見出し画像

「わかる」を諦めない

大学院に入って良かったことの一つは「わかる」感覚を掴むことができたことだと思います。マルクスの「Capital」を最初の授業で読んでいたのですが(イギリスではマルクスがもう基礎中の基礎、という感じで、どの授業でもマルクスが出てきます。高校生から読み始めるそうです。かといって別に社会主義、共産主義を目指しているわけではありません。社会の本質を掴むにあたって、社会のベースとなっている資本主義とは何かを正確に理解しようということです。たとえば私が学んでいるデザインの歴史を学ぶにあたっては、まずはコモディティ(商品)とは何かを学ぼう、という意味でCapitalを読むんですね)、そこで出てきた「コモディティ・フェティシズム」という言葉の概念がどううううしてもわからなかったんです。クラスメイトに聞いてもいまいちわからず。まずもってマルクスの「Capital」自体が非常に難解で、「このおじいさん何言ってるんだろう」状況に陥ります。教授が、「デヴィッド・ハーヴェイがCapitalを読み解く大学の講義がポッドキャストやユーチューブに上がっているからそれを見てみてね」というので3時間分見てみましたが、うーんちょっとは理解できたけれど、まだわからない。その後だいたい聞けばなんでも答えてくれる父親にグーグル的に電話したものの、「お父さんは実はマルクス嫌いなんだよね」とかいう謎の拒否反応を示されます。今度は図書館に行って、ファッションとマルクスのコモディティ・フェティシズムの関連について説いている本を何冊か読んでみたところ、そこでラグジュアリーファッションとコモディティを結びつけた説明に出会い、ようやく「わかった……!!!!!!!!!!!」と腹落ちする瞬間が訪れたのです。いやぁこの瞬間ほど、気持ちいい感覚を覚えたことはここ最近ありませんでした。体中を知の血が爽快に駆け巡り、広い草原に立って、世界に向かって「私、コモディティ・フェティシズムの意味がわかったよ〜〜〜〜〜〜!」と叫んでいるような感覚。

こうやって難解な問題をそのままにせず、本当の「わかる」に到達したとき。ああ学問というのはこれなんだな、この瞬間のためにあって、これの積み重ねなんだと感じました。なんでも検索すれば答えがすぐにでてくるとみんな思っているし、できるっぽい成功者たちが「入門」の動画やらオンラインサロンを量産していて、みんな簡単に正解に辿り着こうと、浅くなぞった知識で満足する。それで議論ができないと、「論破」などと言って解決した気になる。そうやって民から搾取するわけです。そういった調べ方にも、もちろん良い面はあるし私も利用することはあるけれど、本質的な「わかる」を諦めないことの大切さを知ることも絶対に必要だと思います。昔友達に「君は知的耐性が足りないね」と言われて落ち込んだんですが、今ならその意味がわかる。私にはその「諦めずに難問に向き合う気力」が足りなかった。だってそれは本当に本当にしんどい道のりだから。そして別にその知識は、今すぐ何かに役に立つわけではない。でも分野が違えどそうやって知の積み重ねに向き合った経験はフレームとして他の分野の難問に向き合ったときも生かされると確信しています。だから最近話題になっているけど、博士課程は絶対無駄ではない。私は修士過程でひいひい言っていますが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?