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心霊現象再現ドラマ・『霊のうごめく家』7

 『霊のうごめく家』の演出
 
 プロローグ・入居
 
 『霊のうごめく家』はビデオで撮影された約17分の短編である。鶴田法男によって書かれた初稿では8人であった登場人物は、幽霊を除けば親子3人と霊能者の4人にまで削られた。舞台はほぼ平屋建ての日本家屋のロケ撮影に限定されている。

 反面、演出面ではハリウッド大作のアクションシーンのような、数秒ほどのショットと編集など精密な作業が、重要な効果を上げているシーンも少なくない。むしろ画面設計から音響効果まで徹底して作り込んであり、近年の日本映画の大半を占める「安い、早い、そこそこ」(※42)の完成度から遠く隔たっている。
 
 黒バックにタイトルと合わせて、字幕で投稿者である「山口県在住 棟丘陽子」の名前が明示される。みつきれいが漫画化した原作では「山口県 陽子chan」としかクレジットされていない。『ホラー映画の魅力』によれば、『霊のうごめく家』では日時や時間を捏造した字幕をたびたび挿入することで、「実話性」を強調し、「疑似的なリアリティ」の生成を図ったという(※43)。サウンドトラックは劇伴音楽(スコア)というよりノイズであり、不穏さを煽る。

 
 ショット1
 タイトルが終わると、誰もいない一軒の平屋建ての日本家屋の前に、一台の自動車と引越センターのトラックが到着する。ここで「1984年8月16日」の字幕が挿入されるが、注目したいのは画面設計だ。

 日本家屋や傾いた電柱、横断歩道などを活かした直線や斜線により構成された画面は、緻密に作り込んである。同時に、年期を経ている家屋やブロック塀の質感は、夏季の湿気に満ちた空気感をも醸し出す。

 戦後の小津安二郎の作品では、無人ショットが時間の経過や空間の移行、場面転換で使用されていた。冒頭の約17秒のショットは無人ショットから始まり、途中から自動車が画面に入り、父親役の伴直弥が「さあ、着いたぞ」と台詞を発する。サウンドトラックのノイズはタイトル画面からそのままで、登場人物たちが室内に入るまで続く。
 

 ショット2
 約13秒のショット。
 家屋の門扉を撮影しているが、カメラは家屋の内部に置かれている。つまり家屋の敷地内から、登場人物である親子三人を捉えている。父親が、庭先にある引き戸の門扉を開けて、初めて主人公の家族を観ることになるが、このショットはラストでもう一度、繰り返されるのだ。

 このショットはまた、家屋内部の暗さと、屋外の太陽光やコンクリート製のビルとのコントラストを際立たせ、家屋から早くも不穏な存在感が滲む。父親は12歳の陽子(投稿者である設定)の肩を叩いて「これが新しいお家だ」と、溌剌としたニュアンスで言う。だが娘は無表情で、母親の表情や身振りは不安げだ。
 

 ショット3
 約7秒の、家屋を屋外から撮影した無人ショット。屋根や電線が幾何学的な画面を構成しているが、壁にはシミのようなものが目立つ。ここでサウンドトラックのノイズが、少しボリュームを上げるのだ。この7秒間のショットのうえに「東京から、父の転勤で山口に移ることになり 知人の紹介でこの家に越してきた」という字幕スーパーが表示され、画面はフェイドアウト。
 

 ショット4
 画面はフェイドインし、風鈴をアオリで撮影したショット。約9秒。字幕はそのまま。だがサウンドトラックのノイズは風鈴の穏やかな効果音をかき消すように、強風のような音響へと変化して、不穏さを増していく。
 

 ショット5
 約6秒のショット。ノイズは強風めいた音響のまま。バストアップで撮られた陽子を演じる子役は無表情で、ぎこちなく家屋の外観を見回す。

 このショットでは陽子の肩に父親の手が置かれているが、首が見切れ、画面に写っていない。『晩春』に恐怖を感じた評者は、劇中の「首」の演出に着目したが(※44)、画面から見切れた男性の「首」はのちに重要は役割を果たす。

 このショットに「陽子 当時12才」の字幕が重なるが、劇中で名前が明示されるのは彼女だけだ。陽子を演じる子役の演技力の問題をカバーする側面もあったであろうが、陽子は劇中では殆ど台詞を発せず、無表情に終始している。母親と父親を演じた俳優が積極的に演技をするのと対照的に、内面が描写されることが殆どない。字幕は陽子の投稿文からの抜粋という設定だが、状況の推移のみに徹している。
 

