた笑いながら味噌汁のお椀に手をつけた。くそ、その言葉をそっくりそのまま返したいのに。
 俺は俺で、手いっぱいなのに。
 でも口をつぐんだ。今はケンカをする元気もない。
 元号改正。それに伴う、新元号の発表。
5日後に控えてる、国の一大事。
 期待している人もいるのだろうけれど。俺にとっては……。
 来てほしくない。
 
 ◇

 次の日は、4月27日の木曜日。休日だ。
 俺は特に用事がない。いつだって無いけど。だから家にいることにする。
 自分の部屋にこもっていてもいいんだけど、そうすると俺はゲームばかりしてしまう。悩むときはリビングがいちばんだ。
 母さんがせわしなく動き回る姿が見えた。やれ洗濯。やれ掃除機。買い出しだって午前中に済ませてしまった。今日はパートが休みだから。
 そう急がなくてもいいのに。リビングの生ぬるい暖かさに包まれながら、そう思う。

「高志、あんたヒマならちょっとは手伝う?」
「パス」

 ソファに寝転がりながら、母さんに背中を向けた。
 見えなくなると、音や気配が増大する。背後で忙しなくいろいろやってる。当てつけか? 耳をふさぐ。
 ……静かになった。

「何してんの?」

 振り向くと、母さんはカレンダーの前で立ち止まっていた。

「はあ~」

 カレンダーを見つめたまま、わざとらしく頬に手を添えた。

「困るわぁ~」
「知らねえよ。なんで困るのさ?」
「だって高志~」

 あからさまなつくり声でそう言う。こういうところが姉ちゃんだ。

「困ることはないんだけどさぁ。はぁ~~」

 ため息が長い。母さんの年で姉ちゃんみたいなのは手厳しい。

「なんとな~く」

 俺のほうを向いて、甘い感じに首をかしげた。

「なんとなくで困られるのも、こっちが困っちゃうだろ」
「空白の期間があるのがもやもや~っとする」

 そう言い放って、母さんは掃除機を持って廊下に出た。
 ……ソファから身を乗り出して、カレンダーに注目する。
 西暦が印刷されていない、不自然な空白。右上に目立つ。
 そこには絶対に何も書かないでほしかった。
 
 ◇

 ただいまの声が響いたから、姉ちゃんが帰って来たってわかった。
 リビングの窓を見ると、庭が夕暮れがかっている。
 玄関まで迎えに行くと、また雑にローファーを脱ぎ捨てていた。

「もーゴールデンウイークなのに何で部活あんの~? はい高志、お弁当箱出して!」
「自分でやれって! こっちは忙しいんだよ姉ちゃん!」
「忙しいわりには、言わなくてもこっち来てくれたんだ。優し~♡」

 くそ、これだ。いつもやりこめられる。
 いつものようにやたらと重いバックを持たされる。何入れてんだよ? 今日の姉ちゃんは汗をかいていないみたいだった。一緒にリビングまで直行する。
 台所へ足を踏み入れた。……はた、と後ろの気配が静まった。
 何だ? と思って振り向いたら。

「ああっ、わたしもついに平成生まれというのが終わっちゃう!」

 姉ちゃんは急に頭を抱えた。

「どうしたんだ姉ちゃん?」

 発作か? と言おうとしたけど、姉ちゃんが傷ついたらかわいそうだから、言わない。

「助けて高志~!」

 後ろでバタバタしはじめた。子どもか?

