HSPの憂鬱:この鋭敏な感性に鈍撃を!

同じHSPでも、こんなに違うものなのか。そう思わされる記事を見つけた。

それは、「たけひろ」さんが書いた、「世の男性たちよ、慣性を磨け!」という記事。

その中に、このような文章があるので、失礼ながら引用させていただきます。

この「女性が気にしているかもしれないことに、気づく」という感性は、世の男性にとって、とても大切だと思うのだ。〔中略〕僕は、HSPだからこそ、この感性というワードにはうるさい。感性を良くするためには、ありのままの相手を受け入れることが大切である。出典:https://note.com/takehiro_life/n/n4733f396660b

たけひろさんの感性

おそらく、「たけひろ」さんは、「感性」という一言半句を、見えないものやあらゆる可能性に対しての直観力や想像力のようなものとして使っているのだなと私は考えます。

「かもしれない」という可能性或いは蓋然性(おそらくどちらも「probability」という意味での)を、考慮し、それに気づき、気を使う。確かに、感性が優れている人間が出来ることの、「善い」例かもしれないわと私は思いました。

でも流石、人間は、驚くほどに個体間によって差が生まれてしまう。例え、同じHSPであっても、「感性」という文言一つぽっちとっても、全く異なる考えになるのだなぁと感じながら、「たけひろ」さんの文章を、目で追っていました。

私の「感性」

さて、ここから私の意見になります。つまりこれは、独断でもあり、偏見でもあり、妄言でもあり、ある種の諦念や恐怖でもあるかもしれないものです。

「感性」

私はこの言葉を、創造力と想像力と持ち、目に見えない状況を思い浮かべ、どう感じるかをシミュレーションする能力(補正掛かりまくり)だと思っています。

つまり、「もしかすれば」「もしかしたら」を、どこまでも(どちらかというとペシミスティックに)案じてしまうということでしょう。

この場合、HSP(特にINFJとの複合型)に特有の感性は、女性であるとか、男性であるとかは特に関係は無い。この「感性」は、限界を知らない、カントが純粋理性批判において、その暴走を読めようとした理性にも似ている。

「気づかう」、「もしかしたらを考える」、「見えない状況を想像する」、「かもしれないことに感性を働かせる」、こうしたことを、常日頃から行っていると、(特にINFJ持ちのHSP)は、このようなことを考えることに行き着く。

それは、例えば、恋愛や結婚という状況において、その(働かせてはいけない)「感性」を働かせてしまうこと。恋愛や結婚という事柄において、私はこのような想像をする。

私が、誰かと恋愛のような関係を結んでいるとして、その人の親はどう思うのだろうか。自分が手塩にかけて、大事に大事に育てた(例外はあるけれど)子が、どこぞのよく分からない馬の骨と恋愛関係を結んでいる。

そして、結婚は、自分が大切にしてきた子が、よく知らない人物と深い契約を作るということではないのかという想像を頻繁に行う。ある子供の、その親が、悲しい(哀しい)と感じてしまうのならば、私は誰かを悲しませるような行動を、積極的に行うべきなのかと考えてしまう。自分にだけ都合が良くて、ある親から見れば、実は悔しいと感じたり、悲しいを心に刻むような行動は、正当化されるべきなのかということ、恋愛や結婚に当てはめてしまう。

これも、私は、HSPという、感性が豊かな人が、想像するかもしれないシミュレーションではないかと考えている。

哀しまないかという恐怖


加えて、恋愛や結婚には、アセクシャル以外の恋愛関係の人物の肉体関係によるコミュニケーションというものがある。(最大限オブラートに包んでおりますどうも!。でもオブラートって実際使うと使いづらいですよねぇ・・・。)

例えばそのような場合にも、私は同じようなシミュレーションのような想像というか、もう半分妄想のようなものを行う。これこそ、感性の暴走とでも云うべきか。

その親が、どうにか自分を殺して、自分が手塩にかけて、汗水たらして必死に育てた子どもが、どこぞの知らない輩(性別は問わない)と、それが恋愛や結婚という契約(?)や関係を保っていくためであっても、誰か肉体上の関係を成すことに対して、悲しんでいるのではないか、傷心し、焦心してしまうのではないかと考えてしまう。

