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負け犬の遠吠え 第一次世界大戦8 虚構の平和

 第一次世界大戦は「塹壕戦」の様相を呈した事により泥沼化し、予想以上に長期化していました。

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膠着する戦局に大きな変化をもたらしたのは、1917年に起きた「アメリカの参戦」と「ロシア革命」です。

あらゆる人員、物資をつぎ込む「国家総力戦」を展開したドイツでは、戦局の悪化に伴い軍部への反発や厭戦ムードが高まり、デモやストライキが頻発するようになります。

革命が起こったロシアがいち早く戦争から抜け出したした事も、そのような運動に大きく拍車をかけました。

ドイツの敗戦が濃厚になってくる中、1918年10月、ドイツ艦隊はイギリス艦隊へ最後の決戦を挑む事を決意します。

しかしこの「自殺行為」とも言える作戦にドイツ軍の兵士たちは反発し、1000名の水兵が出撃を拒みました。

ドイツ軍は作戦中止の原因となったこれらの兵士たちを逮捕し、「キール軍港」へと送り込みます。

仲間の釈放を訴える水兵たちはデモを起こし、労働者や兵士達の評議会「レーテ」が結成されました。

これはロシア革命でいう「ソヴィエト」と同義のものであります。

レーテの蜂起により広がった反乱はドイツ西部の都市を支配下におき、皇帝の退位を求める運動が広がります。

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革命の鎮圧が不可能だと察したドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はオランダへ亡命してドイツ帝国は崩壊、「ワイマール共和国」が誕生しました。

この時期、ブルガリア、オスマン帝国、オーストリアなど同盟国側の国が次々と停戦協定を結んでおり、ドイツも11月11日に停戦協定を結ぶことになります。

こうして、両軍合わせて戦死者1000万人という悲惨な世界大戦は終息に向かいました。

ドイツ、ロシア、オーストリア、オスマンなど4つの帝国が崩壊したこの世界大戦は、かつて述懐したように彼ら自身が招いた「帝国主義の末路」だと言えます。

そして1919年1月、第一次世界大戦の講和会議がフランスで開かれました。(パリ講和会議)

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ここでアメリカ大統領の「ウッドロウ・ウィルソン」は「十四カ条の平和原則」を提唱します。

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これは「秘密外交の廃止」「海洋航海の自由」「民族自決」など、画期的で平和的な解決法として賞賛されました。

しかしその実態は「平和」という言葉を盾にしたウィルソンの野心の塊だったのです。

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民族の運命はその民族自らが決定するという「民族自決」の考えは、ヨーロッパ小国の独立を促した一面もありながら、少数民族の政治的運命を「国家」から切り離して民族自身に委ねようという、共産主義思想にありがちな「国家転覆」の意図も含んでいました。

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後に支那で「五四運動」が活発に起こりますが、これは中華思想に基づいた日本民族への反発からくるものであり、「民族自決」の精神が大いに影響しています。

また、「民族自決はヨーロッパ内でのみ適用される」という詭弁によってアジアやアフリカの植民地の有色人種の自由は無視され、英米は植民地利権を変わらず貪り続けました。

現在の日本においても、アイヌなど「民族自決」による「国家分断戦略」が政治的な問題になっていますが、根本はここからきているのです。

実は「14カ条の平和原則」は、ロシアで共産主義革命を実現したボリシェビキが掲げた「平和に関する布告」という対外政策がモデルになっています。

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ウィルソンは「平和に関する布告」を「世界に貴重な原則を示した」と絶賛していたのです。

ボリシェビキを支持するウィルソンは、平和原則の中に「ロシアへの不介入」を原則に盛り込見ました。

その為、打倒ボリシェビキの為にシベリアへ出兵し続けていた日本は一気に悪役に仕立て上げられて国際世論の非難を浴びてしまいます。

ウッドロウ・ウィルソンは第一次世界大戦後の「戦後秩序」に「共産主義」を混ぜ込んだのです。

その結果、世界は混沌とし、日本はその濁流の中でもがく事になっていくのでした。

さて、6月にはパリ講和会議に基づいた「ヴェルサイユ条約」が締結されます。

ウィルソンが「平和的解決」なんて言うものだから、ドイツはすっかり期待してしまっていましたが、ガッツリと賠償金を取られ、軍備を削減され、領土の10%と全ての植民地を失いました。

ドイツが賠償金を払い終えたのは、なんと2010年の事になります。

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民族自決によってヨーロッパの小国が独立した事は先述いたしましたが、その独立はヴェルサイユ条約によって保証される事になります。

しかし結局はそれも戦勝国の思惑であり、ドイツやソヴィエトの国境付近に小国を林立させて「緩衝国」としての役割を果たさせるためのものでした。

このような、ヴェルサイユ条約で確定された第一次世界大戦の戦後秩序を「ヴェルサイユ体制」と呼びます。

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そしてそのヴェルサイユ体制を国際的に維持するために作られたのが「国際連盟」です。

国際連盟を作るための委員会がパリ講和会議中に開かれた時、その中で日本は「人種差別撤廃案」を提案します。

当時、アメリカやカナダで日本人移民に対する排日運動が起こっていたからです。

日本の提案は二度に及びます。

一度めは連盟規約の「宗教に関する規定」の最後に「人種或いは国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」と言う条文を追加するように提案したものですが、結局「宗教に関する規定」そのものが削除されてしまいました。

しかしこの日本の提案は海外でも報道され、全権大使としてこの提案をした「牧野伸顕」の元に、各国から感謝の声が届きました。

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世界で初めて「人種差別の撤廃」を国際的に訴えたのは、日本だったのです。

牧野大使は1度目の失敗にめげず、続いて連盟規約の前文に「国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す」と言う一文を加えるように提案しました。

ウィルソンはその提案を取り下げるように勧告しますが、牧野大使は投票による採決を要求し、各国の代表による投票が行われました。

16名の投票者のうち「11人」が賛成票を投じたにもかかわらず、ウィルソンは「全会一致じゃないからダメ〜」と宣言し、不成立にしてしまいます。

ウィルソンの頭の中では、「民族自決」の実現には「人種差別の撤廃」は必要ないようです。

「国際連盟」はそもそもウィルソンの提案により作られたものなのですが、アメリカ議会は「孤立主義」を重んじ、国際連盟加盟に反対しました。

その結果、国際連盟は提唱者のアメリカが不参加というなんともチグハグな組織となってしまうのでした。

紛争解決能力のない国際連盟に幻想を抱き、民衆は戦争が終わった平和を盲目的に謳歌し、第二次世界大戦が忍び足で近づいてくる事に気づきもしませんでした。

そしてその足音はすぐに日本にも届くようになります。

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