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地域の日本語教育・日本語活動に関わるコーディネーターに求められる力とは

はじめに

2023年6月10日(土)に、地域日本語どっとねっとのシンポジウム「あらためて、地域日本語教育の『場づくり』を考える」に登壇しました。僕は基調講演として「『地域日本語教育の役割は,日本語を教えるだけじゃない』ってどういうこと?」という長いタイトルでお話をし(資料はresearchmapの社会貢献活動にアップしています)、その後、実践報告のみなさんと一緒にパネルセッションにも参加しました。現場の話がいろいろきけて刺激になりましたし、改めて自分自身、全体を俯瞰するような議論をすることが得意なんだろうなと思いました。
 
パネルセッションで、モデレーターの深江新太郎さんからいくつかディスカッションのお題をいただきました。その中で「地域日本語教育に関わるコーディネーター・日本語教師に求められる能力は」というものがありました。うーむ、何かなあと思いながら、いろいろと思いを巡らし、その場で即興で答えたのですが、改めてここでまとめて書いてみたいと思います。
 
日本語教育に関わる人に求められる能力は、すでにさまざまなところでまとめられています。近年では、文化審議会国語分科会が2018にとりまとめて発表した「日本語教育人材の養成・研修の在り方について(報告)」があります。私もこの作成に関わりましたし、包括的に日本語教育に関わる人に求められる能力を議論しています。ですからじっくりと検討され整理されたものについては、こちらを見てもらえればと思います。一方で、僕自身が地域日本語教育の現場に近いところでいろいろな人と話している中で、もう少し違う方面の資質・能力が必要だよなあと思っている部分もあります。それが今回お話しした4つの力です。
 
なおこの記事のタイトルでは「地域日本語教育・日本語活動」という語を使っています。教育は学ぶことを主としていて、活動は使うことを主としています。本来、この二つが重なり合うのが理想だと思います。以下では煩雑さを避けるために「地域日本語教育」という語を使います。


4つの力

4つの力は以下のようなものとしてお話ししました。

  1. あの人は分かってないと言わない力

  2. 誰も知り合いがいない飲み会に行って楽しめる力

  3. バス停を毎日1cmずつずらして自宅の前に持ってくる力

  4. 成果が出るかどうか、これでいいのかどうかわからない状態に耐え続ける力

最後についている「力」は「りょく」と読んでもらったほうがいいかなと思っていますが、読み方は読む方にお任せします。ちなみに、こういうちょっと楽しげな感じで「力」について書くというのは、うちの親分が、自著 『日本語教師の研修と自己成長』で書いていたやり方をちょっとパクっています。いつかパクりたいなと思っていたんですが、昨日はちょうどそんな気分とタイミングでした。
では、この一つ一つについて少し解説をしてみたいと思います。

あの人は分かってないと言わない力

この力は、物事を俯瞰的・複眼的に見られるかどうかという能力と、異分野の人や立場が異なる人に対するリスペクトを持てるかどうか、自分自身が考えていることが本当にいいかどうかわからないというクリティカルな見方ができるというようなものが複合した力です。たとえば、総合職の自治体職員が提案してくるものについて、専門家が「あの人はわかってない」と言う人はけっこういます。ですが実は、専門家じゃなくてもめちゃめちゃ勉強している人はけっこういて(みんな言わないけど、論文とかよく読んでるし、独学で日本語教育能力検定試験を受けて合格してる人とかもいます)、専門的な議論をある程度踏まえた上で提案しているということは少なくないと思っています。もちろん、専門家のように一つの分野を深く理解しているわけではないでしょう。ですが、総合職としての全体を俯瞰する力と、専門の議論についていくための努力に対するリスペクトは必要だと思います。「あの人はわかってない」ということばは、実はそれを発する専門家側がわかってないことを露呈することにもなりかねないと思います。

誰も知り合いがいない飲み会に行って楽しめる力

この力は、知り合いがいなくてマイノリティになる場に自らを置くことができ、そのことを前向きに捉えることができる力。さらに、新たな出会いから新たなつながりをつくりだせるような力が複合したものだと思います。誰しも、自分一人で知らない人の中に飛び込むのは勇気が入りますよね。僕のことを対面で知っている人は、もしかしたら「ういちはこういうの得意でしょ」って思うかもしれませんが、そんなことありません(笑)。よく、学生からも「私は人見知りで…」ってお悩み相談的なことを聞きますが、人間誰しもそういう面はあると思います、もちろん程度は異なるかもしれませんが。そういうことで、一人で知らないところに飛び込む不安やおっくうさを乗り越えてそこに身を置くことができるというのは、ある種のハードルを一つ超えていることになると思います。海外で生活するというのも、同様の不安感が多少なりともあると思います。マイノリティの感覚をどう持てるか、そこから前向きに切り開いていくためにどのようなつながりをつくっていけるか、重要だと思います。

