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負け犬の遠吠え 支那事変8 盧溝橋の銃弾

1933年、満州事変の停戦協定である「塘沽停戦協定」が日本と国民党の間で交わされた事によって、中華民国と満州国の国境は明確になりました。

しかし国境付近では国民党主導による反日活動が活発になっており、国民党軍と日本軍の小規模な衝突や、親日派の民間人に対するテロが頻発していました。

その為、日本は華北を国民党の支配から切り離し、日本の影響力を強めようと「華北分離工作」を進めました。

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国民党主導の反日活動は、「一切の挑戦撹乱行為を行うことなし」と明記された塘沽停戦協定に違反していた為、これに基づいて
「梅津・何応欽(かおうきん)協定」
「土肥原・秦徳純(しんとくじゅん)協定」
が立て続けに結ばれる事になり、国民党軍が華北から撤退する事が約束されました。

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これによって国民党の支配力が薄まった河北省では、それまで悪政に苦しめられていた民衆によって「減税」と「自治」を求める武装蜂起が次々と起こります。

この蜂起には日本人も参加していた為、この蜂起は民衆が自発的に行ったものではなく「華北分離工作」の一環である、と現在では指摘されています。

そのような状況において、蒋介石によって「幣制改革」が進められ支那の通貨が統一されると、国民党の経済的影響力が増す事が懸念される為、日本を焦らせました。

しかし同時に、幣制改革における「銀の国有化」が民衆の反発を生んでいる事がわかると、土肥原賢二少将は、自治権を求める民衆運動に乗じて、政治家の「殷汝耕(いん じょこう)」に働きかけて「冀東防共自治政府」を樹立します。

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これは塘沽停戦協定で定められた非武装地帯の中にできた親日政権であり、治安の維持は支那人によって組織された保安隊に任されることになりました。

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冀東防共自治政府ができたのは1935年11月の事ですが、文字通り「共産主義への防波堤」ができたことにより、蒋介石は国共内戦に集中する事ができていました。

日本に対しては妥協の姿勢を取り続けていた蒋介石が一転「抗日」に変わったのは、「西安事件」がきっかけであるという事は以前書いた通りです。

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1936年12月に、西安事件から釈放された蒋介石は、国共内戦を放棄して「第二次国共合作」を成立させました。

国民党と共産党が手を組んだ以上、中華民国の敵は「日本」しかいなくなってしまいました。

さて、1936年と言えば日本では「二・二六事件」が起こった年です。

二・二六事件の結果、陸軍内の「皇道派」は著しく勢力を衰退させ、その結果として対抗派閥の「統制派」の天下となります。

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クーデターによる国家転覆を図った皇道派と違って、統制派は合法的に政権を掌握しようとします。

広田弘毅を総理大臣に据えた「広田内閣」に対し、統制派は人事や政策などに干渉し「退役させられた皇道派の人物が陸軍大臣にならないように」という名目で「軍部大臣現役武官制」を復活させました。

軍部大臣現役武官制とは、軍部大臣(陸軍大臣・海軍大臣)への就任資格を現役の大将・中将に限定する法律の事です。

例えば陸軍大臣が辞任して、後任の大臣を陸軍が選ばなければ、陸軍大臣のポストが空いてしまう事になり、内閣は解散を強いられてしまいます。

これによって軍の意向にそぐわない内閣は倒閣させられる事になり、現に広田内閣は陸軍大臣の寺内寿一が辞任をチラつかせた事が原因で解散してしまいました。

要するに、日本政府は「軍を止める力」を失ってしまったのです。

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「1936年」は国内外問わず「戦争を始めるための準備期間」とでも言うような、そんな不穏な空気が世界中で漂っていました。

広田内閣の後を継いで組閣されたのは、近衛文麿を首相に据えた「近衛内閣」です。

緊迫した状況の中、日本の舵取りは近衛内閣に委ねられる事になりました。

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そのような状況の中、ついに日本を戦争へと引きずりこむ第一歩となる事件が発生しました。

1900年の「義和団事件」の時に締結された「北京議定書」によって、居留民保護のために列強国が支那に兵を駐留される事が認められていました。

日本はそれに基づいて「支那駐屯軍」を北京と天津に配備していましたが、兵は2000人にすぎませんでした。

しかし国共内戦に伴う「長征」によって共産党軍が北京近くの山西省に侵入すると、日本軍はこれを警戒して支那駐屯軍の増派を行い、1936年6月の時点で5774名に増員されていました。

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1937年7月7日、日本軍は北京郊外の「盧溝橋」で夜間演習を行なっていました。


盧溝橋を渡った先には国民党第二十九軍が駐屯する「宛平県城(えんへいけんじょう)」があります。

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午後10時40分頃、日本軍が実弾を使わない演習を行っていると突然、堤防沿いにいた支那人兵士が日本軍に向かって実弾を数発発射してきました。

