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長編ミステリー「サパテアードの掟」 第一章

この世からいなくなった人と交わした約束を、あなたは守り通すことができますか……..

     プロローグ

      マドリード
 マドリードの空はコバルト・ブルーに澄み渡っていた。
 あと二週間もすればクリスマスだというのに、太陽が顔を出しているおかげでポカポカと暖かくて気持ちがいい。
 マヨール広場を散歩している日本人の女は、カシミアのセーターにジーンズのパンツという軽装だった。彼女はスペインの風土にすっかり慣れきっている様子で、時計台のある建物の壁に描かれている、マドリードの生んだ文人の肖像画をのんぴりと眺めながら、昼下がりの時間を楽しんでいた。

 広場には似顔絵描きの姿もあった。そこでは地方から遊びに出てきたらしい格好の親子連れが客になっていた。長い髪の少女が澄ましてモデルになっている。キャンバスをのぞき込んでみると、絵は大体仕上がっているようで、細部の陰影を丁寧に塗っている最中だった。
 どこの似顔絵描きもそうだが、実物よりも端正に描き過ぎる傾向があるようだ。美人に描くことが必須条件なのはわかるけれど、そのぶんだけ絵が冷たくなり、血が通ってないような気がしてしまう。散歩中の彼女はそんなことを感じながらモデルの少女を見た。

 視線を受けた少女が、恥じらいを浮かべた瞳をチラッと彼女に走らせた。
 それに応えるように彼女はスペイン語で、
「とっても可愛いわ」
 といって少女に笑みを返した。
 少女が嬉しそうに微笑む。そばにいる母親も満足そうな笑顔だった。

 彼女は日常会話に困らない程度のカスティーリャ語は喋れるようになっているが、スペインにはほかにもガリーシア語、カラルーニャ語、バスク語がある。もっともマドリードを中心に喋られるカスティーリャ語がスペインの公用語になっているので、ほかの言葉が喋れなくてもなんの不自由もなかった。
 彼女は右手を軽く上げて指先を曲げながらバイバイと、少女に合図を送り、広場に面しているカフェテラスに向かった。

 観光シーズンには客でいっぱいになるその場所も、冬の季節は閑散としている。
 広場に出されている白いパイプ椅子に腰を下ろし、注文を取りにきた白衣のウエイターに、彼女は滑らかになりかけているスペイン語で、「カフェ・ポル・ファボール」と答えた。
 ふたつ隣りのテーブルではスペイン人の青年が本を読んでいる。
 ここはコーヒー一杯でどんなに長時間粘ろうとも文句はいわれない。異国の地で質素な生活をしている彼女にとっては有り難い場所だった。コーヒーを飲みながら建物や行き交う人々を眺めていると、人生を楽しんでいる贅沢な気分になれた。

 彼女はショルダーバッグからペンと、散歩の途中で買ったクリスマス・カードを取り出し、テーブルの上に置いた。カードは真っ白な地に、ベルだけがゴールドで浮き彫り印刷されているシンプルなものだった。二つ折のカードを開くと、中にメッセージを書くスペースが充分にある。

 広場の中央に建っているフェリペ三世の像を背景に、記念写真を撮っている観光客を眺めながら、彼女はクリスマス・カードに書く文章を考えた。
 先ず最初に、『Merry Christmas & Happy New Year』と定文を書いて、ペンを止めた。
 スペイン語の文字も綴れるのだが、やはりこの言葉は英語のほうがピッタリくる。それに相手も難なく読める。そこから先は日本語でいいのだが、熟慮して書き出さないと、せっかくのクリスマス・カードが失敗だらけになってしまいそうだ。
 日本にいる彼へのメッセージを考える時間はとても楽しい。しかし考え過ぎると、彼に会いたくなる気持が高揚してしまう。そうなるとあとで寂しくなってしまい、ホームシックに悩まされる日々が続く。スペインにきてから四通のクリスマス・カードを出したが、いつも後で同じ気分に悩まされた。

「おじょうさん、どうぞ」
 コーヒーを運んできたウエイターが、たどたどしい日本語を使いながらウインクをした。
 彼女も日本語で、ありがとう、と答えて微笑む。
 家族と離れ、愛する彼とも会わずに、たったひとりで四年間も異国で暮すと、いつの間にか心が荒んでしまいそうになる。でも笑顔だけは忘れないようにしようと、いつも自分にいい聞かせてきた。
 コーヒーにミルクと砂糖を少しだけ入れて掻き混ぜた。マドリードのコーヒーの味にすっかり慣れてしまったが、日本のコーヒーのほうがずっと美味しいと思う。
 素直な気持ちになって、一度帰国してみようかと真剣に考えることもあるのだが、彼と約束したように、フラメンコダンサーとして一人前になるまでは辛抱するという結論をついつい選んでしまうのだった。
 そんな約束を破ったところで、彼は喜んで迎えてくれだろう。しかし自分自身の心に誓ったことだけに、途中で破棄したくはなかった。

 コーヒーを半分ほど飲んで、カップを置いてペンを取った。
 猛レッスンに耐えたことで、憧がれの〈コラール・デ・ラ・マヨール〉という格式のあるタブラオのオーデションに合格し、まだ前座だが舞台で踊っていることをカードに書いた。
 ほんとうはタブラオで踊る先輩ダンサーの嫌がらせを書いて、彼に同情してもらいたかった。そうすれば胸の内でくすぶっている不快感が少しは晴れるかもしれない。でもこんなに心地よい青空の下で書いている彼へのメッセージとしては、それがふさわしくないと彼女は頭の中で否定した。それにこれはクリスマスカードなのだから、うんとハッピィな文章のほうがいい。

 マドリードの地元新聞に二か月ほど前、《ジプシーの魂を持った日本人フラメンコダンサー》という見出しで、写真入りの紹介記事が載ったことも書いた。
 そして最後に、彼女は辺りを気にしながら、《トレドの幻想的な夜景を、あなたと一緒に眺めることが早く実現しますように……。マドリードより愛を込めて》と綴った。

 ウエイターやふたつ隣りの席の青年に文面をのぞかれたとしても、日本語で書いているのだから内容はわかりはしないはずだが、心の内を表わす文章はだれにも見られたくなかった。

 相手の名前を書くとき、想いを込めた。麻生美行様。
 2018年、白鳥珠里。と心が届くように結んだ。

 クリスマスカードを封筒に入れ、皺にならないように大判の手帳に挟んでから、大切にバッグにしまった。
 腕を組んで楽しそうに語りながら歩く、若いカップルが笑い声を上げた。笑い声が青く澄んだ空に吸い込まれ、幸福が宇宙に広がってゆくようで、見ていてとてもすがすがしい。
 彼女はプラド美術館まで歩こうと思った。美術館の近くには、ダリやピカソを真似た絵柄をプリントしたTシャツ店がある。その店で気に入るデザインを選んで、彼へのプレゼントにしようと決めた。
 
