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病臥して閑かな朧月夜なり

世の中ではもう、ほとんど終わったことにされている、例のアレを、今さら夫がお待ち帰りした。
夫が一貫して平熱だったから、初動を誤り、何の対策も打たないでいた私は、うかうかと家庭内感染してしまった。

熱こそないものの、夫は高齢者だし、重篤な基礎疾患があり、重症化リスクが極めて高い。全身倦怠、関節・筋肉・神経痛、喉の痛み、激しい咳。みるからに苦しそうだ。
一方私は、途端に38度台の発熱で、全身症状が次から次へと押し寄せるが、幸い解熱剤が良く効いた。

だから私に、休養するという選択肢はなかった。
薬で熱を下げて、最低限の家事と看病をしなければならない。


夫はASDなので、専門ジャンルについては物凄く有能だし、記憶力も半端ない。けれどもその反面、興味のない日常の些事については恐ろしく無知で、何度教えても、ゴミ出しのルールさえ覚えられない。
また、他者の気持ちを推し量ることが苦手で、どうしても自己中心的な考えに偏ってしまう。

長い結婚生活の中で、何度も離婚の危機に瀕しながら、夫のこうした特性を、私は少しずつ学び、理解し、諦め、受け入れてきた。
だから、今はもう、過剰な期待をすることも、思いを踏みにじられて泣くこともすっかりなくなっていた。


お粥を作り、スープを作り、汗だくになった夫のシャツや下着を洗濯し、トイレと風呂の掃除をして、熱が上がるとまた解熱剤を飲む。
無理の上に、無理を重ねているうちに、血圧急低下と貧血で目眩を起こして、私はとうとう立てなくなってしまった。

夫が、私の部屋を覗いて、
「明日の勉強会、ちょっと顔を出したら、早目に帰ってくるからね」
と言う。

えっ?
行くつもりなの?

体調が回復したから、と夫は言う。

えっ?
私、悪化してますけど、放置して半日、出かけるの?

夫への怒りが沸いた。
物凄く、物凄く、激しい怒りがふつふつと沸いて、私は感情のコントロールを失い、久しぶりに号泣した。


——「世話を焼くパーツ」が、一生懸命に家族の世話を焼くことで、「無価値感」を薄めているんです。
——そもそも愛着形成の不完全さによって「無価値感」が生まれたのだから、それを薄めるための「世話を焼くパーツ」もトラウマの産物なんです。

先日そう、カウンセラーに言われたばかりだった。


と同時に、高熱で悪寒がし、目眩と吐き気で動けない時に、たった一人で放置された恐怖をまざまざと思い出した。

あれはたぶん、小学校低学年の頃だったと思う。
今から考えるときっと、インフルエンザに罹患していたのだろう。

下校しても誰もいない家は、しんと静まり返って、空気がピリッと冷たい。
子どもながらに、この感じは只事ではないと、布団を広げて潜り込んだ。

時計の音だけが、やけに大きく響く。
屋内なのに息が白い。
天井がグルグル回って、吐きそうだ。

ガタガタ震えながら、私は小さく丸くなって、誰かの帰りを待っていた。
いつまで待っても、父も、母も、長姉も、次姉も、誰も帰ってこなかった。


私が突然、怒り出し、喚いて号泣しはじめたので、夫は驚いて、まるで子犬のようにしょんぼりとうなだれている。

体調が回復してきたから、勉強会に顔を出して、最低限の義理を果たしてこよう、と考えたことの何がいけなかったのだろう?
以前から決まっていた予定だし、行くなとは言われてなかったはず。
ちえは、どうしてこんなに怒っているのだろう?

きっと、どれほど考えても、夫にはわからない。


しばらくして、夫がコンビニの袋を下げて帰ってきた。
中には、クリームパンと、たっぷりお砂糖の乗ったバームクーヘン、野菜ジュースが入っていた。



お陰様で今は、すっかり解熱し、順調に回復に向かっております。
皆様もどうか、お気をつけくださいね。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。もしも気に入っていただけたなら、お気軽に「スキ」してくださると嬉しいです。ものすごく元気が出ます。