さらに10時50分、翌日午前3時25分と、三度にわたり実弾射撃を受けた日本軍は、敵の正体を確認すべく前進します。

すると永定河の左岸に布陣していた国民党第二十九軍が日本軍に対して一斉射撃を開始、日本軍もやむなくこれに応戦する事になりました。

この戦闘で両軍ともに数十名の死傷者を出すことになりました。

支那側から要求により両軍は停戦状態になりますが、9日、10日と国民党軍は現地停戦協定を無視し、日本軍に対して散発的な攻撃を仕掛けてきました。

この事態に日本では「三個師団の派兵」が閣議決定されますが、11日に正式に停戦協定が成立したため、見送られる事になりました。

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この「盧溝橋事件」は、「大陸へ進出を目論む日本の侵略戦争の始まり」として教えられる事がしばしばあります。

しかし当時支那に駐屯していた日本軍は5000名、それに対して北支に配備されていた国民党第二十九軍はの兵力は10万であり、とても日本側から戦闘を仕掛けれらるような状態ではないのです。

この事件の勃発によって、にわかに慌ただしくなったのが支那共産党です。

事件直後の7月8日には全国に「局地解決反対」を主張し、さらに抗日組織を結成して日本軍と衝突する事を呼びかけ、日本との戦争を支那全土で煽ったのです。

そもそもこの盧溝橋事件、最初に発砲したのは国民党軍に入り込んだ共産党員の仕業であるという説が有力です。

事件当時、北京大学構内から延安の共産党司令部に「成功した」という無線通信が繰り返されていたのを、日本軍の通信手が傍受していました。

これは、「(日本軍と国民党軍を衝突させる事に)成功した」という意味なのです。

この時から日本軍にとって、執拗に繰り返される挑発に必死で耐え抜かなければならない地獄が始まりました。

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盧溝橋事件の停戦協定が結ばれたにも関わらず、増派の構えを見せていた蒋介石に対抗するかのように、近衛首相は「北支派兵声明」を発表します。

これは政府が打ち出した「事変不拡大方針」に矛盾する行為であります。

近衛首相はその後も北支における軍事予算を拡大するなど不拡大とは真逆の政策を取り続け、現地での和平は困難なものになってしまいました。

そのような状況の中、7月13日、北京市内の大紅門で日本兵が国民党軍に襲撃を受けました。

大紅門を通過中の日本軍のトラックが爆破され、4名の日本兵が死亡したのです。

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さらに14日、天津から豊台へと向かう日本軍騎兵隊の近藤二等兵が、落鉄で遅れを取っている隙に襲撃を受け、6発の銃弾を受け死亡、青龍刀で頭を割られ、右足を切り落とされるという残虐な遺体損壊を加えられました。

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そして20日には、盧溝橋事件の停戦協定によって撤退するはずだった宛平県城の国民党軍から日本軍に対して一斉射撃や砲撃が加えられます。

この事態に日本政府は再び三個師団の派兵を検討し始めますが、事態が沈静化したため今回も見送られる事になります。

『盧溝橋事件をきっかけに日本は戦争へと突き進んでいった』と教えられてきましたが、実際は陸軍内部もかなり慎重に事を進めようとしていた事が伺えます。

しかし国民党軍からの軍事的挑発は続きます。

盧溝橋事件以来、日本軍の軍用電線が何者かによって切断される事件がしばしば起きており、7月25日にも電線を修理するために北京近郊の「廊坊」へ護衛隊と共に通信部隊が向かいました。

修理を開始した日本兵に対し、国民党軍は機銃掃射と砲撃を加え、日本軍がこれに応戦する形となりました。(廊坊事件)

とは言え、日本兵はわずかに100名、それを襲う支那第38師団は6000名と、余りにも多勢に無勢で、日本側は死者4名を含む15名の死傷者を出しながらもなんとか援軍が到着するまで持ちこたえるのが精一杯でした。

増援の到着によって支那軍は散り散りになって退散し事態は収束しましたが、この事態を重く捉えた支那駐屯軍は陸軍参謀長から「武力行使容認」の許可を得ます。

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さらに「廊坊事件」の翌日の事です。

北京の日本人居留民を保護するため、日本軍は26台のトラックで移動中でした。

しかし北京市内の広安門を通過する際、途中で門を閉められてしまい、日本軍は門の内と外とで分断されてしまいました。

国民党軍は城壁や城門の上から手榴弾や機関銃で攻撃を仕掛け、日本軍は死者2名を含む19名の死傷者を出しましたが、今回も援軍が駆けつけた事によって事態は収束しました。

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これらの度重なる襲撃により、在留日本人の安全を確保できなくなったため、日本政府は遂に三個師団の派兵を決定します。