       東京
    夕暮れの銀座通りにはネオンがきらびやかに輝き、軒を並べる店先のウインドーではクリスマスの豪華なディスプレイが、通行人の目を楽しませている。
 黒い大きなバッグの二本手を右肩に掛けた男は、ショーウインドーに時折目を奪われながらも足早に歩いていた。がっしりとした体躯だが、歩く姿勢はわずかに右に傾いている。幼児がすっぽりと入っているくらい膨らんだバッグがかなり重そうだ。
 バックが擦れ違う人の躰に何度かぶつかった。ぶつかるたびにバッグの手かんに吊り下げるているネームプレートが揺れる。プラスチックのプレートには、『MIYUKI ASO』という名前がローマ字で彫られていた。
 交わしきれずにバッグとぶつかった人たちが、あからさまに嫌味な表情を見せる。彼が前方に注意をして、ぶつかる前に身を交わそうとしても、横見をしながら歩いてくる対向者は、向こうから身を寄せてくるのだ。それなのに相手は、こんなに混雑しているのにそんな大きな荷物を持って歩く奴があるか、というような目で睨む。そのたびに彼はしかたなく頭を下げた。

 ジングルベルが流れるデパートの店内へ、彼はバッグを自分の胸の前で抱えるようにして入った。ごった返す買い物客の間を、先程よりももっと注意を払いながら奥へ進んだ。
 スカーフ売り場で足を止めた彼は、バッグを足下に下ろし、陳列ケースの中をのぞき込んだ。色鮮やかなスカーフがたくさん並んでいて、一枚だけを選ぶとなると難しい。ヘアメークという仕事柄、ファッションには敏感な彼も、女性が身に着けるものをプレゼントするとなると、色や柄に迷ってしまう。
 戸惑っている彼に、接客を済ませたばかりの店員が愛想のよい声を掛けてきた。
「クリスマス・プレゼントですか」
「ええ」と答えた彼は、なんだかちょっぴり恥ずかしかった。
「お幾つくらいの方へのプレゼントですか」
「二十五です」
「その年ごろのかたに合いそうなものを、なん枚か並べてみましょう」
 店員は陳列ケースから選んで取り出したスカーフを、一枚一枚広げていった。畳んでいるときよりも大きく広げたほうが一層鮮やかに見え、色使いや柄の違いがはっきりわかる。ケースの上に広げられたスカーフはそれぞれの特徴があり、どれもすてきだった。
「こちらが今年の新柄で、熱帯地方の蝶をデザインしたものです。こちらのほうは定番になっているもので、目新しさはありませんが、人気はずっと衰えていないんですよ」
 店員が親切に説明をしてくれる。
 流行なら新柄、選択に失敗しないという点では定番がいいか、と気持ちが揺らぐ。迷う彼のまえに、さらに別の柄が広げられた。
「ちょっと付けてみましょうか」店員が助け舟を出した。
 四角い大判のスカーフを対角線で二つ折にして、店員が自分の肩に掛けてみた。広げているときとは感じが変わる。さらに彼女はスカーフを折り込み、今度は首に巻いて見せた。大部分の模様と色が隠れ、微妙な表情が醸しだされた。
 何回かそんなことを繰り返して、三枚に絞った。
「あなたならどれがいいですか」
 発した言葉は、彼の太い眉と切れ長の一重瞼、それに意志の強さを窺わせるようなはっきりとした唇の線には、およそふさわしくないものだった。
「そうですねぇ……、わたしでしたら」生真面目な表情で一時考えてから、店員が決断を下した。「どんな洋服の色にも合いそうですので、これにしますわ」
 紺色の縁取りで内側のクリーム色の地に、馬具の模様をカラフルな色で描いたものを手に取った。広げるとちょっと派手目だが、折り畳むと落ち着いて上品な雰囲気になるものだ。彼の頭の中で、新柄と最後まで競いあっていた定番ものだった。
「じゃあそれに決めます」
 決定権を任されたような格好になった店員が嬉しそうに頭を下げた。
「プレゼント用の包装をして、おリボンもお掛けしますから、少々お待ちくださいませ」
 待っている間に彼は、スペインまでの航空便の所要日数を計算した。これまでにスペインから届いた航空便の消印から計算すると、明日の朝には郵便局に持ってゆかなければならない。
 彼は今晩作る予定のクリスマスカードの図案を、ジングルベルの曲を聴きながら頭に浮かべていた。
 
      マドリード
  新米の踊り子の評判が高まっている。
 たかが前座で踊るダンサーだったが、彼女を取り上げた記事が新聞に載ったころから観客の声援が多くなり、それにつれて心なしか彼女の踊りが輝くようになった。
 おなじタブラオで踊る風舞敦子は、新米の人気に神経をピリピリさせていた。すでにトップダンサーとしての地位を手中に納めている風舞にすれば、気にするほどのことではないのかもしれないけれど、このところ話題が自分以外に集中しているので、同じ日本人ダンサーとしては面白くないというのが本心だ。

 風舞敦子は新米の踊り子に思いを巡らせた。
 あれはいつだったか、もう五年も前になるだろう。フラメンコの指導者としてはスペインで一番だという評判の、ラファエル・ロペスの稽古場に、日本からきた留学生がいるというのを聞きつけて、散歩がてら、のぞきに行ってみたのは―― 。

 色白で華奢な体躯の若い娘が、全身から汗水を流しながら、一所懸命サパテアードの練習を繰り返していた姿は、まるで強制労働で虐げられている奴隷のようだった。
 それはフラメンコダンサーを志す者なら、だれしもが体験しなければならない過酷な試練だ。
 しかし奴隷の重労働よりも苦しい稽古から解放されたときの、娘の大きな瞳は汚れを知らないようにきれいに澄み、細くすっと通った鼻梁や、上品に整った唇は育ちの良さを物語っていた。
 日本からフラメンコに憧がれ、なん人もの人間がマドリードにやってきたが、ほとんどが甘い夢をひとかけらも味わうこともなく、途中で挫折していった。

 尻尾を巻いて日本へ帰国した者はまだいいほうで、スパニッシュのしょうもない男にだまされて、娼婦さながらの生活に落ちた女も少なくない。
 敦子はそんな女たちに、顔では同情を示して――使い古されぼろぼろに乾いた言葉に、上辺だけの湿り気を持たせて――さも優しそうに励ましたが、心の中ではあざ笑い軽蔑してきた。

 白鳥珠里と名乗っている新米の踊り子だって、稽古の厳しさですぐに可憐さを失い、どうせ三月、長くても半年もすればフラメンコを諦めてしまうと読んでいたのに……。それなのになんてことだ! いまでは舞台で盛大な拍手を受けるようになっている。
 彼女のことを意識すればするほど、敦子の理性は乱れた。
 同胞として喜ばしい、などという偽善者ぶった言葉さえ吐く気になれない。十数年前、単身でスペインにきて以来、来る日も来る日も血の滲むような稽古をして、やっと掴んだトップダンサーの座を、そうやすやすと空け渡してなるものかと腹が立つ。

