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負け犬の遠吠え 支那事変2 「独裁者」のつくりかた

第一次世界大戦で敗北したドイツは、「アルザス」「ロレーヌ」の2州をフランスから取り返され、「ポーランド回廊」をポーランドに割譲され、ダンチヒ市は国際管理下に置かれ、さらに全ての植民地を失いました。

そしてライン川の東側50kmの地域「ラインラント」は非武装地帯に設定され、ルール工業地帯も失いました。

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この様な第一次世界大戦の戦後処理を国際的に取り決めた秩序を「ヴェルサイユ体制」と呼び、敗戦国であるドイツを圧迫しました。

空前のインフレを起こして低迷するドイツを救うべく首相になったグスタフ・シュトレーゼマンは、臨時通貨を発行するなどの政策を行ってインフレの沈静化になんとか成功します。

首相を退任した後は外相として協調外交を展開し、1926年には国際連盟に加入し、ドイツは国際社会に復帰する事ができました。

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しかしその激務のせいか体調を崩し、シュトレーゼマンは1929年に脳卒中で死去してしまいます。

そして立ち直りかけたドイツに追い打ちをかけるように、世界恐慌が訪れます。

その中で勢力を拡大していく政党がありました。

「ナチス」です。

ナチスとは、「Nationalsozialitisch Deutsche Arbeiterpartei(国家社会主義ドイツ労働者党)」の頭文字の「Nati」を使用した呼称です。

ヒトラーが入党してからのナチスは、第一次世界大戦の戦後体制である「ヴェルサイユ体制の打破」と、ドイツの共和国政府に対する不満を主張しました。

1923年には「ミュンヘン一揆」というクーデター未遂事件を起こしており、この時にヒトラーは1年間投獄され、獄中で「我が闘争」を執筆しました。

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世界恐慌は確実にヒトラーの味方をしました。

ドイツ紙幣は紙くず同然の価値となり、人々はパンを買うために札束を抱えて買い物にいかねばならない状況の中、失業者が溢れかえり貧困に喘ぐ民衆の、政府に対する不満を利用してナチスは国民の支持を得ていきます。

※無価値になった札束で遊ぶこどもたち

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完全に麻痺してしまったドイツ経済を立て直すべく、ヒンデンブルク大統領はワイマール憲法第48条「大統領緊急令」に基づき、議会を無視して政治を行おうとしましたが、それでも効果は上がりませんでした。

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そんな中で急速に民衆の支持を集め、議席を増やしていたのが「ナチス」です。

当時のドイツ国民の中には「第一次世界大戦に負けさえしなければ」という感情が心の底でくすぶっていました。

さらに言うなれば、敗色濃厚で圧倒的に不利な戦局とは言え、最前線で踏ん張っていた兵士や、苦しい生活に耐え抜いて来た民衆からしてみれば、突然起きた「ドイツ革命」によって皇帝が退位し、突然あっけなく敗戦が決まってしまった事によって、「不完全燃焼状態」に陥っていたのです。

そしてそのドイツ革命を主導したのがユダヤ人であった事を、ヒトラーは利用しました。

※下の画像は、ドイツ革命の指導者たち

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ヒトラーは反ユダヤ主義を掲げ、民衆の不満の矛先をユダヤ人に向けさせました。

「ドイツ革命は、共産主義者とユダヤ人による犯罪である」
「ユダヤ人に騙されて戦争を終わらせたからこんな生活になってしまったのだ」
とヒトラーは説いて回ったのです。

ヒトラー自身、第一次世界大戦では6回も勲章を貰うほどの活躍をしていた前線兵であり、第一次世界大戦で苦しんだ民衆の「代弁者」として支持されるようになりました。

そしてヒトラーはドイツ民族の優秀さを主張し、民族主義を刺激された民衆を熱狂させていきます。

「ナチス」とは「国家社会主義」の事だと書きましたが、ヒトラーの掲げた政策は社会主義的なものではなく、その実態は「民族共同体主義」であったと言えます。

1932年、ナチスは総選挙で230議席を獲得して第1党に上り詰めることができました。

共産党の増大に警戒していた政財界や軍部の要人達もナチスを支持するようになり、賓田ブルグ大統領はアドルフ・ヒトラーを首相に任命しました。

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ナチスはここまで合法的に、議会のルールに従って勢力を伸ばしてきました。
1933年1月、ヒトラーが首相に就任すると、早速解散総選挙を行います。