「助けてって、何からだよ?」
「昭和昭和ってさ、今までそう言ってたのがさあ~。ね? 」

 姉ちゃんはぐずった。そばに来て、俺の着ているパジャマの裾を掴んだ。

「平成だ、って~! イヤー!」
「……どういうこっちゃ?」

 姉ちゃんはときどき、父さん譲りの説明下手を発揮する。

「だって。わたし、平成生まれだよ? 高志だって平成生まれなんだから!」

 姉ちゃんはマジな顔だ。

「はー……それってよ。平成生まれ、てのがバカにされる対象だってか?」
「だって!」

 うるうるした大きな瞳で、ぐいっと前に詰め寄られた。

「古きよき昭和、とか言われてたのがさ? 平成って古い! とか言われるんだよ!? 平成って言葉が過去になるの!」
「お、おう」

 両手を握られる。力が強い。

「知ってる!? 10代後半っておばさんなんだよ!? 『おばさん』!! あーもうっ、世代交代早すぎ~! 今生まれが小学生になるころには、あたし、おばさんっ!」

 腕をぶんぶん振られる。

「そりゃしょうがないだろ? てか昭和の母さんはどうなるんだよ?」
「お母さんは美人だからいいの! 美人は才能、かわいいは努力!」

 また姉ちゃんの口癖かよ? すぐそれを唱えたがる。

「今すぐでもないだろ。あと10年はあるんだから落ち着けよ」

 姉ちゃんは目をつむって、首を振った。

「わたしが生きていた、ときめいてた時期が! 古いって!」
「いっ、痛、痛えって!」
「信じられない、耐えられな~い!」

 そう叫ぶと、やっと手を離された。
 廊下に引き返して、自分の部屋にこもってしまった。
 ……せめてバッグくらい持って行けよな。
 
 ◇

 この日の父さんの帰りは、遅かった。リビングの時計は午後9時を回っていた。
 なるべく家族全員で食事の時間を合わせたい。母さんをはじめ、姉ちゃんも俺も待っていた。

「腹減ったよ~早く食べよ? 父さん帰ってきたぞ?」
「お黙り、高志! お帰りなさいお父さん。お風呂を先になさいますか?」
「えっ、嘘だろ!?」
「わたしたちのお腹事情どうなっちゃうの!? もう我慢できなぁ~い」
「ん」

 父さんは首を振って、背広を母さんに預けた。

「やり~。さすがお父さんわかってる♡」 
「あんたたち態度悪いよ! 特に高志!」
「ちぇ。いつも俺ばっか。腹減った~」

 全員で食卓に着いた。
 今日の食卓のメインはにしんの塩焼きだ。頭は切り取られて、胴体からしっぽまでに上手な焼き色がついている。にしんの皿には大量の大根おろしも添えられていて、醤油をかけて食べればさぞ胃にガツンとくることだろう。
 焼き魚の香りが目の前からぷんとした。

 今日は食卓に大皿はない。にしんの塩焼きをはじめとして、餅入り巾着の煮物、ほうれん草とベーコンのゴマ和え、カブの甘酢漬け、大根とにんじんのきんぴら、湯通ししたブロッコリーに母さん特製ソースをかけたもの。今日の味噌汁は、豆腐と揚げがメインだった。魚料理にはたまらないラインナップだ。

「にしん、お父さんの好物だもんね~♡ お母さん、何回も温め直してたんだよ? 優しいよね~。てかお母さん、今日のにしん狙って出したでしょ?」
「……知りません。ほら、いただきますよ!」

 いただきます、の声が3つ重なった。ほんとは4つあるけど、父さんのはやっぱり、言ってるか言ってないかわからない。
 味噌汁に手をつける。いつもより薄味で、これもまたうまい。徹底してメインのにしんを引き立たせる狙いだろうな。
 何でにしんの表面って、黄金色に輝いているように見えるのだろう。腹が空いているからそう見えるのか。頭のほうから尻尾に向かって、背骨に沿って箸を入れる。骨を避けながら、まず上身を食べる。脂が乗っている魚の肉。うまい。

「お父さん。明日からは、もっと大変?」

 姉ちゃんが、心配そうに父さんを覗き込んで言った。

「……ん」

 父さんはうなずいた。左手で味噌汁の椀を持ち、静かにすする。

「お父さん。明日から高志と美咲は、晩御飯を先にいただいていますね。私は、お父さんの帰りを待っています」

 母さんの言葉にも、父さんは無言でうなずいた。
 姉ちゃんからまた、俺は視線を注がれた。

「何だよその目?」
「高志、ほら」

 別に言うことなんてないって。うながすなよ姉ちゃん。別に……。
 

 父さんはプログラムを仕事にしている。
 普通、長期間プログラマーをしていたら、もっと昇進してマネージャーとかになる。……らしい。
 けれど父さんは、現場で働くのが好きみたいだ。だからか、現職に留まっている。
 前に少し聞いたら、言葉少なにそう言っていた。
 今年の4月に、プログラマにとって、とてつもなく大きな事件があった。
 元号変更。――新元号の発表。
 ほんの2文字が、別の2文字になる。
 それだけのことなのに。
 途方にくれるほど、膨大な量の作業と向き合わなければならない――きっかけになった。

 俺が生まれる前の、西暦2000年を迎えたときのこと。
 コンピューターにおいて、西暦は「下ふた桁」までしか登録されていなかった。 
「1998年」の場合、下ふた桁で「98」と入力すればいい。
 ところが、同じ要領で「00」と入力すると、それは2000年にはならない。
「1900年」とコンピュータは認識する。
 大勢のプログラマ、システムエンジニアが、この2000年問題解決のために駆り出された。
 政府機関や金融機関などの、生活に重要なシステム修正のために。