恋愛や結婚そのものの関係、そして恋愛や結婚内の肉体的コミュニケーション。親が、もしかしたら、その類の事柄にながみ、思い悩み、悲しんでいしまう恐れが、ほんの少しでもあるとするのなら、人間が行いうる恋愛や結婚という活動に関わることを、正当化できるのか?と考えてしまう。

それでもし、誰かが傷ついたり、悲しんだりするのなら、私はそれを積極的に行うべきかという、「もしかしたら」「かもしれない」を、どこまでも発展させて考えてしまう。

これは、HSPの悪い癖なのか、それともINFJの悪い癖なのか、それとも私の悪い癖なのか。(悪いという形容自体が、正しいのか分からないけど)

ここで考えられる反論は、子は親の所有物でも、親の人生を生きるものでもない、という考え方であろう。しかし私は、その意見を否定したいわけではない。むしろ、積極的に受け入れるべきものだとさえ思っている。

ただどうしても考えてしまうのは、誰かが気づくのなら、傷心してしまうのなら、ある行動を、積極的に行っていもいいのか、それを正当化できるのかという焦りや恐怖だ。それが、恋愛や結婚なのだ。

よく、「感性」が鋭い、HSP(特にINFjの人で)の人は、素晴らしい能力というか、才覚というか、そういったものを持ち合わせていると言われる。(気のせいかもしれないけれどね)

でも、全員が全員が、HSPであることを、有効活用できるわけではない。活用しようにも、考えることによっては、どうしても正当化できなかったり、積極的に行動していいか、二の足を踏んでしまうようなことがある。いや、むしろ、その場合の方が多い。

鋭すぎる感性は、たちが悪い。磨かずとも、それは考えていけないような領域に及んでしまうほど、ギラギラに光っている。これ以上磨いたら、多分変えきれずに、死んでしまう。(憔悴してしまう。)

話しを戻すが、

恋愛や結婚という(一見めでたいが)、もしかすれば親が悲しんだり、傷心しているかもしれないことに、私は、途方もない感性を働かせる。

恋愛や結婚という行為を、素晴らしいもの、喜ばしいものとして表現し、それを祝う人が多いのは、実はそれらが、空しく、悲しく、虚しく、哀しく、誰かを傷つけているような出来事であることを隠しているからというようにさえ見えてしまう。

そしてこんなことすら考える。私もまた、親がこしらえたものであるということ。私の親の親が悲しんだり、言いようもない憔悴感や傷心に駆られるかもしれない、肉体関係の上に生まれた存在であると知ると、「私」自身の存在が、「それ」が生まれる過程が、誰かを悲しませている、あるいは、もうずっと悲しませてきたのではないか思うと、とてつもなく、言いようもない感情に襲われる。

非倫理的ではないという常識


誰かが悲しむなら、私はその行動を容認すべきか。誰かが傷つくかもしれないのなら、私は、そのある意味で「不誠実」な行動を、成すがままにしてもいいのか、という問に囚われてしまう。

なんともまぁ、カントの定言命法が身に染み込んだような考えを持ってしまっているという残念さ(?)と感じると共に、HSPという要素が相乗し、ありもしない方向へと、感性が突き進んでいる気がしてならない。

恋愛や結婚という、ある意味では非常に非倫理的な行動を、というかどうしてもその側面を無視することが出来ないものを、私ははたして積極的に受け入れる準備がどうしでもできない。

その(あたかも恋愛や結婚が倫理的であるというような)考えを、その当たり前を、私は疑ってしまう。そして、それに対して答えを出すことが出来ていない。まぁ、答を出すことがすべてではないけれどね。

辞めようと思っても、辞められないのが、HSPによる「感性」を活かした思索という名の膨大なシミュレーションだ。(ある種の脳内麻薬かもしれない)


誰か

この鋭敏な感性に鈍撃を!



今日も大学生は惟っている。



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