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日・米・韓の視点を持つ作者が女の一生と差別問題を淡々と描いた傑作(倉田幸信)

倉田幸信 「翻訳者の書斎から」第12回
パチンコ』 
著:ミン・ジン・リー 訳:池田 真紀子
文藝春秋 2020年発売
"Pachinko"
by Min Jin Lee 2017年2月出版

いささか遅きに失した感はあるが、今日は2020年に読んだ洋書・翻訳書のなかで最も印象的だった本を紹介したい。それはミン・ジン・リー著『パチンコ』(文藝春秋社、池田真紀子訳)だ。

本書を傑作だと思う理由は三つある。

まずストーリーが圧倒的に面白いこと。次に複数のテーマを抱えた重層的な小説であること。そして、各登場人物が皮相的ではなく、実際の人間と同じ複雑な存在として描かれていることだ。

簡単にあらすじを述べると、主人公は韓国・釜山の貧しい漁村に生まれたソンジャ。16歳で道ならぬ恋をして妊娠し、彼女の運命が大きく動き出す。すべてを知って結婚してくれたキリスト教徒の夫に従い、太平洋戦争直前の大阪に渡り、そこでさまざまな苦労をしながら二人の息子を育てる。在日コリアンとしてひどい差別を受けながらも、それぞれのやり方で日本社会を生き抜こうともがくソンジャの家族がストーリーの中核をなす。ソンジャを妊娠させた謎の中年男性コ・ハンスも日本におり、陰に陽にソンジャを助ける。この二人の壮絶な恋の物語もストーリーの横軸となっている。そして日米韓の三つの文化を知るソンジャの孫ソロモンの時代まで話は続く──。

上下巻で軽く700ページを超えるが、寝不足のまま2晩で読み切ってしまうほどに面白かった。パール・バックの『大地』を彷彿とさせる大河ドラマである。

差別とマルチカルチャーと性愛が3大テーマ

優れた作品の多くがそうであるように、本書も複数のテーマを内包している。

まず、在日コリアンの受けた差別の実態を、小説という形で生々しく描いている。そのような差別があったことを文字に残したいというのが執筆の動機であったと作者はあとがきで述べている。ただし、日本人を加害者、在日コリアンを被害者として一面的に差別を糾弾するような意図はまったく感じられない。むしろ、差別という現実を所与のものとし、作中の在日コリアンたちがどのようにそれと戦い、または受け入れ、折り合いをつけていくのか、冷静かつ客観的に描写している。作者は、自身の価値観や正義感を読者に押しつけないよう強く意識しながら書いたのではないだろうか。とはいえ、読者はソンジャを始めとする作中人物に感情移入していくから、日本社会の在日コリアン差別を我がことのように生々しく味わうことになる。

もう一つのテーマはマルチカルチャーだ。1910年代生まれのソンジャは、男尊女卑が当たり前の韓国社会と日本社会で生きていく。妻が家を出て働くことを決して許さない夫、「女の人生は苦労しかない」と娘に教えるソンジャの母、夫と子供に尽くして年老いていく女性のむなしさ──。
ストーリーの終盤で、ソンジャは孫のソロモンがアメリカから連れてきた韓国系アメリカ人のフィアンセ、フィービーと出会う。「私の母はいっさい料理をしません」と誇らしげに話すフィービーを、ソンジャはよく理解できない。それでも自分と違う文化で育ったフィービーを受け入れようとするソンジャ。ここでも作者は、男尊女卑の古い日韓文化を一刀両断に切り捨てるような描き方はしない。完全にアメリカナイズされ自立した女性であるフィービーに魅力を感じていたソロモンだが、日本で彼女の冷たさや傲慢さを感じ、結局、結婚をあきらめる。文化の違い、社会常識の違いを一歩ひいて淡々と描く作者の姿勢は、「どちらが良い悪いではなく、ただ違うのだ」と言っているかのように私には感じられた。

加えて人間の性愛も本書の大きなテーマである。人は誰かを愛さずにはいられないし、時には道ならぬ恋もする。性欲に翻弄される人、若さと美貌のせいで堕ちていく人、秘めた想いを貫き通す人。どの作中人物にもどこか救いがあり、どこか悲しさを秘めている。性愛に翻弄される人間の姿に我々は無関心ではいられないのだ。ソンジャは、既婚を隠して自分を妊娠させたコ・ハンスを決して許さないと思いながらも、老境になるまで彼を忘れられない。権力者で女性に不自由しないコ・ハンスも、若き日のソンジャの面影を追い続け、老いたソンジャになお魅力を感じる。長いストーリーに時々顔を出す二人の恋物語も、本書の魅力の一つになっている。

矛盾を抱えたリアルな人間像

ストーリーの面白さと重層的なテーマに加え、登場人物の造形の巧みさも『パチンコ』の優れた点だ。

マンガやアニメ、ゲームが広く受け入れられるようになったせいか、最近の小説はどうも人物造形が薄っぺらいと不満を感じることが多い。例えて言えば、“キャラ設定”として3行で説明できるような人物像である。だが、実際の人間はもっと複雑で多層的だ。
本書の主人公ソンジャは、夫に尽くし、息子に尽くし、時代と環境に流されるままに生きているようでいて、凜とした強さと柔軟さ、みずみずしさを失わない部分がある。謎の権力者コ・ハンスは、国家権力さえも超越するような世俗的な力を持ちながら、平凡な外見のソンジャに何十年も忘れられない魅力を見いだし、彼女にこだわり続ける。ソンジャの長男で圧倒的に優秀だったノアは、自分の出自と縁を切るためにすべてを捨てて失踪する。

どの人物も、理屈では説明できないこだわりを抱えており、読者は「もっと上手に生きられるのに」と歯がゆい思いを感じつつも、どこか彼らの矛盾に「さもありなん」と納得してしまうリアリティがそこにある。作中人物が自分の遠縁の親戚であるかのように、その生き方が気にかかる。そして、あらためて自分の生き方について思いを巡らしてしまう。そのような複雑な人間を描けるのが小説の力だと改めて感じた。

作者のミン・ジン・リーは1968年生まれの韓国系アメリカ人。7歳で韓国からアメリカに渡り、アメリカの一流大学で歴史を学び、弁護士資格も持つ女性である。夫は日系人で、夫婦で日本に住んだ経験もあるそうだ。日本、韓国、アメリカのそれぞれの文化を知り、かといってどこにも完全には溶け込めず、親世代の男尊女卑の価値観を見ながら、女性解放運動の盛んだったアメリカで思春期を迎える──そうした彼女のバックグラウンドが、価値観を押しつけない淡々とした筆運びを生んだのではないだろうか。

米PBSのインタビューでミン・ジン・リーは次のように語っている。「(在日コリアンについて大量の書物でリサーチはしていたが)実際に日本で在日コリアンの人々にインタビューして気づいたんです。そうしたノンフィクションをいくら読んでも、個々の在日コリアンの人柄や個性はまったく書かれていないと。フィクションならそれができます。彼らの考え方を膨らませたり、矛盾する部分さえ描けます。人はとても矛盾した生き物ですから」──その狙いは見事に成功したと言えるだろう。

最後に、翻訳書であることを忘れるほど自然な日本語に訳されている点も本書の魅力の一つであると指摘しておきたい。

執筆者プロフィール:倉田幸信 Yukinobu Kurata
早稲田大学政治経済学部卒。朝日新聞記者、週刊ダイヤモンド記者、DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー編集部を経て、2008年よりフリーランス翻訳者。

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