 元号発表は、4月1日だった。
 施行は、5月1日。……今日から数えて4日後。
 時代が大きく動く、歴史的な1日になる。
 プログラマからすると、別の意味で歴史的な1日になる。
 4月の発表以後、父さんたちプログラマは、修正のために精力的に動いていた。
けど、とてもじゃないが無理らしかった。
 時代が2000年とは違った。
 パソコンの内部に入っている「ソフトウェア」も、パソコンだとかタブレットだとかスマホの「ハードウェア」も、複雑になっていた。

 このことは、父さんが喋ってくれないから自分で調べた。
 幸い俺には、時間だけはいくらでもある。
 父さんは何も言わない。けど、追い込む時期を、今日に定めたみたいだ。
俺たち家族も、察していた。
 

 そういえば今日の父さんは、食卓で、新聞を見ることはしなくなっている。
 腹をくくったのかな。

「父さん」

 俺は、ご飯のお椀を置いた父さんに喋りかけた。

「帰って来るところがあるんだから、頑張ってよ」
 父さんは相変わらず無言だった。
けど、口の端っこが、曲がっていた。

 ◇
 
 ご飯を食べ終えて、歯磨きして風呂に入って。
 自室のベッドにもう潜り込んでいた。
 暗闇だと、雨の音がしとしとと聞こえてくる。庭を濡らす。屋根にぶつかる。ぴちょぴちょと甲高く、ぺとぺととやかましく、不思議なリズムを刻む。
 自分が寒くないなら雨は好きだ。
けど、闇の中で雨音を聞くと、悩みの輪郭がぼんやり浮かぶような気がして、落ち着かない。
 そう。部屋の闇の中で、輪郭だけが、ぼんやりと浮いている。
 俺の悩み。
 心の奥深くに巣食っている、不安。

「高志~起きてる~?」

 自分の奥深くに潜ろうとしていたそのとき。
 闇をかき消すように明るい声と、ノックが聞こえた。

「おっ、開いてるじゃん。てか暗! ……高志? まだ寝てないでしょ?」

 ぐ。見つめていた天井が、一挙に明るくなる……緑だか赤だかのネオンが、まぶたの裏でちらつく。

「勝手に入るなよ! 何だよ姉ちゃん、何の用?」
「一緒に寝よ♡」

 姉ちゃんが枕を持って言ってきた。

「寝るのに明かりをつけたのかよ? ていうか、寝よ、って。姉ちゃんいくつだよ? そんな年じゃないだろ?」
「も~わがまま言わないの。わたしが寂しくなったから♡」
「そんな理由かよ?」
「ほらそっち!」

 俺の反論むなしく、姉ちゃんがベッドにぐいぐいと潜り込んで来た。

「明るいまま寝る気か?」
「逆だし。寝かせないから♡」
「どっちなんだよ、もう……」

 やはり姉ちゃんには、口では勝てそうにない。俺のポジションは奪われるがままだ。
 ずうずうしく入って来た隣の、ずれた布団をそっとかけ直した。

「ん、ありがと。あったかい♡」
「ちょっと休んだらすぐ戻れよ?」
「へへへ~やっぱ恋バナ安定?」
「姉弟で恋バナってどうなんだよ? ……姉ちゃんはいるのか?」
「わたしちょうど彼氏がいないんだよね。あ~元号が変わるのにな~」
「元号と彼氏は関係ないだろ?」
「あるって! 世代を超えて一緒だった仲って、いいじゃん?」

 正直――姉ちゃんは、いろんな男をとっかえひっかえやってるタイプだ。
 母さんもだけど、モテる。だから、いろいろとまあ、よくそんな言葉が出るなと思ったよ。言わないけど。