 ジプシー民族の野生の血をかき乱し、迫害や追放の長い歴史の中で培われた流浪のリズムを、裕福な家庭で苦労を知らずに、ぬくぬくと育ったような娘が習得出来るはずがない、と高を括っていたのが失敗だった。
 白鳥珠里は外見からは想像もできないほどの不屈の精神を持っている。なにがあんなに強く精神力を支えているのかわからないが、苦しくて辛い稽古に耐えて、一人前どころか、タブラオの人気者になってきているあの娘を、もうこれ以上黙って見ているわけにはゆかない。

 もっと腹が立つのは、敦子の愛人のパブロまでが彼女に目尻を下げはじめたことだ。
 風舞敦子と彼女とでは、なにからなにまでが正反対だった。
 彼女の長い髪は黒い艶やかな光沢を放っているが、同じ長い黒髪でも敦子のほうはパサパサで傷んでいた。小さな顔とすらっと伸びた全身のバランスは嫉妬の対象であり、悔しいけれどとてもじゃないが六頭身の敦子では比較にならない。
 容姿だけなら生れた年代の差だと多少の諦めもつくが、スペインにきてから十年以上も経つ敦子は、トレドどころかプラド美術館にさえも行ったことがないというのに、彼女はバルセロナのや、セビーリャのカテドラルを見学する旅までしたという。
 こんなことがあっていいのだろうか。あの娘は恵まれ過ぎている。許せない。一流のフラメンコダンサーとしての名声を得る日本人は、青春の全てをフラメンコに捧げたこのあたしひとりで充分なのだ。
 風舞敦子は怒りの歯ぎしりをかんでいた。

第1章 遠く離れた地で、それぞれの人生が乱れた
 

    1
 
「ブエナス・ノーチェス」
 白鳥珠里は大きな声で挨拶をしながら楽屋に入った。
 地下の楽屋には一種独特の臭いが充満していた。ダンサーが流した汗や、彼女らの体臭が煙草の煙りなどに混じって、いつの間にか壁や天井にしみ込んでしまっているのだ。だから楽屋に入るたびに珠里は息を詰めた。鼻腔を閉じて、口でそっと呼吸しながら、蔓延している空気に序々に馴染んでゆく方法しか、対応策がなかった。
 文句をいうより自分の置かれている環境に慣れることだ。やっと掴んだチャンスをそんなことくらいで放棄したくはなかった。

 早い時間の楽屋には十七歳になったばかりのロザンナと、彼女の母親のナージャだけしか来ていなかった。
 ロザンナは珠里に幼さの残る笑みを送ってきた。母親は丸々と太った躰とは不釣り合いな、険しい視線を珠里に向けた後で、無視するようにそっぽを向いた。
 クワドロ・フラメンコという前座を踊る一団は、狭い楽屋を共有させられている。珠里もロザンナもその一員だった。
「ジュリー、あなた今年は日本へ帰るの?」
 鏡に向かって化粧をしているロザンナが声をかけた。
 隣りの鏡の前に化粧ケースを広げながら珠里が答える。
「帰らないわよ」
「あなた故郷が恋しくはないの?」
「さあ、どうかな……。わたしの心はフラメンコの虜になってるから、まだそんなことは考えられないわ」
 珠里は内心の片隅にある郷愁を微笑みでごまかした。
 それまで珠里を無視していたナージャがわざとらしくいう。
「ジュリーはソロダンサーを狙ってるのさ、おまえもうかうかしてられないよ。ジュリーは女の武器でパブロに迫ってるんだからね」
 母親の言葉に娘が反発する。
「パブロさんの恋人はアツコよ。そんなことくらい、母さんも知ってるくせに」
「おまえはまだ男を知らないからそんなことをいうんだよ。裸になってベッドで待っている女がいたら、男はみんな飛びついてゆくもんだよ。パブロだって例外じゃないさ。だから女房がいるのに、アツコともいい仲になってるんじゃないか。それにパブロは、東洋人の女が好きだからね。ジュリーにしたら、そこが狙い目なのさ」
 化粧をはじめていた珠里の手が震えた。
「ナージャさん、わたしそんなことは考えていません」
「嘘をついたって駄目だよ。わたしゃあんたがパブロの楽屋にちょくちょく入ってゆくのを見てるんだからね。それともなにかい、あんたは舞台が引けてから、パブロの部屋の掃除でもしてるっていうのかい。それならこそこそすることないじゃないか。ごまかそうたって、わたしゃすべてお見通しだよ」
 珠里は返す言葉を失った。確かにパブロの楽屋に何度か出入りした。しかしそれはすべてパブロに呼ばれたからである。

 パブロ・エスペデスはフラメンコダンサーのトップ・スターで、しかも〈コラール・デ・ラ・マヨール〉に所属するダンサーのボスでもある。
 ボスに呼ばれたら新米のダンサーは素直に従うだけだ。だが呼ばれた用件は、珠里の踊りに対する注意ばかりで、ナージャが憶測しているようなことはなにもない。ただ珠里の全身をなめるように見るパブロの目の奥に、油断のできない怪しさが潜んでいることを、珠里も薄々気づいてはいた。

 化粧する手を止めてじっと耐えている珠里に、蔑んだ視線を浴びせておいて、ナージャは楽屋から出て行った。
「ごめんなさいね、ジュリー。母さんは悪い人じゃないんだけれど、わたしのライバルになるような人には、いつでもああなの。わたしが代りに謝るから、母さんを許して」
「いいのよロザンナ、わたしは平気よ。だってわたし、やましいことはなにもしてないんだもの」
「それはわかってるけど、あなたの哀しそうな顔を見るのは辛いわ」
「あなたこそ、そんな寂しそうな顔をしないで。せっかくきれいに化粧した顔が台無しよ」
「そうね、今夜も一所懸命踊って、早く認めてもらわなきゃ、いつまでたってもソロダンサーになれないものね。どっちが先にソロを取るか競争よ、ジュリー」
「負けないわよ、ロザンナ」
「だったらあなたも早く化粧をすませないと、そろそろ先輩たちがやってくる時間よ」
「いけない、急がなきゃ」
 珠里は慌てて鏡に向かい、嫌な思いを振り払った。

 楽屋の外が騒がしくなった。どうやらクワドロ・フラメンコのメンバーがやってきたようだ。
 リーダー格のマルロスがダンサーたちを従え、大声で、昨夜の酔っぱらい客のことをけなしながら楽屋に入ってきた。
 マルロスは鏡台の前にいるふたりを見つけると、
「まだ化粧をしてるの! わたしたちがくるまえに済ましておくようにいってあるのに、しょうがないわね。この部屋には鏡が三面しかないんだから、新入りは早くきて終らせなきゃ、わたしたちが鏡を使えないじゃないの」
 と、煙草の煙を吐きながらわめいた。
「すみません、すぐ空けますから、どうぞ」
 珠里は広げていた化粧道具を素早くまとめて、鏡の前から離れた。
 ロザンナも黙って鏡台を空けた。狭い部屋に六人が一度に入っているから、要領よく動かないとすぐだれかとぶつかってしまい、また怒鳴られてしまう。
 部屋の隅まで補助椅子を動かし、珠里は手鏡を左手に持って化粧の続きをした。