7月28日から北京、天津を二日で制圧し、国民党軍を掃討しました。(平津作戦)

そしてこれ以上事態が悪化しないよう、日本はすぐさま和平交渉へと動きます。

支那から信頼を得ている元外交官、「船津辰一郎」を通して国民党に働きかける「船津和平工作」が勧められました。

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これは、日本が有利な条件で進めてきた協定の解消や、冀東防共自治政府の解消など、要するに「満州事変直後の状態に戻そう」という非常に譲歩した破格の和平交渉でした。

交渉予定びは8月9日だったのですが、実は平津作戦が展開されていた7月29日、日本国内を震撼させる凄惨な事件が起きていました。「通州事件」です。

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1937年7月29日、冀東防共自治政府内の日本人居留民を保護するはずだった保安隊3000名が通州日本軍110名を襲撃しました。

日本軍を壊滅させた保安隊は、日本人居留民380名の家を残らず襲撃し、略奪、暴行、強姦を行いました。

犠牲者数は223名、260名と諸説ありますが、その遺体はどれも過度に損壊が加えられており、目・鼻・口などの顔立ちもわからず、性器もえぐり取られて身体的特徴の判別もつかない「性別不明」の遺体は34名にものぼりました。

7月30日、日本軍が通州へ向かっているという情報を得た保安隊は即座に逃亡し、日本軍が到着した時にはすでに彼らの姿はありませんでした。

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通州事件が起きた背景として、支那国内における民衆の過度な反日感情が原因として挙げられます。

日本の影響下にあった冀東防共自治政府や、日本人居留民を保護する保安隊に対する支那人の風当たりは強く、軽蔑の眼差しが向けられていました。

彼らは敵国人の見方をする同胞の事を「漢奸(かんかん)」と呼び、敵よりも憎むのです。

保安隊隊長の「張慶余」は、息子から『親子の縁を切る』と新聞で大々的に宣伝されてしまいました。

張慶余が再び支那人として認めてもらい生きていくには、日本人への残虐行為を行うことによって国民党への忠誠を示すより他なかったのでしょうか。

張慶余は通州事件を起こした後、国民党軍に合流し、中将の地位にまで登り詰めました。

「漢奸」から「抗日の英雄」になったのです。

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国内では通州事件の報道を受けて「暴支膺懲(暴虐な支那を懲らしめろ)」という国内世論が湧き起こりましたが、それでも日本政府は和平の道を探っていました。

1937年8月9日には「船津和平工作」の交渉が進むはずでした。

しかし同日、日本海軍陸戦隊の大山勇夫中尉、斎藤與蔵一等水兵が上海にて惨殺されます。

大山大尉は身ぐるみを剥がされ、数十発の銃弾を受けて蜂の巣にされ、青龍刀で頭をかち割られて顔が半分なくなっており、心臓にはこぶし大の穴が空いていました。

支那側は「大山大尉が支那人を射殺したので正当防衛だ」と主張したので、大山大尉に殺されたとされる支那人の遺体を解剖すると確かに「小銃」の銃弾が出てきました。

しかし大山大尉が持っていたのは「拳銃」であり、銃弾の種類が違いました。

船津辰一郎が交渉のために上海入りした翌日に、同じ上海でこの様な虐殺事件を起こすのは妨害工作に他ならず、当然ながら船津和平工作が身を結ぶ事はありませんでした。

※殺害現場

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※大山大尉

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※齋藤一等水兵

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ところで上海では、1932年に起きた「上海事変」によって、「上海停戦協定」が結ばれていました。

しかし国民党軍は1935年頃から、ドイツ人軍事顧問のファンケルハウゼンの指示に従い、停戦協定を違反して非武装地帯に陣地を構築しており、北支で盧溝橋事件などが起こる中、上海付近の兵力を増強させて日本軍との戦闘に備えていました。

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その様な状況で8月9日に「大山事件」が起こり、日支両軍は一触触発の緊迫した状態となりました。

そして8月12日、国民党の正規軍3万名が日本人居留区域を包囲します。

8月13日、国民党軍が日本軍陣地へ機銃掃射と砲撃を開始、「第二次上海事変」が始まります。

4千名の兵力しかない日本軍は防衛に徹する事になりました。

8月14日、国民党軍は上海のフランス租界、共同租界を爆撃し、一般市民を含む3600名が死亡します。

この爆撃は、上海に租界を持つフランス・イギリス・アメリカを巻き込んで、その怒りを日本軍に向けさせる事が目的だったと言われています。

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1937年7月7日の盧溝橋事件の段階では戦局は「北支」に限定されていましたが、8月13日に起きた第二次上海事変によって戦地は広がり、事態は「全面戦争」の様相を呈し、ずるずると「支那事変」が始まる事になりました。

こうして日本は、底のない泥沼に足を突っ込んでしまったのです。

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