フランスから届いたロードストーリー『ルーム・オブ・ワンダー』

担当編集者が語る!注目翻訳書 第10回『ルーム・オブ・ワンダー』著:ジュリアン・サンドレル 訳:高橋啓NHK出版 2018年8月出版

映画「テルマ&ルイーズ」が描き出したもの

1991年に公開されアカデミー賞を受賞した映画「テルマ&ルイーズ」をご記憶の方は多いだろう(30代の友人に尋ねたら知らなかったので、ちょっと自信がなくなったが)。レイプされそうになった女友達テルマを助けたものの、レイプ未遂男の捨て台詞に思わず銃の引き金を引き、殺人を犯してしまったルイーズ。女性ふたりの逃避行物語だが、その根底には現実の社会のなかで男性に抑圧されて生きる女性たちの姿があった。

同時代の女性たちの実態とその心理を描き出し、社会に強烈な一石を投じながらも、シリアスな社会派の映画でなく、笑いの絶えない痛快なストーリー展開で、世界中の共感を得たロードムービーの傑作だ。私もこの映画に喝采を送ったひとりだ。しかもルイーズを演じたスーザン・サランドンは大好きな女優だった。

今回改めてDVDを鑑賞したが、あのときの感動がそのまま甦った。観たことのない方にはぜひお勧めしたい。特筆すべきは、この映画が男性監督によって製作されたということだ。映画界も男性社会であったのは確かだが、ここまで見事に女性の心理を描いて人々の心をとらえた作品を生み出したリドリー・スコットには驚くばかりである。

じつは、これからご紹介する『ルーム・オブ・ワンダー』の主人公が「テルマ」と「ルイ」であることには、この「テルマ&ルイーズ」に関わるちょっとした伏線がある。

現代女性の幸せは、母親業と仕事の両立?

本書はフランスの小説だ。「フランスの」と聞いただけで、とっつきにくさや、英米の小説とくらべて敷居の高さを感じるむきもあるだろう。だが、本書はその敷居をほとんど“バリアフリーなみ”に低くした作品だと言っても過言ではない。
エスプリの効いた言い回しやウィットに跳んだ会話にフランスらしさが凝縮されてはいるが、情景描写やまわりくどい心理描写がなく、まるで映画を見ているようなスピード感あふれるストーリー展開は、これまでのフランス小説には見られない特徴だ。

主人公テルマは、30代後半のシングルマザー。12歳のひとり息子ルイを育てながら、大手化粧品メーカーのマーケティング・ディレクターという地位にまで上りつめたワーキングウーマンでもある。許されない恋の末に妊娠し、それを相手の男性に告げずに、ひとりで子どもを産み育てることを決意したテルマは、現代女性らしくキャリアを積むことにも熱心だった。
セクハラやパワハラにもめげず、わき目もふらず仕事にまい進してきた彼女に、心を許せる友人はいなかった。だが彼女にはたったひとりの愛する息子ルイがいた。ただ、思春期に差し掛かった息子にはその反抗的な態度に苛つくこともある。少しずつ手を離れていく息子を感じる毎日だった。

人生には立ち止まるべきときがある

運命の日の朝も、なかなか起きてこないルイを起こすのに手こずった挙句、ようやく支度をして駅に向かう道をルイと歩いていた。けれども土曜日だというのに、かかってきた仕事の電話に応えたテルマを見て、ルイは怒り、あきらめたようにため息をつくと、勢いよくスケートボードを蹴って走り去った。そして、その直後に起こった悲劇。コントロールを誤って道を曲がり切れなかったルイは、テルマの目の前でトラックにはねられた。

昏睡状態に陥ったルイの枕辺で、テルマはルイとの日常の暮らしがいかに貴重なものだったかを思う。そう、時として人は、何気ない「あたりまえ」の生活がどれだけ大切なことなのか、それを失って気づくものだ。

テルマのそれまでの人生は音を立てて崩れていった。上司のパワハラやセクハラを丁々発止かわしていた彼女の堪忍袋の緒もあっという間に切れた。彼女のプレゼンテーションをろくすっぽ聞きもせず、ダメ出しをするセクハラ社長とのやり取りは、読んでいてあまりにもリアルでかつ痛快だ。しかし、切れた緒の代償は大きかった。そう、彼女は仕事も失うことになったのだ。

だが、どん底にある彼女がルイの部屋で見つけたあるものが、彼女に人生の新しい一歩を踏み出させることになる。

テルマにはたったひとりの肉親、母がいた。だが、60年代の後半から70年代にかけて労働運動の激しかった時代に、権力や資本家に反旗を翻していたその母とは、テルマがアメリカナイズされた文化潮流に魅せられていた青春時代に袂を分かち、疎遠になっていた。テルマにはもう頼る人もいなかった。

それでも人生は続く

ルイが残したあるもの、それは12歳の少年が「死ぬまでにやってみたいこと」を書き連ねた素朴で純粋なリストだった。テルマに残されたのは唯一、ルイの子どもらしい「夢」だけだったのだ。そうして考えた末に彼女が挑んだのは、ルイの夢を自らが実現して昏睡状態のルイにその体験を語り聞かせることで、生きる意欲と意識を取り戻させることだった。

最初にテルマが選んだ夢。それは「東京へ行く」こと。

テルマの東京体験は、ハチャメチャだけれど、まさに今、日本に訪れている多くの外国人観光客の日本に対する期待と印象が実によく描かれている。私はこの本を読んで以降、渋谷のスクランブル交差点で自撮りする彼ら彼女らを見る眼が優しくなってきた。彼らの期待に応えてあげたいとさえ思うようになった。

このテルマの冒険のひとつひとつが、まさにあの「テルマ&ルイーズ」を彷彿させる笑いと涙に彩られた痛快ロードストーリーなのだ。
これをただの大衆小説とみるか、はたまた読む人の人生を変えることになる重要な作品なのかの判断は、それぞれの読者にまかせたい。ただ、「たまには本でも読んでみようか」と思って手に取った方には、きっとなんらかの収穫があるはずだと確信している。

新人作家のデビュー作でありながら、昨年のフランクフルト国際ブックフェアで注目され、刊行前に20か国以上で出版が決まった本書の作者もまた男性であることに、読んだ人はみな驚くだろう。本国フランスでは3月に発売され、瞬く間にベストセラーになったと聞く。翻訳版はイタリアで6月に、そしてオランダと日本でほぼ同時の8月に刊行予定だ。アメリカでは来年の5月に予定されている。

余談だが、読者層を「30~40代の働く女性」と想定していた私にとってうれしい驚きは、社内の40~50代の男性社員が一様に「面白かった」と言ってくれたことだ。彼らの心のどこに刺さったのか、現在調査中である。

今回、フランス版のプロモーションビデオを日本語版にアレンジして公開した。出版不況が叫ばれるのは日本に限ったことではない。各国がさまざまな手法で読者を獲得しようとしている。小説はその文章の積み重ねのなかから読者がそれぞれのイメージを作り上げていくものであると私自身は思っているが、読者の本に対する間口を広めるという意味においてはこのようなインフォメーションの在り方も一考かと思う。

この動画の印象も本書の感想とともにお聞かせいただければ幸いである。

執筆者:猪狩暢子(NHK出版 編集部)



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