 鏡の前に陣取ったマルロスは、化粧にとりかかる素振りも見せずに、煙草を吹かしながら、一緒にやってきたダンサーたちと話の続きをしている。
 窓も換気扇もない部屋に立ち籠っている空気を、煙草の煙りがさらに濁らせてゆく。
 先輩のダンサーたちが化粧に集中しはじめると、楽屋は静かになった。
 壁の古い時計が九時四十分になろうとしていた。正確な時刻から十分ばかり遅れているのだが、わざとそうしているのか、だれも修正しようとはしない。
 化粧を終えた珠里は、楽屋の隅に置かれている、くたびれた衣装戸棚の前に立って、錠のない扉を開け、吊してある自分のドレスを取り出した。
 そのドレスに着替えようとしたとき、珠里は突然驚きの声を上げた。
 あっ! 
「どうしたの?」
  ロザンナが眉間を曇らせて問い掛けた。
「破れてる」それだけいうと珠里の声は詰まった。
 ロザンナが近寄ってきて、珠里の手で震えているドレスを見た。
胸の部分がパックリと左右に開いている。
「どうしたのよ、これは?」
「きのう戸棚にしまったときは、なんともなかったのに……」
 珠里は泣き声になった。まだ一着しか持っていないドレスなのだ。
 先輩の踊り子たちはその様子を面白そうに眺めている。
「どうせラータに食い千切られたんだろうよ、ここにはたくさんいるからね」
 マルロスが口を歪めて笑いながらいった。それに釣られてほかのダンサーたちも嘲笑する。
〈ちょうどよかったじゃないか、あんたもその白い肌の胸を、男たちに見せたくてウズウズしてたんだからさ〉
〈客もそのほうが喜ぶわよ。だれもあんたの踊りなんかに拍手してないんだからね〉
〈そうすりゃ、また新聞にあんたの写真が載るよ。もっとも今度は、あなたの下手くそな踊りを誉める記事じゃなくて、トップレスでフラメンコを踊るダンサーとしてだけどね〉
〈それともパブロに泣きついて、新しいドレスを買ってもらうかい〉
〈でもそんなことになったら、あのアツコが黙っちゃいないよ〉
〈そりゃ見物だよ、みんな。日本の女同志の喧嘩を一度見てみたいじゃないか。闘牛とどっちが面白いかね、アハハ〉
 先輩たちが好き勝手なことをいって新入りを蔑む。
 珠里の頬に涙が伝った。
「気にしちゃ駄目よ、ジュリー。それより早く繕わなくちゃ、舞台に間に合わないわよ。崩れた化粧も直すのよ、さあ急いで」
 年下のロザンナが放心している珠里の肩を揺するようにして励ました。
 
     2
 
 〈コラール・デ・ラ・マヨール〉の客席はいつものことながら満員だった。
 ナイト・スポットとして脚光を浴びているこの店には、旅行社が案内する観光客が大勢押しかけてきていた。団体客が客席に溢れるようになると、地元のフラメンコ愛好家は敬遠してよその店に移ってしまったが、それでもマドリードで一番のタブラオという格式が崩れることはなかった。
 評価の高さを維持するために、店のオーナーは舞台に厳しい目を光らせ、客から拍手をもらえないダンサーはさっさと舞台から引きずり下ろす。また宣伝を利用した巧みな演出も怠らなかった。
 当然のことのように、従業員にも洗練されたマナーを強要していた。怠慢が売り物のこの国の男たちだが、店から与えられたユニフォームに着替えた途端、背筋を伸ばしてきびきびと動く。それは店主の目も影響していたが、それより客からのチップをあて込んでの動作だった。
 ともかく盛況だということは、オーナーにとっても、従業員たちにとっても、これからフラメンコを踊るダンサーたちにとっても、張り合いがあることだけは確かだ。

 食事を終えた観客はデザートを口にしながら、フラメンコがはじまるのを待っていた。団体客の中には、昼間の強行スケジュールの疲れと、食前に飲んだアルコールで体力と集中力を消耗してしまい、椅子の背もたれに身を任せてウトウトしている東洋人もいる。
 照明が落とされている舞台では、後ろの壁に取り付けられている百号ほどの絵だけにスポット・ライトが当たり、ギターを奏でる男やフラメンコを踊る女が油絵に生き生きと浮かび上がっていた。

 定刻になると大した演出もなく、二人のギタリストと、歌い手の二人が舞台に現われた。ギタリストのひとりは、薄暗い照明にもかかわらず黒いサングラスをかけた若者だった。
 演奏者が定位置につくと、天井の照明が灯り、舞台全体が明るくなった。客席のざわめきは潮が引くように前方から後方にかけて消えてゆく。
 静寂を待っていたとばかり、ギターが歯切れのいいリズムを鳴り響かせた。サングラスをかけているギタリストは、さきほど舞台に上がったときの足取りからは想像も出来ないほどの鮮やかな手つきで、ギターの弦を弾いている。歌い手たちは両肘を張った格好でパルマ(手拍子)を打つ。

 ダンサーがステップを踏みながら、次々と舞台に登場してきた。その数は六人。黄色や赤の情熱的な色のドレス、白地のドレスには黒の水玉模様。どのドレスも胸元を大きく開け、バストラインから腹部をぴったりと絞り、腰から裾にかけては朝顔の花弁のように広がっている。ダンサーが躰を回転させるとフレアーの裾がひらひらと舞う。
 六人のダンサーが一緒になってパルマを打ちながら踊る舞台に、観客の掛け声が飛ぶ。
 オーレ!
 ギターが激しいリズムを刻む。歌い手が声を張り上げて喉を競う。それに負けじと、ダンサーのサパテアード(足踏み)が反応する。
 全員が一緒に踊ったあとは、ひとりずつが交代で舞台の中央に進み出て、自分の腕前を披露しはじめた。順番を待つダンサーは後方でパルマで加わっている。

 踊り手は眉間に縦皺を刻み、苦悩と闘うように、全身を激しく動かしながらサパテアードで床を打った。どのダンサーも踊りの途中では決して微笑を浮かべなかった。それを見守る仲間の、「オーレ」と母音をのばす掛け声にも深い悲哀が漂っていた。
 五番手のロザンナも、指をパチパチと鳴らすピートでリズムを刻みながら精一杯踊り、観客の拍手をもらった。
 ロザンナが舞台の一番端で待っている最後のダンサーと入れ替わったとき、一段と高い拍手が沸き上がった。

