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科学とニセ科学のはなし

可能な限り簡潔に行きましょう。 科学とは何か※ある程度話を簡単にするため、ここでの科学とは、いわゆる実証科学や経験科学と呼ばれる分野に限定する 自然現象や社会現象の構造、因果関係について、調査・観察・実験などから得られたデータを数理的に解析する事で解明・追究する営み、および、それによって構築された知識の体系。 科学の方法調査・観察・実験、などによってデータを集める。データは、専用の機器・器具や、質問紙、調査票によって測定される。測る道具・基準などを、尺度と表現する。

    • 結節やのう胞の余剰発見(過剰診断)

      福島の甲状腺検査(先行検査)では、B判定(主に、5.1mm以上の結節や20.1mm以上の のう胞がエコー検査によって認められた、という場合)以上の人が、2,000人強発見されました。この内の大部分(約92%)が二次検査(※《二回目》では無い)を受診(詳細なエコー、血液・尿検査)し、ほとんどの結果が確定しました。確定者の内34%は、A判定相当で次回検査へ、残りは通常診療(保険診療)となり、通常診療の中の500人強が精密検査(穿刺吸引細胞診)を受けています。 結果、悪性ないし悪

      • 検査で押さえておくべき事――適中度

        知らない人にとっては、わりかし複雑な話ではありますが、出来るだけシンプルに行きます。 検査検査をして、病気があるかもと判定されるのを陽性と言い、逆に病気は無いだろうと判定されるのを陰性と言う事は、多くの人が知っているだろうと思います。そして、検査結果が出て、陽性だった、心配だな、とか、陰性なので一安心、となったりします。そして、その結果が、病気のある無しを確定するものでは無い、というのもご存知の事でしょう。 しかし、検査結果を見る場合は、もう少し注意する必要があります。具体

        • Monster Hunter World

          UI設計に携わった人は、ユーザが皆、開発機の前でプレイするみたいな環境にいるとでも思って作ったの? あのフォントサイズやゲージサイズは、一体何を考えてデザインしたのやら。ユーザビリティ完全無視。 モンスターハンターに限らず、最近のゲームは、ほんとうにこういうのをよく見る……。住環境的に考えて、ディスプレイ(TV)の面積と、ディスプレイからの距離、との関係はそう大きく変わらないのだから、その関係をそのままで、各要素のサイズの対画面面積比を小さくしたら、見えにくくなるに決まっ

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          慣習

          共同通信の記事内容変更の話。 ああいうのは「慣習」だという意見があります。その意見を表明する事が、共同通信を擁護する(慣習だからしょうが無いじゃないか、的に)目的か、あるいは単なる事実の紹介(是非はともかく、そういうのがある)か、それは措いて。 シンプルに言うと、 ・細部が変更されるというようなレベルの変更では全く無いものを ・変更履歴も示さずに ・同URIの内容を書き換える という行為を「慣習」などという言いかたで片付けて良いのか、という話ですよね。いや、そんな

          検診で押さえておくべき事

          用語の意味を共有しておかないと、話は出来ません。 なるだけ簡潔に行きます。 検診は症状の無い人におこなう大前提です。検診とは、自覚症状の無い人におこなうものです。 陽性と陰性陽性とは、検査で、病気があるのではないかという結果で、陰性は逆に、病気は無いだろうという結果、の事です。 確定診断対象の病気が実際にその人に存在するかどうかを診断する事です。これを基準にして、陽性や陰性の判断が正しかったを評価します。 誤(偽)陽性と誤(偽)陰性病気が無いのに陽性が出る事を、誤陽

          検診で押さえておくべき事

          トップの責任

          山中氏の辞任云々に関する話です。 私は、この議論において、「山中氏が辞任して海外に行くような事は頭脳流出である」とか、「山中氏のような才覚のある人を辞めさせるのは大きな損失である」といったような見かたは「おこなうべきで無い」、と考えています。 問われるべきは、今回の不正行為について、構造的に、トップまで連帯で責任を取るべきものであったかどうか、ただその部分の検討のみであって(他の企業、学会、その他組織における事例の類推などから評価考察する)、トップに備わるその他の属性や、

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          過剰診断問題を考えるには統計学理解だけでは不充分

          過剰診断の問題を考える際に、統計学を理解しておくのが重要というのは、その通りです。けれども、過剰診断と主張する人は統計学を基礎から勉強したほうが良い、というような見かたは、あまり適切だとは思えません。 統計学なる学問は(定義にもよるのですが)、確率とは、分布とは、検定とは……というような理論体系の枠組みで、それは、現代の科学において、自然現象や社会現象の構造・因果関係を解明するためのツールのようなものである、と言えます。ですからあくまで、物事を定量的に分析・記述するための基

          過剰診断問題を考えるには統計学理解だけでは不充分

          理系文系

          より一般的には、研究・探究の対象によって分けるものだし、またそうであるのが望ましいと思う。けれど、実情としては、(契機はその一般的な分類だったにしても)結果的に形成された集団等への「所属」が強調され論じられるように感ずる。 実際、組織なり何なりで、似たような考えかたをする人が集まる、というのはあり得る事で(属している人も似た人を集めようとすれば)、そういう意味で、「傾向」が形成されるのも、充分生じ得る。だけれど、問題は、「傾向が明らかにされていないのに」傾向があるかのように

          理系文系

          NATROMさんなどにnoteで医学記事を書いてもらうとか

          noteには投げ銭(俗称?)なる機能があるようなので、たとえばNATROMさんが医学・医療関係で良い感じの記事をnoteで書いてくださったりすれば、ダイレクトに金銭的な支援が出来るので、読み手と書き手双方にとって、Win-Winではないでしょうか。 科学・医学方面の記事って、リソースがかなり掛かりますからね。書籍等の参考文献・資料入手と購入の金って馬鹿にならないし、モチベーションにも繋がるでしょう。 結構前にも、ニセ科学関連でそういう話になった事があった気がします(Moc

          NATROMさんなどにnoteで医学記事を書いてもらうとか

          あるタナトフォビアの懊悩

          ※本ノートは、極めてデリケートな内容を扱っています。読む事によって、強い不安に駆られたり、精神に変調を来す可能性もあります。気分障害や不安障害等に罹患のかたなどは、特にご注意ください。 ・ ・ ・ 死について深く考え込んだ経験というものは、誰しもあるものと思います。それは、死んだらどうなるか?という問いから始まる、思考の旅です。 私は、子どもの頃から、物事を深く考える癖がありました。これはどうなっているのか、と考えたら、それに対する反論も自分で考え、ひたすら思考し続

          あるタナトフォビアの懊悩