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『不寛容』を育む社会が追い求めてしまっている、狭い了見の『自由度』の話

少し前の話になりますが、3月20日の国際幸福デーに国連が報告する世界幸福度ランキングで、日本がまた順位を下げて、世界156カ国・地域の中で58位だったということが話題になりましたね。
そしてその順位に大いに影響しているのが、『自由度』と『寛容さ』の低さだ、と。

なるほどな、という思いとともに、誰もそんなものを目指したわけでは無かったはずなのにな、と思わずにはいられませんでした。

たしか、私はより『自由度』の高い人生を歩みたくて、進学先や就職先を考えてきたと思います。
その他もろもろの人生の選択も。
たしか、そのはずです。

だけれどもその思考は、今だから分かるけれど、「無駄なことをしている場合じゃない」とか、「より効率的・効果的に進むには」「より成功するには」「失敗しないためには」みたいな、極端で息苦しい『不自由』に縛られていました。
そして、「みんなもそうしているんだから」「こうすることが当然なんだ」などと、そんな思考を下支えする事実にばかり目を向けて、自分の思考が正しいと思い込もうとしていました。

ほんとうにフラットに世の中を見ていたら、そうじゃない事実もたくさん見つけられたはずなのに。
自分にフィルターを掛けてしまうから、そんなもの正面からは見えないし、見えても捻じ曲げて解釈をしてしまう。
「自分でがんばろうとしない人にはそれなりの人生が待っているだけ。それこそ自己責任。」といったように、思考を振りかざして、突き放して。

今思い起こすだけで、少し背中に冷たいものが走るような、胃がキューッと縮こまるような、薄ら寒い感覚。
がんばるって、いったい何を?なんのために?

そう、狭い了見での『自由』を夢見て、自分で自分の世界を『不自由』に仕立て上げ、挙句の果てに周囲に『不寛容』な価値観をばら撒いていた。
そう、ばら撒いていた。

私が正しい、と信じていたから、それ以外の価値観はバッサリ蚊帳の外。
蚊帳の外というより、確実に見下していた。
「なんてしょうもない考え方・・・」くらいな勢いで。
なんなら「そんな考え方は改めないといけないよ」とか、説教のひとつでも垂れていたかも。

怖い怖い怖い怖い。
『不寛容』な思考の塊。

本人は決して『不寛容』を容認しようと思っていたわけじゃない。
でも、結果的に『不寛容』が世間に蔓延するのに大いに手を貸していた。
“正しい世界”にするためにがんばらなくっちゃ、見せ付けなくちゃ、という思いからの発言、行動だったのだけれど。
正しいとは、なに?
…罠だなぁ、つくづく。

今、周囲を見ていてもそんなところが目に付いてしまう。
効率・・・効果・・・コスト・・・生産性・・・
そんな言葉が空回りばかり。
本当は、世界でより『自由度』の高い事業活動がしたいからとか、みんなの生活の『自由度』を高めたいから、という理由での取組のはずなのに。

その裏側で育つ、『不寛容』。

…この『不自由』と『不寛容』の話題、最近ずっと心の中でモゾモゾしているので、また別の角度で書いてみたいと思います。

≪巻頭写真:Photo by Free To Use Sounds on Unsplash≫

長年の公私に渡る不調和を正面から受け入れ、それを越える決意をし、様々な探究を実践。縁を得て、不調和の原因となる人間のマインドを紐解き解放していく内観法を会得。人がどこで躓くのか、何を勘違いしてしまうのかを共に見出すとともに、叡智に満ちた重要なメッセージを共有する活動をしています。