 長い黒髪を頭頂部でひとつに結び、ポニーテールになった毛束を三つ編みにした踊り手は、後ろにいる五人のダンサーとはあきらかに人種が違って見える。ダンサー独特の濃い化粧で素顔を隠していても、顔立ちや肌の色で東洋人だとすぐにわかった。
 新聞で彼女の愛称を知ったのか、観客から、「ジュリー!」という掛け声が飛んだ。一瞬、ほかのダンサーの表情に不快感が走ったが、観客はだれもそちらのほうを見ていない。
 白い肌は一見弱々しく見えたが、彼女の全身はバネのように弾み、力強いサパテアードには迫力すら感じられた。彼女が両手の掌の中で打つカスタネットの乾いた音が、熱気を裂いて店の隅々にまで響く。

 観客の声援に応えるように、彼女は持っているエネルギーをすべて出し切るように踊った。額に浮かんだ汗が彼女の真剣さを強く打ち出していた。歌い手の声と、ギターの音色と、カスタネットのリズムが見事に調和し、観客を魅了する。
 章節で歌声が消えたとき、ギターの伴走はひとつになった。独奏は黒いサングラスのギタリストがとっていた。さっきまで規則正しくリズムを刻んでいたギターの音色が、突如として複雑に分解し、それまでとは打って変わった旋律を弾きはじめた。
 音の微妙な空間に白い肌の動きが途惑い、ぎこちない様がもろに出た。舞台を叩いていたサパテアードが力をなくし、カスタネットの音も弱々しくなった。
 観客が息をひそめ、店内は静まり返った。
 ギターは気侭な旋律を自由にさ迷うのを止めようとはしない。踊り手の表情が険しくなった。ギターと彼女のサパテアードがかなり食い違っている。
 ギタリストは表情を変えずに弦を弾く。もっともサングラスをかけたギタリストの深い表情まではよく読み取れない。ただ観客の目には、踊り手の困惑がはっきりと映っていた。
 
 
 その夜の出番が終わった白鳥珠里は、楽屋の隅にうずくまっていた。
 先輩たちは、やってきたときと同じように観客の悪口をいいながら、珠里には目もくれずにさっさと楽屋を去った。
 ただひとり優しい言葉で慰めてくれたロザンナも、母親に連れられて帰ってしまった
 ひとり残された珠里の、舞台へ上がるまえに丹念にした化粧は、こぼした涙で崩れてしまっている。胸の中では哀しさと悔しさが渦巻いているが、もう涙は沸いてこなかった。
 涙の代りに、どうして? という疑問が頭を持ち上げていた。
 地下の楽屋には静けさが漂い、ときおり階上の喧噪が聞こえてくる。舞台ではトップスターのパブロやアツコが、盛大な拍手を浴びながら踊っているのだ。

 入口のドアがギギィときしんだ。
 珠里は気怠そうにゆっくりと顔を持ち上げ、音がしたほうに目を向けた。
 遠慮がちに開いたドアの隙間から小柄な娘が中を覗いている。娘はパキータという名前で、盲目のギタリストの妹だ。
 パキータと視線の合った珠里は、無理に笑顔をつくろうとしたが、頬の筋肉が強張って思い通りにならず、歪んだ表情になった。
「まだいたのジュリー……。明りがついていたから勝手にのぞいてしまったの、ごめんなさい」
「いいのよパキータ、入ってらっしゃい」
 中の様子を探るような目をしながらパキータが入ってきて、珠里の前の椅子に座った。
「ひとりでなにしてたの?」
「フィデルの舞台が引けるのを待ってるのよ」
「兄を?」
「そうよ。今夜の舞台で、どうしてあんなことになったのか訊ねたくって、こうして待ってるの」
「なにかあったの?」
「知らなかったの? ならいいのよ、たいしたことじゃないから。あなたは心配しなくていいのよ」
 心配そうな表情のパキータに、珠里はもう一度微笑んでみた。今度は先程より表情が幾分和らいだ。
「ねえパキータ、あなたに頼みがあるんだけど、聞いてもらえるかしら」
「わたしに出来ることなら、なんでもいって。あなたの役に立ちたいわ」
 パキータは愛らしい乙女の顔を、成熟しはじめた躰の線を持った女の自負に変えた。
「マソール広場の西側に、〈ラ・マスモーラ〉ってバルがあるの。ここからだとミゲール通りの右側になるわ。そこで待ってるから、舞台が終わったらフィデルを連れてきてくれないかしら」
「お安いご用よ。兄はあなたに好意を持ってるから、喜んで行くと思うわ」
「そうだといいんだけど……」
 今夜がなかったらパキータの言葉を心地よく受け入れたかもしれないが、いまとなっては白々しい科白にしか聞こえなかった。

 パキータは珠里から目を反らし、階上から届く音に神経を集中させ、舞台の進行状況を計っているようだった。壁の掛け時計の針などには見向きもしない。
「もうそろそろ舞台が引けるころだから、わたし行かなくちゃ。きっと兄を連れて行くから、その店で待ってて」
 そういい残してパキータが立ち上がった。
 後を追うように珠里が念を押す。
「ミゲール通りのラ・マスモーラよ」
 パキータは駆け出しながらしっかりとうなずいた。

 珠里は洗面台で顔をきれいに洗った。さっきまで泣いていた自分自身が情けなく思えてきた。こんなことくらいに負けていたら、いつまでたってもトップスターにはなれない。それだと、彼と離れてスペインまでやってきた意味がなくなってしまう。
 がんばるわよ! 珠里は鏡の中の相手に宣言した。
 相手も強い意志を表わした顔で睨み返してきた。
 化粧道具をバッグにしまってから、脱いだままになっていたドレスを戸棚のハンガーに掛けようとして、珠里は手を止めた。
 戸棚には先輩のドレスがずらっと並んでいる。
 もしかして、わたしのドレスだけがまたラータに食い千切られたら大変だわ、という不安に襲われた。珠里はドレスを戸棚にしまうのをやめ、躊躇なく小脇に抱えて楽屋を出た。
 
      3
 
 深夜だというのにメソーンは若者で賑っていた。
 奥に長い店内の、中ほどのテーブルに空席があった。石垣に囲まれたこの店は、昔は地下牢だったそうだ。フラメンコのレッスンを一緒に受けていた仲間に、はじめて連れられてきたときに教えてもらった。
 そういえば薄暗い明かりの下で、大勢の客が安い葡萄酒を飲みながら騒いでいるところは、盗賊の住み処のようでもある。でも客の表情は底抜けに明るい。こんな盗賊となら一緒に語り明かすのは悪くないだろう。
 珠里はこの店が気に入っていた。なん度かきているので、マスターやボーイとも顔馴染になっていた。そういう点では、ひとりできても安心だった。

