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「遺伝子編集技術」生みの親はコロナ禍といかに戦ったか?(植田かもめ)

植田かもめの「いま世界にいる本たち」第37回
"The Code Breaker: Jennifer Doudna, Gene Editing, and the Future of the Human Race"(コード・ブレイカー:ジェニファー・ダウドナ、遺伝子編集、そして人間の未来)
by Walter Isaacson(ウォルター・アイザックソン)2021年3月発売

妊娠検査薬を試すように、ウイルスに感染したかどうかを自宅で簡単にテストできる日が来るかもしれない。

本書"The Code Breaker"はそんな未来を予想する。著者はウォルター・アイザックソン。『スティーブ・ジョブズ』『アインシュタイン』『レオナルド・ダ・ヴィンチ』など、数々の「革新者」たちの評伝で知られる作家だ。彼が最新作となる本書で取材した「革新者」は、遺伝子編集技術「CRISPR(クリスパー)」の生みの親として知られ、2020年にノーベル化学賞を共同受賞したジェニファー・ダウドナである。

……と聞いて、読む前は、「生い立ちから始まってノーベル賞を受賞するまでの物語」なんだろうな、と想像していた。偉人の伝記のような、過去を振り返る話を想像していた。

ところがそれは大きな間違いだった。これは極めてタイムリーな本で、ほとんど全ての人に関係がある。なぜなら、新型コロナウイルスに対する現在主流のタイプのワクチンである「mRNAワクチン」と、ダウドナの研究は地続きだからだ。本書の最初と最後の章は、コロナ禍の話である。ダウドナはパンデミック発生後すぐに世界中の科学者や企業と連携して、検査への協力などで何ができるかを模索したのだ。過去にはライバルだった科学者たちが協力し合う姿は感動的でもある。

「読めるけど書けなかった」遺伝子

まず、簡単にダウドナの生い立ちと研究について紹介しよう。ハワイで育ったダウドナが生物学の道を目指すきっかけとなったのは、父親が持っていたワトソンとクリックの『二重らせん』だったという。小学生だった彼女は最初、それを読んだとき、探偵小説だと思ったそうだ。「ある意味、それは正しかった」とアイザックソンは記す。彼女は生命のミステリーに魅せられて、科学者を志したのだ。「女性は科学者に向かない」という周囲の声もあったが、「幸いにも、私はそれを無視した」とダウドナは後にノーベル賞受賞会見で語っている。

そして、ダウドナは「RNA」の研究を専門としており、アイザックソンはRNAを「本書のスター」と呼ぶ。

RNAとは何だろう。「DNA」は、“生物の設計図”とも呼ばれる。けれども、DNAから直接、わたしたちの体を構成するタンパク質が生成されるわけではない。RNAはDNAの情報をコピーして、タンパク質を生成するはたらきをする。つまり、DNAだけを解読しても、実は遺伝子情報を「読める」状態にしかならないのだ。RNAの様々な機能を解明することで初めて、生物の遺伝情報を「書ける」能力を人間は手に入れた、とアイザックソンは本書で解説する。

ダウドナと共同研究者たちが開発した遺伝子編集技術「CRISPR-Cas9」は、遺伝疾患の治療など様々な用途での利用が期待されている。けれども実は、彼女が研究者となった90年代当時、他の生物学者たちはDNAの研究を目指す者が多く、ダウドナの研究は将来どんな役に立つのか分からないものだったという。アイザックソンは、本書の重要なメッセージとして、基礎研究の重要性を指摘する。ダウドナが成功するまでの物語は、好奇心に動かされた研究が、やがて実用的な意味を持った幸福な例である。

コロナ禍が塗り替えたワクチン開発

そして、RNAを利用した技術はワクチン開発にも応用されている。現在、ファイザー社やモデルナ社が製造している新型コロナウイルスのワクチンは「mRNAワクチン」と呼ばれるタイプのもので、従来のワクチンとは異なる。

本書はRNAのはたらきやmRNAワクチンの科学的な仕組みについても詳細に記載しているが、思いきり乱暴に要約しよう。従来のワクチンは、弱体化したウイルスや殺されたウイルスを直接摂取して、体に免疫を作らせる。mRNAワクチンはこれらと異なり、ウイルスは摂取しない。RNAが持つ「特定のタンパク質を作らせるはたらき」を利用して、コロナウイルスへの免疫を細胞に作らせる。つまり、ウイルスそのものを体に入れるのではなく、「ウイルスに対する免疫を細胞が作るためのデータ」だけを体に取り込むとも言える。RNAはそのデータを運ぶメッセンジャーである(mRNAとは「メッセンジャー」RNAを指す)。

従来からこうしたワクチンの開発は進んでいたが、パンデミックがその利用を加速させた。アイザックソンは本書で「2020年は、遺伝子ワクチン(RNAワクチン)が伝統的なワクチンに取って代わった年として記憶されるだろう」と述べる。

3番目の革命で起こる「生命科学の民主化」

さて、ダウドナの研究が持つ意味はワクチン開発だけにとどまらない。本書の面白さは、ダウドナという人物の評伝であると同時に、遺伝子編集技術の発明がもたらした歴史的意義を俯瞰する点にある。アイザックソンは、遺伝子編集技術の発明を、現代の「3番目の革命」であると語る。

アイザックソンが定義する革命はいずれも、我々の存在の「核」についての発見を指す。すなわち、原子(atom)、ビット(bit)、遺伝子(gene)である。

ひとつ目の革命は物理学についてのものだ。アインシュタインが1905年に発表した論文群から始まる物理学の革命は、原子爆弾をもたらした。そしてふたつ目。20世紀の後半から始まった情報技術の革命は、あらゆる情報をデジタルのビットで表現しようとしている。

そして我々は生命科学という3番目の革命を迎えている、と本書は語る。ダウドナが開発した遺伝子編集技術は、遺伝情報をコンピュータプログラムのソースコードのように切り取ってコピーすることを可能にする。

これは何を意味するか。20世紀の終わり以降にコンピュータが一部の人間だけが使用するものから誰でも利用できるものに変わったおかげで、様々なソフトウェアが開発された。同じように、遺伝子編集技術のおかげで、誰もが遺伝情報の研究に参加できるようになるかもしれない。アイザックソンは本書で、自宅のガレージで生命科学を研究する「バイオハッカー」たちを取材している(手作りした新型コロナウイルスのワクチンを自分に注射して、その模様をライブ配信で実況したバイオハッカーが登場する)。

コロナ禍が終息しても、また別のパンデミックは起こり得る。けれどもその時には、まるでスマホのアプリを作るように、自宅で簡単に使用できるウイルス検査の診断キットを、製薬会社ではない誰かが発明するかもしれない。本書はそんなビジョンを語る。言うまでもなく倫理や規制上の様々な問題はあるが、これは「生命科学の民主化」である。

ウォルター・アイザックソン著"The Code Breaker"は、2021年3月に発売された一冊。ダウドナが『二重らせん』を読んで科学者を志したように、きっと本書を読んで科学の道を目指す人もいるだろう。アイザックソンは「科学はチームスポーツであると伝えたい」と本書で語っていて、ダウドナを中心とした研究者たちの群像劇として読んでもめちゃくちゃ面白い。ダウドナの研究はバクテリアの研究とも深い関連があって、はじめはヨーグルト製造企業の研究者なんかにも注目されていたそうだ。

執筆者プロフィール:植田かもめ
ブログ「未翻訳ブックレビュー」管理人。ジャンル問わず原書の書評を展開。他に、雑誌サイゾー取材協力など。ツイッターはこちら

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