「でもイヤなんじゃねえの? 平成生まれがバカにされるんだろ?」

 言葉を選んで、でも本音で言った。
 姉ちゃんは、布団の縁を、袖を握るみたいに両手の指だけで掴んだ。

「ん。……でもさ、進まなきゃ」
「進む? どこに」
「時代はさ、後ろには戻って来れないんだよ。ずっと進むの。だからわたしたちも進まなきゃ」

 新年号になるのに。
 今までの俺は、……俺は、何もやって来なかった。
 ぐーたらしてた。
 毎日、特にやることもなくゲームだの。
 母さんのつくった朝飯食って、歯磨きして、風呂入って、ゲームして、ゲームに疲れたら昼寝して。
いつの間にか部屋に置かれてた昼飯食って。姉ちゃんを出迎える。夕食を食べる。終わり。
 寝る。寝たら、明日が来る。
 それだけ。
 空費。
 自分の気苦労から逃げた結果は虚無だ。
 毎日、毎日、1日が無駄になる。
 このごろ何もしてないのに吐き気を催すくらい焦ってる。
 せっかく生まれて来たのに。
 生まれたからには、世界に何か足跡ひとつを残したい。
 俺という可能性を世界に知らしめたい。
 平成が終わる。
 俺はこのままでいいのか。
 暇さえあればゲームをやっている。
 けど俺は何をしたいんだ。
 明確な目標だとか、燃えるようなことだとか、自分がコレだ、と思って打ち込むことだとか……。
 わかんないよ。
 ゲームクリエイターとか、イラストとか、漫画家とか、たくさんやってみたいことはあるけど。
 助けて。
心の中で、俺はこれを何度も唱えていた。
 情けない自分を晒したくなくて、ずっとリビングで「助けて」の念唱を堪え続けていた。
 俺は……。

「たーかしっ」

 胸と背中が、ぎゅっと締め付けられた。
 背中が温かい。ふっくらした、ふたつの感触。これって。

「姉ちゃん、ちょっと! まずいってそれは!」
「恥ずかしがるな~。暴れるな~♡」

 鎖骨の辺りに、姉ちゃんの両手が置かれた。
 ……俺がじたばたしても無駄らしい。

「構ってくれないから寂しいぞ♡」
「そういうわけじゃねえって……」

 困りに困って、感触を意識しないように、部屋を見渡す。……暗闇。
 いつの間に、明かりを消したんだろう。いや、そんなことよりも。

「姉ちゃん。聞いていい?」
「ん? 何?」
「姉ちゃんは、焦らないの? ……自分が、このままでいいのか、って」

 しばらく無言になった。
 そのあと、背中の気配が、もっと密着した。

「焦るな、高志」

 ぴん、と後頭部を弾かれた。

「焦らず、不安にならずさ。ありのままでいいんじゃない?」

 部屋には元の暗闇と静寂が戻る。
 くー、って、寝息がした。
 鎖骨に添えられていた手が、力なくベッドに落ちていた。
 ……焦らず、不安にならず。ありのままでいい、か。
 そうだな。
 それしか、言いようがないしな。

「そうだな」

 雨音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
 少しずつ、やっていけばいいさ。

 ◇

 5月7日、火曜日。
 天皇さまが即位されて、元号が変更してから6日が経った。
ゴールデンウィークは今日明ける。
 庭は晴れていた。母さんに朝食をつくってもらって、姉ちゃんを含めた3人で食べる。

「美咲、のんびり食べてていいの? 高志、あんたまだ着替えてもないじゃない。あら、もう8時なるわよ?」
「大丈夫~。遅刻します♡」
「ばっかじゃないの? あんた朝まで起きてたから眠いんでしょ。休み中ずっとだらけてたらそうなるのよ」
「ばれたか♡」

 舌をちらと出した姉ちゃんを、母さんが睨んだ。

「だって元彼からのラインがうざくて、でもすごく必死な姿がちょっとだけいいかも♡ って~」
「まったく誰に似たんだか……」

 たぶん母さんだ。父さんに似たとは思えない。

「ん」 

 俺は父さんみたいに、ほぼ無言で返事して、立ち上がった。
 食べ終わった食器を台所に持っていき、片付ける。
 リビングに戻ったら、……ふたりとも、座ったまま俺に注目してた。

「高志、今日何か用事あるの?」

 そう尋ねてくるのは姉ちゃんだ。

「そりゃそうだろ。ゴールデンウィーク終わっただろ? 外でないと」
「高志~、何かちょっぴり成長した? 前みたいにしかめ面じゃないし。好感持つぞ♡」
「え、しかめ面だったか俺?」
「それはもう」

 母さんがうなずいた。

「あんた、最近ふさぎこんでたから。心配してたのよ? このごろはあんなに大好きだったゲームもしないで。夜になっても早く寝るし、リビングで元気ないこと多かったし」
「ね~」

 ふたりで顔を見合わせて、一緒の方向に首をかしげた。あざとい家族だ。

「別にいいだろ、何でもよ。焦ることじゃねえ、何事もさ」

 本当にやりたいことは、本当にやりたいタイミングで、見つかるんじゃないか。
 そう思えたとたん、俺の体を支配していた焦りは、一気に遠くなったんだ。
何となく、予感はしていた。俺は父さんと同じ、プログラマになりたいんじゃないかな。
 ただ、父さんとは分野が違うけど。
 俺は物心ついたときからゲームが好きだった。
 けどゲームで遊んでいると焦りを感じる。
 だからといってゲーム以外に、日中ぶっ通しでやり続けられるほど、熱意のあることはない。