 生ハムと葡萄酒を注文した。珠里は両肘をテーブルの上について、花弁のように広げた両手の掌に顔を乗せて待った。
 隣りのテーブルの若者が声を掛けてきた。
「セニョリータ、そのドレスはきみのものかい?」
「そうよ」
「きみはフラメンコダンサーなの?」
「まだ駆け出しだけど」
 珠里は若者との間に、しっかりとした壁をつくり、それを崩さないような返事をした。
「きみは日本人だろ? ジプシーの魂がわかるのかい」
「この場所を居心地がいいと感じる程度にはね」
 若者がピューと口笛を吹いた。
「こっちで一緒に飲まないか」
 誘った若者は人なつっこい笑顔だった。
「ありがとう、でももうすぐ友達がやってくるから、ひとりで待ってるわ」
「ボーイフレンドかい?」
 珠里は曖昧な微笑みを返した。
 若者が両手を広げておどけるように首をかしげた。その様子を見守っていた仲間から、どっと笑い声が上がった。

 葡萄酒を持ってきたボーイが早口で若者たちに喋った。よく聞き取れなかったが、珠里が一流のタブラオで踊っているという内容のようである。
 若者たちの仲間がまた口笛を鳴らしたが、もう話し掛けてくるようなことはなかった。
 〈コラール・デ・ラ・マヨール〉のような格式のあるタブラオにくる団体客よりも、日本の貨幣で五千円もあれば飲んで食べられる、このメソーンにくる若者のほうがずっと紳士的だ。酔って卑猥な言葉でしつこくいい寄ってくる客などひとりもいない。団体でしか行動しない金持ちの観光客は、地下牢のような居酒屋が嫌いらしい。
 珠里が時間をかけてグラスの葡萄酒を半分ほど飲んだころに、パキータとフィデルが姿を見せた。
 パキータは珠里の姿を見つけると、フィデルの手を引きながらテーブルまでやって来た。サングラスをかけた兄とともに移動してきた客の視線が珠里のところで止まった。
「呼び出したりして、ごめんなさい」
 珠里は周りを気にせずに謝った。
「いいんだ、それより用事ってなんだい」
 黒いサングラスが珠里を見つめた。
 珠里がオーデションに合格し、ダンサーの一員になってから一番仲良く話をしていたのがフィデルである。舞台では先輩後輩という序列があったが、舞台を下りると同い年のふたりは友達としての会話を交わす間柄だった。
「そのまえに、わたしに一杯おごらせて」
 珠里はパキータに、目でテーブルの前の椅子に座るように勧めた。
 パキータが兄を先に座らせてから、自分も横の椅子に腰を下ろした。
「ねえ、お腹すいてない?」
 パキータに訊いた。
「そうね、ちょっとだけ」
「なんでも好きなものを注文していいわよ」
「じゃあボカデージョをいただくわ」パキータはパンに魚のフライを挟んだものを選んでから、「それにジュースもいいかしら」と遠慮がちにいった。
「もちろんよ、わたしが呼び出したんだもの」
 珠里は気前よくいい、今度はフィデルに向けた。
「あなたは?」
「腹は減っていない」
「だったらなにか飲んで……。きてくれるようにお願いした、わたしだけが飲むのは悪いわ」
「それなら葡萄酒だけをもらう」
 珠里はボーイを呼んで、後からやってきたふたりのために注文をした。

 こちらに集中していた客の視線はすでに散らばっていた。
 兄の葡萄酒と妹のジュースがテーブルに並ぶのを待ってから、珠里は口を開いた。
「ねえフィデル、今夜の舞台のことで話があるの」
「ここにくる途中、妹から聞いたよ」
 フィデルが面倒臭そうにいい、そして話から逃れたいかのように溜め息をこぼした。
 珠里はパキータの真剣な眼差しに応援されたように、
「どうして途中から演奏が変わったの?」
 と、ストレートな質問を浴びせた。
 フィデルのサングラスに反射している鈍い光に変化はなかった。
ただ彼の口元が引き締まったのは見て取れた。
 珠里は彼の胸を探るように、サングラスを凝視していった。
「事前に、なにも教えてもらっていなかったわ」
 話の内容を把握したパキータも、珠里と一緒になって兄の顔をのぞき込む。フィデルは無表情のままで、グラスを探って手に取り、葡萄酒を飲んだ。
 待っても、フィデルが口を開こうとする様子は微塵もなかった。
「あなたの伴奏にケチをつけてるわけじゃないのよ、わかってね。あなたが高度なテクニックを持ったギタリストだということは充分承知してるし、今夜の演奏だって素晴らしいものだということも理解できるわ。ただ、わたしのような未熟者には、突然あのように変化したら、付いてゆけないってことはわかるでしょう……。なのにどうして、ショーの真っ最中にあんなことになったの?」
 黙って聞いていたフィデルが、一言だけ喋った。
「未熟だと自分でわかってるなら、稽古に励むことだな」
 そんなことくらいは珠里にもわかっていた。わかっているから朝から夕方まで、毎日六、七時間の練習を続けている。しかしこの場の言い訳は無意味だった。

 フィデルのどこかが変わった、と珠里は思った。以前は優しい柔らかな光を反射していたサングラスだが、今は突き放すような冷たい壁になっている。
「ねえ、兄さん、わたしたちまた厄介なことに巻き込まれているの?」
 いつの間にか、憂いがパキータの顔面いっぱいに広がっていた。
「なんなの、その厄介なことって?」
 受理は魔物が棲む門の前に立たされたような怯えた声を出した。
 フィデルがサングラスの奥からふたりの表情を見透かしたみたいに、
「なにも心配することはないんだ、パキータ。トップダンサーになるためには、だれもが避けられない障害さ」
 といっておいて、少しの間を置いた後で、
「冷酷で、危険で、汚らわしい、障害さ」
 と続けた。
 珠里とパキータは互いに怪訝な表情で顔を見合わせた。
 気配を察したフィデルは、ふたりの不安を振り払うように言い切った。
「ジュリーはそんなことくらいにゃ負けないよ、安心しな、パキータ」
 パキータに向けるように喋った科白は、珠里へのものだった。それはフィデルが今夜はじめて口にした、ぬくもりのある言葉でもあった。
 珠里は不可解な出来事についての追及を止めることにした。真相はわからなくても、解決策はわかった。どんなことがあろうとも、踊り抜くだけだ。
 
