従軍看護婦だった祖母の手記「病院船の人々」
安達先生のこの記事を読んで、この絵を見て亡き祖母の事を思い出しました。
祖母は支那事変の時の従軍看護師でした。
その時の体験を、NHKの依頼によって話した事があるようで(たぶんまだ戦時中?)、短い文章ですがその原稿が残っていますのでご紹介させてください。原文のままですが名前は伏せてあります。
病院船の人々
救護看護婦 N田礼子
顧みますれば、昭和十二年八月十五日、私たちにも軍人同様に赤紙の召集令状を頂きました。
そのときの心のときめき、何と申し上げていいやら、只々感激の涙にくれたのでございます。
殊に父母の喜びは一方ならず、たとえようもございませんでした。
私以上に喜び励ましてくれました。
姫路日赤病院で3年間修行した事が、今こそお役に立つのだと感激し、生徒時代がなつかしく思い出されて参りました。
赤十字看護婦になってよかったと、しみじみ喜びを感じ、改めて父母をはじめ、恩師、先輩に感謝の念をささげたものでございます。
八月十九日、今はK田班長殿を中心にしまして、抱い90班の班員は、郷土の皆様の盛大なお見送りを受けて、熊本駅を出発致しました。
その時の感激は私の一生を通じ、忘れることのできないものになっております。
広島でしばらく待機しておりまして、九月九日、宇品港に於て、赤十字も鮮やかな、横一本の青線を引いた真白な病院船「景山丸」に乗船致したのでございます。
その時の心の緊張は今も忘れられないのです。
私たちが勤務する船は比較的小さいもので、荒波の時など同じ所をグルグル巡って一向に前進しないこともありました。
幾度となく波をさけ、島影に避難したことさえありました。
あの頃の苦しみも、今はなつかしい思い出となっております。
病院船に乗船した当初は、ペンキの塗りたてで、あの鼻につく悪臭に悩まされ、その上エンジンの音がいつも耳からはなれませんでした。
第一航海は、黄海、渤海を過ぎ、北支の秦皇島に参りました。
丁度二百二十日の暴風雨の頃で、病院船は木の葉のようにゆれにゆれます。
眺むればいずこも荒れ狂う波ばかりです。
皆青い顔をしながら、それでも一日も早く船に慣れようと努力して、甲板を歩き回ったりしたものです。
船がゆれる日は嘔吐がはげしくて、食べたものは全部吐き出してしまいます。
胃液も胆汁も出て参ります。
もうこれ以上は腸まで出てくるのではないかと思うように、激しい苦しみが続きました。
秦皇島の岸壁に着いたときは、班員全員がゲッソリとやせていました。
船が碇泊すると今までの苦しみは嘘のように消え去ります。
秦皇島に着いたとき、先ず第一に目に入ったのは、武装したなつかしい我が軍の歩哨勤務の兵隊さんでした。
第一線でお国のために戦っておられる兵隊さんの姿を見ては、私達の船酔いなどなんの苦しみぞと心の中で思ったことでした。
はじめての患者収容のことを思い出します。
病院列車から運ばれて来られた白衣の勇士、そのほとんどが担送患者です。
狭い病室にぎっしり入れます。
ベッドに移すとき、傷口あてたガーゼから膿汁がポトポト落ちている人や、戦塵にまみれた戦場そのままの姿で、軍服は破れ血痕がいたる所についているのを見たとき、自然に目がしらが熱くなるのをどうしようもありませんでした。
「ご苦労様でございましたね」
と言葉をかけると、嬉しそうに
「看護婦さんもお疲れですね」
とかえってお礼の言葉を言はれるのでした。
私達の病院船は、普通の船を改造したもので、両側は二段に仕切られております。
立つことは全然できなくて、座るのがようやくできる程の高さです。
包帯交換の時など、電灯やらピンセット、ガーゼ缶等をいざりながら運んで行ったものでした。
そういうわけで、上の鉄板に幾度となく頭をゴンツンゴツンと打ち付けておりました。
柿田医員殿もよく頭を打たれては
「これでは頭が禿げてしまう」
と患者さんを笑はせていらっしゃいました。
一日に幾度となく、ガーゼ交換を要する患者さんがたくさんございました。
それでも波静かな時は、白衣の勇士の手柄話を聞かせて貰うこともありました。
ひとたび荒れ狂う日に出会いますと、足は宙に浮くし、苦しみが生じて参ります。
こうなると患者さんの苦しみも、傷の痛みも激しくなり、また嘔吐がはじまります。
先づ一人が嘔吐いたしますと、その悪臭が病室一ぱいに広がって、ここでも、あそこでもと言うわけで、洗面器やバケツが幾つあっても足らなくなってしまいます。
背をさすってやってる私共も、嘔吐しながら涙を流しながら看護していることが多く、慣れないことは殆ど、内地に着くまで何も食べないことがありました。
食べていないのに嘔吐が続くので、幾度となく血を吐くことさえありました。
その上、更に困ったことは、風雨の強い日でした。
私達の船は改造船であるため、便所が甲板に設けてありました。
尿器や便器をさげて階段を上下しなくてはなりません。
収容患者の大半が担送患者であるため、便所に行けないのです。
雨にぬれてビショビショになりながら、ひっきりなしに捨てに通ったものでした。
とくに雨に風が加ははると大変です。
いそいで捨てると、風が自分の方に吹き付けてきて、体一ぱいお小便をかけられてしまいます。
全く泣くに泣けない有様でした。
幾度となく、そんなへまなことを繰りかえしたことが、今でも雨の日、風の日などに、頭に浮かび、今ではかえってなつかしいものです。
幸い、苦しい病院船の勤務も慣れるにつれて、どんなに大きな波が来ても、平気で眺められるようになっておりました。
朝鮮、大連、北支、中支と一年八ヶ月の航海を続け、想い出多い病院船を下船いたしましたのは、昭和十四年三月二十四日でした。
そして四月六日召集解除になったのです。
なつかしい熊本駅に着きましたら、出発の際の見送りにもまさる大歓迎を受け、大きな勤めを私達なりにやり遂げた喜びを感じました。
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祖母はこの時の勤務で体を壊しており、同じく支那事変で戦傷した祖父と結婚する事になりました。
祖父の従軍記事はこちらです
https://note.com/underdog1982/m/mb3485561e172