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ウワバミ

ある人に、『人間の土地』を紹介する機会があって、そのときに「作者は、ほら、『星の王子さま』を書いた人だよ」と説明をした。私はどうしても、「サン=テグジュペリ」をすらすらと言えない。

我が家には、新潮文庫のカラー版『星の王子さま』がある。バンコクの紀伊國屋書店で買ったのだ。当時、ひょんな会話から夫が星の王子さまを知らないと言い出し、そんなはずはない、教科書にも出てきたじゃないかと思った私は、強引に夫に読ませるために購入したのだった。

『星の王子さま』サン=テグジュペリ/著 、河野万里子/訳

買った文庫本をパラパラとめくってみて驚いた。
「ウワバミ」が「ボア」と訳されている。
翻訳に物申すほど、私は語学に詳しくはないし、時代が変化するにつれて「新訳」が出てくるのはよきことと思っている。しかし、私にとってこの訳だけは、どうしても「ウワバミ」であってほしいのだ。

その理由は、私の高校時代にさかのぼる。
高校2年生になった新学期。クラスメイトも入れ替わり、新しい教室での生活がスタートする。
私の席は、一番廊下に近い列の前から3番目だ。前の席に座っている彼女は初めて同じクラスになる子だった。話したこともない。

その彼女が振り返り、私の机に何やら描いた。
「これ、なーんだ」
私は、黒のシャープペンシルで描かれた奇妙なそれを眺めながら、なぜ彼女が私の机にこれを描いて、そして問いかけているのかを同時に考えつつ、彼女の問いに答えた。
「うーん、なんだろう……。帽子?あ、わかった!ウワバミだ」
それを聞いた彼女は、驚いた顔をして、それからじーっと私の顔を見つめてから、何も言わずに前に向き直った。

その出来事が何を意味したかわからなかったが、それからは、彼女は自分が書いた言葉たちを私に見せてくれるようになった。
断片的な言葉、詩、腹心の友への想い、手紙などなど。ノートの切れ端、時に便箋だったり、私の机に直接書かれたり。
とくに感想を求められたわけでもないが、彼女が書いた言葉を読むのが私の役目のようだった。

彼女と私は、所属する友達のグループが違っていた。正確にいうと、私には所属しているグループはなかったけれど。それでも修学旅行や文化祭でチームを作らねばならないときには、なんとなく仲間に入れてくれる子たちがいたから不自由はなかった。
グループに所属していないことが心細かった時期は、いつの間にか終わったのだ。高校生になれば、同じグループに属していない人とも、それなりにコミュニケーションを取るぐらいには大人になるんだと思う。

彼女は授業中にもよく言葉を書いていた。読書しているときもあった。眠っているときもあった。時々、泣いていることもあって、それを別のクラスにいる腹心の友が慰めに来ていた。

彼女は、テニス部に所属していて、よく日焼けしていた。意外にも、彼女は練習熱心だった。彼女の日焼けの理由はそれだけではない。彼女はテニスコートで仰向けになってよく昼寝をしていたのだった。校舎の窓から、昼寝している彼女を見かけることがあった。

あるときに、彼女が「うさみみ、セックスに興味ある?」と聞いてきた。「ないこともないよ」と奥手だった私は答えて、その先に「経験したことある?」と聞かれるのではないかと身構えた。
そこで一旦、会話が途切れて授業が始まった。次の授業の合間に、彼女が「実はね、私、1度だけしたことあるよ」と言ってきた。私は「経験したことある?」と聞く必要があったのはこちらの方で、答えるのは彼女の方だったのだということに、ホッとしながら、彼女が事の顛末を語るのを聞いたのだった。

他に彼女について知っていることと言えば、ボブ・マーリーが好きだったことだ。「ボブ・マーリーのCDを1枚買ったら、私は1か月はもつよ」と彼女が言っていた。その、「もつ」という感覚は、私にもわかる気がした。

学年最終日。3年生になったら、またクラス替えがある。
「私、うさみみに出会えてよかった」
と彼女は言った。

3年生になって、別のクラスになったら、彼女から書いた言葉を見せてもらうことはなくなった。廊下ですれ違えば、挨拶やちょっとした雑談はした。彼女が実は、色白だったということも知った。部活から引退して日焼けしなくなったのだ。

卒業後、彼女とは2回だけ会った。1度はお互いに別々の大学に進んだあと、わりとすぐに、彼女の家に遊びに行った。そのとき彼女は恋愛に夢中になっていた。意中の彼が、彼女のおでこに出来たニキビを押して「ピンポーン」と、からかったというエピソードを、大事そうに愛おしそうに話してくれた。
レトルトが苦手で自炊をしている、とも言っていた。自炊と彼女が結びつかない気がして印象的だった。

もう1回は、それから何年か後の共通の友人の結婚式で会った。
披露宴で彼女は、着物を着て三味線の演奏を披露した。その頃の彼女は、高校時代よりもずっと、晴れ晴れとした表情をしていた。

その後は疎遠になって、今どうしているかもわからない。私が今も、ウワバミにこだわっているなんて、彼女は知らないだろう。

正直言うと、私は『星の王子さま』のストーリーを事細かに覚えていたかというと、そうではなかった。
『人間の土地』も、人に紹介しておきながら、内容の記憶があやふやだ。手元に残しておく本と決めているのは確かなのだけれども。
私の読書はたいてい、それくらい、いい加減だ。姉にもよく「うさみみは、いつも『これ面白かったよ、覚えていないけど』って言う」と笑われている。
でも、「ウワバミ」はずっと「ウワバミ」なのだ。



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