そしてその選挙の投票日の一週間前、なんと国会議事堂が炎上してしまいます。

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ヒトラーはこれを共産党員の仕業だと断定し、「共産党員にはテロを起こす可能性がある」として、共産党員を次々と予防拘禁しました。

そして選挙の結果、議席数を増やしたナチスはドイツ人民党や中央党の協力を得て「全権委任法」を可決する事に成功します。

これによって議会や大統領の権限は形骸化し、ヒトラー内閣は議会の承認を得ずに法律を制定できるようになりました。

そして7月にはナチス以外の政党を禁止する法案が通され、一党独裁体制が築かれます。

1934年にはヒンデンブルク大統領も死去し、ヒトラーは大統領と首相を兼ねた「総統」に就任、全ての権限をもつ「独裁者」になりました。

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ヒトラーが政権を手にした時、ドイツには600万人の失業者が溢れかえっていました。

ヒトラーは「結婚奨励法」を制定します。

これは、女子労働者が退職し、復職しないことを誓えば結婚資金を無利子で借り入れる事が出来、さらに子供が生まれる毎に返済金が免除されていくシステムで、子供を4人以上産めば補助金ももらえました。

補助金とは言っても、「商品券」として支払われる為、若い夫婦達はこぞって家財道具などを買い揃え、経済も活発化しました。

この政策によりドイツ国内の結婚件数は爆発的に増え、出生率は20%増加します。

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ヒトラーは女性達に「良き主婦」である事を求め、女性の社会進出は抑制される事になっていきました。

しかし一方で、女性の家事の負担軽減も考えられ、低コスト・デザインの統一感・システムの合理化を取り入れた「フランクルト・キッチン」が開発され、これは現在普及している「システムキッチン」の原型となっています。

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さらにナチスは国民の衛生環境も改善し、乳幼児死亡率はイギリスよりも低くなりました。

労働者の為に有給休暇や健康診断を取り入れ、巨大な保養施設も建設し、アウトバーンなどの公共事業への着手や、低価格の自動車の開発など、国民にとってはまさに「至れり尽くせり」でした。

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このような充実した福祉政策の中、ヒトラーは大幅な減税に踏み切ります。

国民が豊かになる事で所得税を納める者が多くなり、税収は増えました。

その結果、1932年に600万人いた失業者は、1940年にはなんと4万人に減少したのです。

このような経済政策は、当時の経済学者から理解されるものではなく、ヒトラー自身でさえも己がやっている事の効果を理解できるほどの知識はなかったであろう、と言われています。

民主的な議会政治においては必ず相反する「利権」が存在し、双方に気を使わなければならず、まるでアクセルとブレーキを交互に踏んでいるかのような中途半端な経済政策になってしまいがちであり、政策本来の目的が社会に反映されづらいものです。

ヒトラーの政策が成功したのは、独裁者ゆえにアクセル全開で進むことができたからではないかと思います。

何はともあれ、ヒトラーの経済政策によってドイツは息を吹き返し、国民達を熱狂へと巻き込んでいくのでした。

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さて、ナチスはその経済政策の裏で、「ヴェルサイユ体制」の打倒に動き始めていました。

1933年10月、ドイツは国際連盟から脱退します。

国際連盟の実態はヴェルサイユ体制を維持するための戦勝国連盟であり、ナチスがそれを打破する事を掲げている以上、国際連盟からの脱退は当然の成り行きと言えます。

国際連盟の管理下におかれていたザール地方は、住民投票にて91%の支持を得てドイツに復帰する事になりました。

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そして翌年、ドイツ軍は非武装地帯ラインラントの無血占領に成功します。

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この「ラインラント進駐」は、ヒトラーの「賭け」でした。

この時のドイツ軍には、まだフランス軍に勝てる力はなく、もしフランス軍が攻撃を仕掛けてきたらドイツ軍は退却するしかなく、ヒトラーの失脚にも繋がりかねなかったのです。

しかし第一次世界大戦で135万人の死者を出していたフランスは、戦訓として「防衛重視」の方針を固めており、さらに戦争を望まない国内世論も影響して積極的に攻撃をする事ができなかったのです。

ラインラント進駐は第二次世界大戦の大きな分岐点となりました。

非武装地帯を失った事でドイツに対する軍事的優位性が崩れてしまい、以降、西欧各国はドイツに対して後手に回ってしまう事になっていくのです。

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1936年11月、日本とドイツの間で「共産インターナショナルに対する協定」が結ばれました。

