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悪の定義

悪とは何か?
悪とは感覚の1つで、
正確に言うと認識して発生する感覚だ。
また、行為に対しての感覚でもある。

例えば、奇数は定義を知ってから、
奇数を見た時に、
「奇数だ」と感じるのであって、
奇数の定義を知らないなら、
奇数を見た時、
ただの数としか認識しない。
ただの数と感じる。

だが、悪は違う。
悪という言葉を知らなくても、
悪事を見たなら、
それを悪であると感じる。
悪を感じる。

つまり、人には、
先天的に悪の行為を感じる、
他の行為と区別して感じる機能があるのだ。
そして、悪と感じた行為に対して
人は悪と呼んでいる。

つまり、悪と感じる行為が悪なのだ。

ここで1つ疑問が生まれるだろう。
社会ではある行為に対し、
悪か否かの議論が起きる事がある。
これはどういう事か?

答えは単純。
認識している事実が異なっているが為に、
ある行為が悪と認識されたり、
しなかったりしているのだ。

つまり、全員が事実を認識しているなら、
悪か否か議論になる事はない。

悪か否かの議論は、
どちらかの陣営が間違った認識を
しているから議論になるのだ。

どちらかの陣営も正しい議論は、
りんごとなし、
どちらかが美味しいかみたいな、
どちらと感じるのもありえる事だけである。

すると、同じ事実を認識している上で、
悪か否か意見が分かれる事は本当にないのか?
悪かどうかなんて、
りんごを美味しいと感じるか、
感じないかみたいな、
主観的な認識じゃないのかという
疑問もあるだろう。

答えは、悪は主観的な認識ではない。
悪と認識する条件は単純かつ明確で、
個人差などはないのだ。

まず、悪と一口に言っても、
悪と認識する行為は複数の種類がある。
だが、その複数の種類は、
ある一種とその他に大別される。

その、ある一種が最も一般的かつ単純だ。
その悪の定義は、
相手の幸福量を下げる事である。
つまり、相手を不幸にするのが悪という訳だ。
ただ、不幸というより、
不快と言った方が正しい。

不幸は不快に対する不快な感情に過ぎず、
不快は感覚の言葉だからだ。
不快は不幸よりも範囲が広い。

また、この悪は帰属距離に応じて増減する。
人を殺すのをとても悪く感じ、
豚を殺すのを悪く感じ、
虫を殺すのを少し悪く感じるのは、
帰属の距離が違うからだ。

帰属の距離とは自分と
どれだけ同じかで決まり、
帰属の距離が近い程、
その対象に対する行為への、
悪の感覚が鋭敏になる。

また、帰属距離以外にも、
好きかどうかなどでも決まるが、
一般的な悪とは、
帰属距離や好き嫌いを無視した、
もしくは人間未満の帰属距離を無視したり、
好き嫌いを無視して語られる。

ドイツ人が、イギリス人が殺されるのより
ドイツ人が殺されるのを悪と感じても
一般的には、イギリス人を殺すより
ドイツ人を殺す方が悪いとはならない。
ただ、ドイツ人の共同体での善悪となると、
イギリス人を殺すより
ドイツ人を殺す方が悪いとなる。

国だと広すぎて実感が湧かないなら、
自分の息子が自分の娘を殺す事と
自分の息子が赤の他人を殺す事の
違いと言えば実感できるだろう。

一般的の尺度を人間の共同体にすれば
豚を殺すより人を殺す方が悪いとなるが、
一般的の尺度を動物にすれば、
そうならないのと同じである。

次に大別された悪の、後者がある。
それは雑多でたくさんあり、
特徴としては先に挙げた悪よりも
具体性が強いという事がある。

例えば、
「男性が男性を殴るより
男性が女性を殴る方が悪」
「人肉は食べてはいけない」なんかがある。
これらは、相手の幸福量を下げる事が
悪だとした時に説明できない為、
「相手の幸福量を下げる事」として
定義される悪とは、
別に独立した定義を持つ悪と言える。

別の定義、別の認識基準なのに
同じ「悪という感覚」が
発生するのは興味深い。

また、「男性が男性を殴るより
男性が女性を殴る方が悪」なんかは
「子供を殴ってはいけない」
「老人を殴ってはいけない」などと統一して
「自分より弱い者を殴ってはいけない」
と統一できる。

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