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「ランニングの不思議」の、はなし。#22

己の「克己心」が試されることの一つに、ランニングがあると思います。

走っていると、体力的な限界よりもずっと前に、

”なんでこんなに息が上がっているのに、私は走り続けているのか”
”この脚を止めてしまえばラクになるのに・・!”

という、甘ったれな自分が叫び出してくる。
この声に負けてしまえば、もうそこまで。
タイムも距離も伸ばせないまま、歩いて家路についてしまう始末です。

私、一人きりでのランニングはいつもこんな具合に心がポッキリ折れてしまうのです。
(たぶんシンプルにこの競技全く向いていない。)

しかし、これが誰かと並走するとなると、一味違います。

私は時々、ランニング仲間と5km程度のジョギングに行くのですが、
人に囲まれていると、途端に甘ったれな私は息を潜めて、

”なんとか追いついていかなきゃ、置いてかれるのはイヤだ!”

という、負けず嫌いな自分がこの身を牽引してくれるのです。

同じ人間が走っているはずなのに、周りの環境次第で走行可能距離まで変わってしまうのって、ほんと不思議ですよね。
ここで出来るなら、一人でもやり切って見せなさいよ、と思ってしまいます。

同様の話は、マラソン大会でも言えます。

私はトレーニングで走るのは苦手なくせに、
年に1-2回の頻度で、ハーフマラソンの大会に出ちゃったりします。

日頃熱心に練習しているわけでもないので、当然タイムが伸びる、ということはないのですが、
一人では数kmしか走れないところ、
大会の強制力が働くと、20km以上も走ることができてしまいます。

”さっき抜かしたはずのあのお姉さんに、もう追いつかれた!やばい、取り戻さなきゃ!”
”全然知らない人だけど、ボランティアの方々がここ通る度に応援してくれる!”
”川沿い走るのって悪くないな。あ、あの人のランニングウェア可愛いな。”
”もうすぐ給水!そこまでは走り切るぞ!!”

という具合にいろんな思考が巡り巡って、
私の弱気が出てくる幕がないほどに、脳内を勝手に埋めていってくれるんですよね。

「克己」をテーマに頑張るぞ!!と息巻いた直後ではありますが、
やっぱりこういうランニングみたいなことは、
誰かの力を借りることによって、格段にできることの幅が増えたりします。

柔軟に、思い切って。
時には、己との戦いから視点を切り替えることも、ちゃんと覚えたいと思います。

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