バス停を毎日1cmずつずらして自宅の前に持ってくる力

これはちょっとネタ的なところもある例えですが、現状のルールや規範を自分たちのやりやすい方向に誘導していく力、そのために気づかれないようにというか違和感のないように徐々にそれに取り組む力、そしてやっと10mぐらい動かしたところでバス会社にバレて元に戻されてもまたやりつづけるというしなやかな折れないメンタルを持っていることなどが複合した力だと考えています。まあ、実際は、数メートル動かせばバレるわけで、毎日ずらしたらうまくいくわけではないですが、ルールや規範は一気に変えることができないので、ちょっとずつちょっとずつ自分たちの土俵に持ってくる、それをやり続けるというのが重要だと思います。

成果が出るかどうか、これでいいのかどうかわからない状態に耐え続ける力

これは一言で言うと「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼ばれるものです。ただ、僕自身、何冊かネガティブ・ケイパビリティの本は読みましたが、まだそのことについて十分に理解できていないので、あえてその語は使わずに表現しました。地域の日本語教育はその地域によってさまざまな取り組みの歴史があります。かなりの期間取り組みの蓄積がある自治体もあります。ですが、近年のように法律ができ、その法律に従って政府が政策をつくり、それらの政策のもとに地域の日本語教育を行うということは、ほとんどのところで経験がありません。どこも手探りで、地域日本語教育を政策的な取り組みとしてどのように計画を立て、実施し、評価し、改善していくのか、そのサイクルをどう仕組み化していくかは今後の課題です。このような状況でとりあえずやりはじめなければならないという状態に耐え続けるのはけっこうしんどいことだと思います。特に政策として取り組もうとしたら、成果・評価を数値で求められることも増えてきます。そういう流れに時には乗ったり、時には抗ったりしながら進めていかざるを得ないというのが、今の地域日本語教育が置かれた状況だと思います。

5つ目の力〜大衆の面前で愛を叫ぶ力

4つの「力」についてfacebookに投稿したら、ホリさんから「図々しいかな?って思いながらも熱い思いで目指す社会を語り協力にこぎつける力」ってのも必要だよねってコメントがついた。うん、確かにそうだよねと思いつつ、これを僕なりに解釈すると、理念・理想を恥ずかしげもなく言ってのける力なんじゃないかと思いました。そこには、まず、理想とするものを言語化する力、それを多くの人の前できちんと言うこと、そしてそれを聞いて共感してくれる人たちの力を結集する力の複合とでも言ったらいいでしょうか。たとえば、僕は最近、日本語教育を行う目的は世界の平和のためだと言っています(『ことばの教育と平和』という本を5月に出しました、ぜひ読んでください)。そんな大きなことができるのか、そんなこと実現できるわけないというのは簡単ですし、こういった大きな理念・理想を冷笑する向きもあるでしょう。ですが、言い続けることで一歩でも実現に近づくのであれば言い続ける、自分がなんと思われようとさほど気にしないといった力も必要だろうと思います。

コーディネーターと行政職員

コーディネーターはどんな人がいいのかという点でも、多くの自治体で試行錯誤しています。ある自治体は日本語教育の専門的な知見を持った人をコーディネーターにしていますし、あるところでは行政職員が担っています。行政職員が担うよさは、事業・予算的な観点で物事が考えられることや、政策の動きに合わせて進めやすいことですが、一方で異動があるために継続的な取り組みが難しくなります。事業は引き継げても人のつながりは引き継ぐことが困難です。3年に一度異動するコーディネーターというのは、やはり限界があるでしょう。一方で、日本語教育の専門家がコーディネーターとなった場合は、行政的な動きにうといことや、行政機関内での交渉という点で弱さが出てくると思います。これらを考え合わせると、地域の日本語教育を行うには、コーディネーターと行政職員が組んで全体のコーディネーションをするということが重要で、この組み合わせをどうするかというのが、うまく進められる鍵になるのではないかと思います。

まとめ

以上の4つ+1つの力についても、コーディネーターと行政職員のペアが重要というのも実証されたものではありません。僕がいろんなところのコーディネーターと話したり、現場を見せてもらったりしながら考えたことをまとめただけです。今後、これらを理論化していく必要があるだろうなあと思っています。今年後半以降、地域日本語教育の体制がどのようにできていき、コーディネーターや行政職員がどのような役割を担っているのか、そのあたりを調査していきたいと思っています。調査の対象として協力してくれる方募集中、そして一緒に調査を行う人も募集中です。

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