      4
 
 四十歳半ばとはとても思えない、パブロ・エスペデスの引き締まった躰に腕を伸ばすと、彼の厚い胸はまだ波打っていた。
 風舞敦子はパブロのほてった体温を感じながら、こうやって裸同志で寄り添っている時間が好きだった。
 ついさっきの、快感が脳天をつらぬいたときとは、またべつの満足感に包まれていた。パブロが放出した精が、秘花の奥から外へゆっくりと流れ出す感触を、風舞敦子は幸せな気分に感じていた。
 パブロには妻子があるが、夫婦間の営みのほうはいまでは皆無のはずだ。なぜならここ数年間、パブロの性欲の度合いは完全に把握してあり、女への欲求が高まらないうちに、欲望を絞り取っているからだ。三日に一度は肌を合わせ、そのたびにパブロは迸る精を敦子の中に放った。妊娠の心配はない。敦子のほうで防御しているから。
 ひと頃はパブロの子供を産んでもよいと思っていた。それもあの女、白鳥珠里が現れるまでは――。
「ねえ、パブロ、わたしを愛してる?」
「もちろんだよ、アツコ。愛してるよ」
「わたし以外の女に興味はない?」
「あたりまえじゃないか、こんなにアツコを愛しているんだからね」
「奥さんはどうなの?」
「あんな女、いつだって別れてやるさ」
 強がりをいっているパブロだが、妻と別れることなんて絶対出来ないのだ。妻の後ろにはジプシー民族の団結力があって、男の身勝手だけで妻を捨てることなど出来るわけがない。それにジプシーの一族郎党が一致団結したときの怖さを、パブロ自身が一番よく知っている。
「珠里はどうなの?」
「どうしたんだい、アツコ。最近のきみは変だよ」
「いいから聞いて。あなた、ときどきジュリをじっと見てるけど、どういうつもりなの?」
 ほんとうはパブロの妻のことなんかはどうだってよかったのだ。敦子の頭に居座る女は白鳥珠里なのだから。
 敦子の胸の突起を愛撫していたパブロの指が止まった。
「新聞に出てから、あの娘、生意気になったと思わない?」
 パブロの指先がまた作動しはじめ、上滑りの言葉が口から出た。
「まったく、アツコのいう通りだよ。このところジュリーはいい気になってる。ぼくもそう感じてたんだ」
「あの娘、目障りだわ」
 敦子はパブロの萎えた性器に手をやった。反応はない。
「ジュリにはお仕置きが必要よ」
「お仕置き? 日本ではどんな方法でやるんだい」
「そうねぇ――、あなたがジュリを犯すってのはどう?  あの娘の清純ぶった化けの皮を剥してやりたいの」
「そんなこと、ぼくにはできないよ」
 出した言葉と、内に隠した気持が大きく違っているのがわかった。敦子の手の中でパブロの性器に反応が起きている。
「わたしが頼んでも」
「アツコの頼みなら仕方ないけど、ぼくの気はすすまない」
「お願いよパブロ、あの娘を目茶苦茶に傷つけて、日本に追い返してちょうだい」
 パブロの性器は生命を取り戻し、そそり立った。
 敦子はニンマリとほくそ笑み、胸の中でつぶやいた。わたしの大事なこの頑強な息子を珠里にぶち込むのよ。そしたら、犯している最中にわたしが乗り込んでわめき散らし、あの女の心をずたずたに切り裂いてやる。でもそのことだけはパブロにも内緒。
「わかったよ、アツコ」
 荒い息を吐いて、パブロが敦子の上にかぶさってきた。
「約束してくれなきゃ、あなたとは別れるわよ。それだけじゃなくて、あなたの奥さんにこれまでのふたりの関係を喋るわ」
 それだけいうのがやっとだった。パブロの熱り立ったものが奥深くまで入ってきて、強く突き上げてきた。頭の先までしびれてくる。躰の芯から沸き上がった歓喜が声になって漏れた。
 全身が痺れ、雲の上を彷徨っている感覚に酔いながら、風舞敦子は脳裏に白鳥珠里が犯されている状況を描き、もっと強く激しく突くのよ! と叫んだ。

 激しい時間が過ぎると、パブロはグッタリとした。さすがに間を置かずの二回は、四十男の躰にこたえたらしい。
 敦子はベッドから離れ、サイドボードからブランディを取り出すと、栓を開けてビンのまま口に加え、少量を喉に流し込んだ。喉から食道、胃へと刺激が伝わる。熱い息を吐いてから、二口目を口に含んだ。
 そのままベッドに戻ると、パブロの唇に自分の唇を押しつけ、ブランディをゆっくりと送った。パブロの喉仏が動く。液体がとぎれると、パブロは敦子の唾液までも吸った。
「きょうはここまでよ」
「もう少しこのままでいよう」
「駄目、時間がないわ。そろそろ店に行く準備をしなきゃ」
 抱き留めようとするパブロの手を振り解いて、敦子はバスルームに入った。

 ぬるめのシャワーを浴びながら、敦子は自分の躰に視線を這わせた。胸の隆起がたるんできている。乳頭だけが大きく膨らんで黒ずんでいる。肌だってもう衰えがはじまっていた。無理もない、二十三歳でスペインにきてから十五年を過ぎたが、その間肌の手入れなどしたこともないのだから――。毎日毎日、フラメンコだけに明け暮れた人生だった。それもトップダンサーの地位を手に入れるために青春を代償にしたのだから、悔いはないと自分にいい聞かせてきた。
 それがどうだ、白鳥珠里はあの若さで、あの美貌を保ったまま、脚光を浴びようとしている。悔しいけど、若さ、美貌、スタイル、どれを取っても敵わない。間違いなく勝っているのは踊りだけだ。
 でもそれだって、自分がどう頑張ったとて、観客の声援がなければ無意味な自己満足になってしまう。

 いまでは白鳥珠里のフアンのほうが多くなっているように感じる。たとえフラメンコの奥義がわかっていない観客にしろ、フアンの声援はダンサーを大きく育てる栄養になるものだ。
 パブロだってそれを知っているはず。その程度ならよいのだが、心の底では白鳥珠里に鞍替しようと企んでいるらしい。その証拠にパブロが本心を隠そうとしても、躰の変化は正直だった。
 男と女なら互いにパートナーとして共存できる。しかし、女にとって、女は、敵でしかないのだ。
 パブロがバスルームに入ってきて、いきなり後ろから抱きついてきた。
「アツコ、ぼくの胸で背中を洗ってあげよう」
 敦子はパブロに身を任せ、好きなようにさせておいた。白鳥珠里を陥れるためには、この男が必要だった。愛して、騙して、脅してでも、パブロを利用するのだ。
 
 
 四週間後――。
 午前二時になった。そろそろ白鳥珠里が隣りのパブロの楽屋にくるころだ。敦子は自分の部屋の明かりを消して、ドアに内側から鍵をかけた。
 しばらくすると廊下に足音がした。足音は段々大きくなって、敦子の部屋の前で歩調をゆるめた。敦子は中の気配を微塵も外へ漏らすまいと、息を殺して静寂に身を隠していた。
 足音は隣りの楽屋に移った。ホッとした敦子は、張りつめていた緊張の糸をそっと解いてゆく。

 隣りの部屋のドアをノックする音がはっきりと聞こえた。
「エスペデスさん、珠里ですが」
「待ってたよ、ジュリー、お入り」
「失礼します、お疲れさまでした」
 耳を澄ますと、向こうが声を潜めない限り、薄い壁板一枚を通して、隣りで喋る声が聞き取れる。
 おまけに壁には小さな穴まで開いていた。穴は人の手によるものだった。いつ開けられたのかはわからないけれど、パブロがこの穴の向こう側から、ソロダンサーになってこの部屋をもらった敦子の様子をのぞいていたことは知っている。知っていたからこそ、わざとあらわもない姿で挑発してやったのだ。