これは国際的に暗躍するコミンテルンに対する共同防衛を謳ったものであります。

当時の日本とドイツの利害関係は一致していました。

・日独両国ともに国際連盟を脱退しており、国際的な孤立を防ぎたかった
・共産主義国家ソ連を仮想敵国にしており、地理的に日本とドイツが手を組めばソ連を挟み撃ちにできる事

上記のような理由で、日独の関係は急速に接近していく事になりますが、かつては第一次世界大戦の敵国同士であったため、ドイツ国内の反応は微妙だったそうです。

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さて、ラインラント進駐を果たし、フランスの軍事的優位性を崩したヒトラーの目線は「東」に向きました。

ドイツで熱狂的な支持を受けていたナチスの影響は隣国「オーストリア」にも波及し、「オーストリア・ナチス党」が勢力を伸ばしていました。

ヒトラーはオーストリア・ナチス党にクーデターを行わせ、ドイツ軍を進駐させます。

「戦争アレルギー」に陥っていたイギリス・フランスは不干渉の姿勢を崩さず、オーストリアはドイツに併合されてしまいます。(アンシュルス)

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ナチスドイツの侵食は止まりません。

ヒトラーは、ドイツ人が多く住んでいるズデーデン地方の割譲をチェコスロバキアへ要求し「チェコスロバキアを地図から消す」と脅しをかけました。

イギリス・フランスはここでも不干渉の姿勢を取りたいところでしたが、チェコはフランスやソ連と「相互防衛援助条約」を結んでいたので無視する事ができませんでした。

そこで、イギリス・フランス・ドイツ・イタリアの4カ国でズデーデンの帰属問題を話し合う事になります。(ミュンヘン会議)

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その当時、「大粛清」を起こして国力が低下していたソ連はチェコ問題に関心を持たずに不参加、さらに当事者であるチェコスロバキアは参加も傍聴も許されない有様でした。

イギリス代表のチェンバレン首相は「チェコに譲歩させる」と最初から腹に決めていたのです。

イギリスやフランスにしてみれば、ヒトラーの目がチェコ問題などで東に向いてくれている間は安泰なのであり、あわよくばソ連とドイツが戦争を始めて潰しあってくれることを期待していました。

会談は終始ヒトラーのペースで進められ、西欧諸国に見捨てられたチェコはドイツに割譲される事が決まりました。

隣室でこの結果を聞いたチェコ大使のマサリクは涙を流したと言われています。

チェンバレンは「ドイツとの戦争を回避した」とイギリスで大喝采を浴び上機嫌でヒトラーのサインを見せびらかしました。

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ソ連は当然ながら、東へ進出するドイツを警戒し始めます。

まるでドイツの東進を後押しするかのようなイギリス・フランスの不干渉姿勢は、もしドイツとソ連が戦争になった際、反共産主義の立場から英仏がドイツ側につくのではないかという懸念をソ連に抱かせました。

スターリンはその裏をかくかのように「独ソ不可侵条約」を結びます。

これに驚いたのはイギリスやフランスなどの西欧諸国と日本です。

一緒に共産主義に対抗するためドイツと防共協定を結んでいた日本は愕然とし、その衝撃は平沼首相が「欧州情勢、複雑怪奇なり」との声明を出して総辞職してしまうほどでした。

1939年9月1日、ドイツ軍はポーランドへ侵攻します。

ポーランドがドイツの手に落ちれば、その東にはソ連しかなく、これ以上東に進めなくなったドイツの侵攻は西へ向けられてしまうのです。

ここにきてようやくイギリスとフランスはドイツへ宣戦を布告し、ついに「第二次世界大戦」が始まるのでした。

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宣戦布告したはいいものの、フランスは防衛のみに固執し、イギリスは準備不足もあってドイツに太刀打ちできそうにありません。

結局イギリスもフランスも、ポーランドを見捨てて戦力を温存する事にしました。

ポーランドはドイツとソ連に分割されてしまい、3度目の国家消滅となってしまいました。

消滅したポーランドではその後、「カティンの森事件」という凄惨な事件が起こるなど、悲惨な運命を辿ります。

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第二次世界大戦が勃発するまでの流れをまとめて見ましたが、こうしてみると第二次世界大戦は「第一次世界大戦の二回戦」に過ぎない事がわかります。

人類史上最悪の戦争「第二次世界大戦」は、「帝国主義」の終焉であり、ヒトラーはその経過で産み落とされた産物なのです。

問題なのは、日本は同盟を組む相手を見誤ってしまった、という事です。

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