 ショット6
 約17秒のショット。サウンドトラックのノイズはガラス戸を開ける音によって突然打ち切られ、玄関に足を踏み入れる家族三人を、やはり家屋の内側から撮影している。「荷物入れるまえに、窓を開けなきゃ」と言って、そそくさと靴を脱いで家屋に入っていく父親とは対照的に、母親は玄関の向きを訊ね、鬼門であることを気に掛け、表情は険しい。

 この約17秒のショットで、父親と母親のすれ違いを最小限の台詞と演技で演出しているのが見事である。近年の日本映画ならば、余計な台詞と過剰な演技によって無闇に時間を浪費することだろう。
 
 
 ショット7
 約3秒の短いショット。カメラの手前に陽子、後ろに玄関を見回す母親を撮影している。陽子は無表情であり、母親は不快そうな身振りで玄関を見回す。
 
 ショット8
 約12秒のショット。ゴロンというガムランが変調したような効果音と合わせてショットは切り替わるが、このショットは陽子もしくは母親の主観ショットだ。不安定で気まぐれっぽい動きの手持ちカメラは、ほとんど陽射しの入らない、湿った暗さに満ちた玄関と廊下を見回す。シミのついた白いモルタルの壁や、家屋の古さと比べて不釣り合いなフローリングの質感が目立つ。その後、陽子と母親は視点を共有する演出が目に付くことになるが、それは幽霊を見てしまうのが陽子と母親であり、父親は見ない作劇を踏まえている。

 
 ショット9
 ラストで重要な舞台となる畳敷きの和室がはじめて登場するショットだが、時間はたったの約1秒しかない。

 ここでも父親が窓を開ける効果音が際立つ。窓の外をながめる父親は画面左。壁の不自然な色の違いを見つめる母親は、画面のほぼ中央。右端には陽子が無表情のままマネキンのように硬直した姿勢で、立って両親を見ている。
 
 ほんの1秒のみで、このショットだけで三人の関心を向ける方向と、そのすれ違いを示唆する。父親は家の外側にある社会を、母親は家庭を、陽子は両親の関係。この時点で夫婦と親子が見つめる方向は、既に異なってしまっていた。

 このショットの画面構成で注目したいのは、画面奥に家屋のコーナー(曲がり角)を置いており、なおかつ閉塞感を演出するために2点パースを逆転する形となっている点だ。海外の映像作品では画面構成のルーティンを押さえつつ、なおかつ絶妙にそこから逸脱させることで演出効果を上げたケースが少なくない。このショットは、その好例だ。


 ショット10
 約3秒間のショット。壁に向き合い、不自然に白い部分があると指摘する母親。光源は窓から差し込む昼光であろう、壁にむかって母親の影がのびている。

 『霊のうごめく家』に顕著なのは、エピソードを通じて昼間のシーンが多数を占めるにもかかわらず、光よりも影が際立つ照明だ。ヴォルフガング・ペーターゼンの『Uボート』は潜水艦を舞台とした戦争映画だが、潜水艦の暗闇に閉じ込められた乗組員を照らし出す頼りない人口照明は、彼等の不安や恐怖感を代弁する効果を上げていた(※45)。ジャンルとしては戦争映画の大作と低予算のホラードラマ、舞台が潜水艦と日本家屋である違いはあっても、しかるべき演出効果を意識し、当時としては独創的に制作されている本作は、Jホラーが失速した後もなお製作されたホラー映画とは異なってくる(※46)。

 また「恐怖の方程式」と照合すれば、年期の入った壁にマスキングしたような白い部分があるのは「イコンの活用」である。「イコンの活用」ついては、エピソードのあちこちのショットで使用されている。
 

 ショット11
 画面構成はショット9と同じだが、時間は約15秒。壁について指摘された父親は「前に住んでいた人がここに仏壇を置いてたんだ」とそっけなく語り、陽子に向かってペットでも飼おうと提案する。が、陽子は目立った反応を示さない。そこへ母親が割って入り「そんなに長く「ここ」に居るわけじゃないでしょう、次に引っ越した先で飼えなかったら…」とクギを刺す。父親は「先を読みすぎなんだよ、なあ陽子」と言って画面左から右へ移動してフレームアウト。