 来年、2020年から、小学校でプログラミング教育が必修になる。
 その内容は――プログラムをまったく嗜んでいない人は、小学1年生の内容から頓挫しかねないくらい、難しい。
 フローを1年生からやるらしい。フローとは、料理で言うレシピだって解釈した。どんな順番で、どんな処理を行うの? というプログラムの設計図。
 ちょっとでもプログラムを知っている人なら、このフロー作業は、鼻で笑うような内容らしい。現場では使われない。
 俺はその、父さんから鼻で笑われた内容すらも、まだわからない。
 チャンスだ。
 小学校でのプログラミング教育が始まる前に、一年早く学べる。
 自分でプログラムを組んで、それがゲームみたいに動いたとき。
 俺にとって、それがいちばんの喜びに変わる気がする。

「着替えて来るから」

 そう告げて背を向けようとしたけど。母さんと姉ちゃんの、きょとんとした顔が気になった。

「何だよ?」
「え。高志、パジャマならそこに吊るしてあるよ。どして部屋戻ろうとしたの?」
「制服は部屋にあるだろ?」

 ふたりは口を手で押さえた。こっちから見ると、顔も仕草も一緒。やっぱ、血がつながってるんだな。

「高志……ね、学校、行くの?」

 姉ちゃんにおそるおそる聞かれる。

「何なら一緒に行くか? というか、やっぱまだ怖いからさ。一緒に来てよ。俺も、わざと時間ずらして、遅刻の時間に出発しようとしてたからさ」
「高志は、大丈夫?」

 うるうるとした、真剣な大きな瞳で、姉ちゃんから尋ねられた。

「ああ。行ってみたい。進まないと、話にならないだろ?」

 ◇

 久々の学校は、やっぱり、怖い。
 喋る人はひとりもいない。
けれども、クラスが変わったから――俺に関わる人がひとりもいなくなっていたから、気楽だった。
 授業にも、いろいろついて行けなかった。特に数学は壊滅的。
 くそ、プログラムのためには数学には強くなっておかないと。
 けど、現段階でついて行けない、ってわかった。
 少しずつ勉強して行かなきゃな。幸い、教科書をていねいに見ていたら――。
そう追いつけないとは思わない。

 給食を食べ終わった12時半頃。やることもなく、机で頬杖をついていた。
 窓越しの席から見上げた、五月の青空は遠い。机の半分を埋める陽だまりが心地よかった。
 話し声も遠い。次の授業、移動教室の化学だったな。無人の照ったグラウンドを見ていると、俺ひとり教室に取り残された感じがした。

「おい。お前、町田だっけ?」

 ……俺か?

「町田高志だよな?」
「あ、ああ。そうだけど」

 指を示して聞いてきたそいつは、背がぐんと高くて筋肉質な、坊主頭。

「美咲さんに本当似てるんだな。お前なんで今日まで来なかったんだよ?」
「美咲さん? ……ああ、姉ちゃんチアだもんな。野球部か?」

 思い出してきた。去年も同じクラスだった……苗字はたしか、丸山。

「別に、焦ることはないだろ」
「はあ?」
「来たくなったから来たんだよ。次って理科だろ? 移動しようぜ」

 こう言う風に、自然体でクラスメイトと喋れることもなかった。けど、もう大丈夫だ。

「何だよ。ぜんぜん普通じゃん、お前」

 丸山は、にや~っとした笑みで、歩く俺の肩を叩いて来た。
 学校でも、やっていけそうかもしれない。
 父さんは今頃、何をしているだろうか。

 ◇

「ただいま。母さん、カレンダーある?」
「おかえり高志。どうだった?」
「そこそこ。カレンダーは?」
「そこに吊るしてるじゃない?」

 リビングに足を踏み入れると、母さんは呆れた顔をして、壁を指差す。
 5月の、西暦のところに何も記入されていないカレンダー。
 1枚めくって、5月を出した。
 書かないでと言ってきた。
 気持ちの整理がつくまで、その単語を見るのがたまらなくイヤだった。

「母さん」

 台所で夕飯の準備しているらしい母さんに呼びかけた。

「何よ? 忙しいのわかってるでしょ?」
「いつもありがと」

 恥ずかしくて、やっぱ、そっちに向きながら言うなんて、無理。
 カレンダーの右上の空白に、『令和』と、マジックペンで思い切り書き込んだ。

 令月にして、気淑く風和ぎ 完


 6月のコンセプト・ブックシェルフは、5月25日に投稿します。