見出し画像

現代社会の諸問題に浮かび上がる「人間の本質」(新元良一)

「新元良一のアメリカ通信」第8回
Transcendent Kingdom: A novel
by Yaa Gyasi(ヤア・ジャシ) 2020年9月出版

新型コロナの感染拡大、人種差別に端を発した市民運動、そして大統領選挙前後の分断と、いまのアメリカは社会的にも経済的、政治的にも困難な時期に面している。そんなタイミングで発表された、ガーナ系アメリカ人作家ヤア・ジャシの最新作『Transcendent Kingdom』という内省的な小説を読むのは、気が重くなるという印象を持たれるかもしれない。

読み始めると、暗澹たる雰囲気が文章から浮かび上がってくる。物語冒頭のペースも比較的ゆっくりとしているから、この小説は停滞したまま終わるのか(その辺りは、コロナ発生後の現実の社会状況と似ているとも言える)と、疑りたくなるほどである。

しかし読み進めていくうちに、作品の核のようなものが姿を見せる。科学によって、自然を始めとし、これまで数多くのものが構造的に解明されてきたが、そんな進歩した科学、あるいは文明によってでも変わらない人間の本質がにじみ出ているのに気づく。

喪失の中で苦悶する母娘

主人公の28歳になるガーナ生まれの女性ギフティは、家族とともにアメリカへ移住し、同南部のアラバマ州で育った。そして成績優秀でハーヴァード大へ進んだ後、現在は西海岸の名門大学スタンフォードで神経科学の大学院生として、ネズミを使った実験のため研究室に足繁く通う日々を送る。

そんな彼女の元へ、故郷アラバマから母が訪ねてきた。娘が暮らすアパートで滞在することになるが、我が子との久しぶりの再会に喜ぶ様子でない。家から外に出ようとしないばかりか、起き上がっても、ベッドの上で娘に背を向けたまま、少しも口を開こうとしない異様な状態が続く。

一方で、ギフティ自身も精神的な問題を抱えているのが紹介される。研究過程のなかでネズミが死んでしまったことに落ち込み、涙を流したかと思えば、生活をともにする母のことを娘として心配しつつも、どこか冷めた態度を見せてしまいがちだ。

ギフティを中心としたこうした現在と並行し、物語では彼女とその家族の過去の出来事が語られていく。ガーナで貧困に喘いでいた一家は、生活の向上とギフティと兄のナナの将来のことを考えた末に、アメリカへと渡ったが、多くの移民たちと同様、日常での習慣や文化の違いにより苦境に立たされる。

そんな中、チン・チン・マンと呼ばれる父が家族を置き去りにし、祖国ガーナへと帰っていった。海の向こうからの電話で、そのうち戻ると妻や子どもたちに話すが、そうした気配は一向に見られず、シングル・マザーとなった妻は仕事をかけ持ちしながら子育てをし、厳しい生活の中でしのごうとする。

過去と現在が交互に語られることで、娘と母がなぜここまで苦悶するのかと、読む側は疑問を持ちたくなる。そのもやもやとした空気が、小説の中盤に差しかかり、ギフティの兄ナナの死が明らかにされると展開が一変する。
アスリートとして才能を授かったナナだが、仲の良かった父の不在が彼の心に暗い影を投げかけ、精神的に不安定な状況に陥る。サッカーチームでエースとして期待されるが、試合当日になって、会場に到着したバスの車内で物憂げな表情で出場を拒んでしまう。

高校生になり、種目がバスケットボールに変わっても、ナナの揺らぐ精神状態は続くばかりか、ますます悪化し混乱を招くようになる。自らの拳を突き出して壁に穴を開けたり、テレビを粉々に壊したりと、母と子三人の生活は悲惨なものとなっていく。

ナナを奇行へと走らせた原因は、ドラッグの乱用にあった。運動中に踵を怪我した彼は痛みを和らげるためにクスリに頼るようになるが、それがエスカレートし、やがてヘロインに手を出しその過剰摂取により、妹のギフティが11歳のときに不幸な最期を迎える。

身内の悲劇は、家族に癒せないほどの深い心の痛手をもたらす。自らの命を絶とうとさえ思った母はショックからいまだに立ち直ることができず、兄を誇り、慕い続けたギフティもキリスト教の信仰に熱心だったのが、宗教に心動かされることなく、やがて科学に関心を持ち、その研究に没頭するようになった。

悲しみは科学によって癒えるのか

家族の不和、移民が抱える困難、さらにオピオイド問題に見られるドラッグがもたらす破綻など、300ページに届かないボリュームながら様々な現代社会のテーマを描き、読み応えのある小説となっている。しかし筆者がとりわけインパクトを感じたのが、このギフティが神経科学の研究分野に進んだことだ。

ネズミを対象にした実験を行うプロセスで、外部からのどんな影響によって動物はそれぞれの行動を取るのか。何を持って生きようとするのかを見極めようとギフティは努める。強迫観念のようにも映る彼女の執着心は、言うまでもなく、兄がドラッグの乱用から抜け出なくなったことに由来する。

ナナの死を受け入るために、人間がどんな存在であるかを科学的に解明し、自分を納得させようと研究室に居続けるギフティの姿は、たしかに健気であり感情移入を誘う。と同時に、彼女のそうしたひたむきな心根や行動が、生命の尊さとそれを保持したいと願う人間の本能が伝わり、われわれの胸を熱くさせるのだ。

執筆者プロフィール:新元良一 Riyo Niimoto
1959年神戸市生まれ。84年に米ニューヨークに渡り、22年間暮らす。帰国後、京都造形芸術大で専任教員を務め、2016年末に再び活動拠点をニューヨークに移した。主な著作に「あの空を探して」「One author, One book」。

よろしければサポートをお願いいたします!世界の良書をひきつづき、みなさまにご紹介できるよう、執筆や編集、権利料などに大切に使わせていただきます。