 その直後、母親はふと足元に視線を向ける。トーン・クラスター風(※47)のシンセサイザーの高音が徐々に高まり、姿勢は硬直して何か只ならぬモノの存在を表現する。
 

 ショット12
 約2秒のショットで陽子のバストアップ。ここで陽子役の少女は「ママ」とはじめて台詞を口にする。陽子が画面左を向いて「ママ」と台詞を口にするのは、次のショットのイマジナリー・ラインを計算したうえでの画面構成だ。
 

 ショット13
 約8秒の、母親のバストアップ。怯えた表情を誤魔化すように、陽子がいる想定の画面右に向かって作り笑顔を見せる。
 母親を演じた藤生有紀子は『ほんとにあった怖い話 第二夜』の撮影と同じ1991年、引っ越し先の社宅で起きる軋轢を描いたTBSの連続ドラマ『それでも家を買いました』(※48)に出演しているが、『霊のうごめく家』の成功は、藤生有紀子が演じた母親と、伴直弥が演じた父親の演技力によるところが大きい。小中千昭も『ほんとにあった怖い話』と並行して、やはりTBSのバラエティ『ギミアぶれいく』のドラマパート『オカルト勘平』『インスマスを覆う影』や、深夜の特撮ドラマ『B級ホラー WARASHI』(※49)の脚本を執筆していた。『霊のうごめく家』に限らず、オリジナルビデオ版『ほんとにあった怖い話』三作が一貫してテレビドラマとの親類性を感じさせるのは、鶴田法男の演出コンセプトである「小津安二郎のホラー映画」とビデオ撮影であることだけではなく、小中千昭がテレビ業界での仕事を脚本に反映させていると勘ぐりたくなるが、それは憶測の域を出ない。
 
 
 ショット14
 約7秒間のショット。母親の視点とも陽子の視点とも思われれる俯瞰のアングルから、畳のうえに付いた足跡のような黒いシミを撮影したショット。字幕は「その日、裸足でいた者は誰もいなかった」と表示される。

 ここで「仏壇の跡」「黒い足跡」のふたつの「イコン」と「字幕」が活用されているが、よく考えれば「仏壇の跡」と「足跡」のあいだに何ら因果関係は成立しない。「足跡」と言われるイコンも、言われてみれば足跡に見えなくもない黒いシミに過ぎない。が、すでに「鬼門」「仏壇の跡」という単語が出ており、それに鶴田法男の演出、俳優の演技力によって、視聴者(※50)の思考は直観的に因果関係を結ぶ付け、黒いシミは「足跡」以外の何物でもなくなってしまう。ショット11から続くトーン・クラスター風の音響は、このショットが終わる直前までボリュームを上げつづけ、次のショットで終わる。
 

 ショット15
 約7秒間のショット。舞台である平屋建ての日本家屋の外観を、正面から撮影した無人ショットである。陽子の投稿文である字幕は「そして、私たち家族はこの家に住み始めた」と表示される。
 

 ショット16
 約5秒間のショット。字幕は「1984年8月22日」と表示されるから、引っ越し初日から6日が経過したことになる。
 
 先のショットと同じく、家屋の外観を撮影した無人ショットだが、画面下をブロック塀、中央を物干し竿に掛けられた洗濯物、画面上は窓と庇という、いささか抽象画のようであり直線が際立つ画面構成だ。同時に、室内シーンの照明と合わせて閉塞感を強調。これもまた、鶴田法男の演出手腕であり、撮影の実技だ(※51)。
 
 ここまでの時点で、エピソード自体は未だ約3分弱の時間しか経過していない。3分間のあいだに、映像と編集、サウンドトラックの情報が控えめに提示されつつも多く、また作り込まれ、省略と必要な説明は押さえてある。東映実録路線で仕事をした脚本家、笠原和夫のフィルモグラフィがそうであるように、脚本の完成度が高くても、演出家によって作品の完成度は左右されてしまう。おそらく現在の日本映画業界やテレビ業界の体質では、ここまで制作現場での自由度の高い仕事は実現できない(※52)。
 
 鶴田法男の演出とスタッフが精緻な仕事をしつつも、これまで演出面では注目されてこなかった原因は、別の機会に検証したい。

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