 今度は反対に、敦子がパブロの楽屋をのぞく番だ。敦子は小さな穴に目を擦り付けた。見渡せる範囲は狭いが、うまい具合に向こうの壁に取り付けられている姿見にふたりが映っている。
 パブロは椅子に腰掛け、珠里は少し間を取ったところに立ったままである。
「クワドロの連中は全員帰ったかね」
「はい、みんな先に帰りましたが、わたしに話ってなんでしょうか……」
「まあそんなに急ぐことはないじゃないか」
「ええ、でももう遅いので……」
「きみの踊りについてアドバイスしたかったんだけど、いまここで聞く気がなけりゃ、帰ってもいいんだよ」
「すみません、ご好意とも知らずに失礼なことをいって」
「ぼくは昼間は忙しいし、それにきみだけを教えると、ほかのクワドロの連中に恨まれるんでね、こんな時間しかないんだよ。わかるね、ジュリー」
 珠里は両手をコートの胸元で軽く交差させたまま、小さくうなずいた。
「きみの最近の進境は素晴らしい。でもソロダンサーとして踊るには、リズムの変化に付いてゆけないという欠点がある」
「自分の未熟さはわかっているのですが……」
「やる気はあるのかね」
「もちろんです」
「それじゃあ、ちょっと踊ってごらん、気がついたところをチェクしてあげるから」
「いまからですか」
「だからさっきもいっただろう、きみが嫌ならいいんだ」
「いえ、教えていただけるのなら、こちらからお願いします」
「踊るまえにそのコートを脱がなきゃ、動きがわからないよ」
 一瞬、珠里は顔を伏せてためらったが、思い切ったように顔を上げた。

 彼女の視線がこちらを睨んだ。敦子は慌てて穴から目を外した。
ヒヤリとしたが、考えてみれば鏡に反射した視線である。穴に気が付いて睨んだわけじゃない。敦子はもう一度のぞき穴に目を戻した
 珠里がコートを脱いでいる。日中暖かかったせいかコートの下は薄着だった。素肌に直接Vネックのセーターを着て、首には高価そうなスカーフを巻いていた。
 パブロが立ち上り、珠里のそばに近寄った。
「さあ、靴を脱いで、ストッキングも脱いで……。裸足でサパテアードをやるんだ」
 珠里の姿が鏡から消えた。それを追うパブロの瞳が好色そうに光った。穴から隣室を覗いている敦子の脈が高ぶった。
 裸足になった珠里の姿が戻ってきた。短めのスカートからは引き締まった素足が伸びている。珠里は一呼吸置くと、パブロのかけ声に従い、コンクリートの床を素足で踏みはじめた。
    パシッ、パシッ、と床が鳴る。スカーフの先が珠里の胸の上で揺れた。
 敦子は片目でその様子をじっと睨んでいる。
 パブロが両手で珠里の動きを静止させ、黙ったままスカーフに手を伸ばした。珠里がわずかに身を引く。
「なにをそんなに怯えてるんだ。ぼくが怖いのかい」
「いえ、そんな……」
 躰を固くした珠里が目を伏せた。
 その瞬間を狙っていたように、パブロが素早く結び目を解いてスカーフを珠里から奪い取った。
 あっ、と声を漏らした珠里に、強い声が飛んだ。
「さあ、踊りを続けて!」
 鋭い眼光でパブロが命令する。
 ポーズを取り直すと、珠里は再び踊りはじめた。
 足の裏でコンクリートを打つ音が、力強く響く。
 時折パブロが珠里の踊りを中断させ、自分で踊ってみせた。
 真剣な目で珠里がうなずき返す。
 のぞいている敦子の心に嫉妬の炎がめらめらと燃え上がった。壁の向こうのふたりは、どこから見てもフラメンコの稽古に熱中しているとしか見えない。敦子は怒りを胸中で爆発させた。

 どうしたのパブロ、計画を忘れたとはいわせないわよ。さあ早く、その娘を犯すのよ!
 その怒号が届いたかのように、パブロがゆっくりと珠里の後方に回った。
 珠里の神経は踊りに集中している。パブロの移動も、激しい動きでスカートの裾が上にめくり上がっているのも、気にかけていない。
 パブロの目が光った。後ろから珠里に飛びついた。驚いた珠里は、きゃー! と叫んで、両腕で身をかばった。
 悲鳴は逆効果となり、パブロの動きが狂暴になった。肩を抱え込んだ右手の掌が口をふさぎ、腰から腹部を捕らえた左手が、暴れようとする珠里の自由を奪っている。珠里がパブロの腕を振り払おうと、もがく。パブロが足払いをかけた。ふたりの躰が重なったまま床に崩れた。
    珠里が再び悲鳴を上げる。パブロが珠里の躰の上に馬乗りになった。パブロが振り下ろした手が珠里の頬で炸裂した。珠里の顔がのけ反る。すかさず反対側の頬にも手が飛ぶ。バシッ! 顔面を直撃する凄じい音。珠里の鼻から鮮血が流れた。
 血を見た敦子は、獰猛で冷酷な獣のような身震いをした。もう傍観者ではいられなくなっていた。

                  5

  道行く人たちはまだコートの襟を立てて歩いているというのに、六本木のフォト・スタジオ内では水着の撮影をしていた。
    水着姿になるモデルのためにエアコンと石油ストーブで暖房をガンガン効かせているので、スタジオ内はTシャツ姿でちょうどいい室温だった。
「そのTシャツも素敵ね、こないだのはピカソのプリントだったでしょう。きょうのはダリね」
 水着の上にブルゾンを羽織っただけの秋本美鈴が訊ねた。
「いいだろう。気に入ってるんだ」
 麻生美行は美鈴の髪にホットカーラーを巻きながら答えた。
 美鈴は二十代前半の女性を対象としたファッション系雑誌の専属モデルで、麻生のほうはフリーのヘアメークだ。
    編集者が麻生の仕事ぶりを気に入り、度々指名がかかっているので、このところふたりは一緒になる機会が増えていた。
 モデルとヘアメークはお互いを理解・信頼してこそ、よい仕事ができる関係にあった。いざ仕事となると、モデルは自分の顔や髪がヘアメークの手によってどんなふうに表現されようとも、一切口を挟めない立場である。出来上った作品に注文をつけるのは編集者とカメラマンくらいだ。
    そのかわり自分のチャームポイント一番良く知っているモデルは、ヘアスタイルやメークアップが自分の気に入らないと、あからさまにヘアメークを無視しはじめる。
    そうなるとヘアメークの仕事はやりづらい、というよりも作品自体の出来が悪くなってしまう。逆に、モデルをより一層美しく表現して気に入ってもらえると、こんどはモデルが内面から醸し出す雰囲気をつくって、作品の効果を高めてくれる。

 これまで一緒にした仕事で、麻生と美鈴は信頼という太い絆で結ばれていた。その結果、美鈴はモデルという気取った肩書きを外した十代の娘に戻って、麻生と気さくに対話するようになっている。
「麻生ちゃんって、Tシャツが似合うよね、はじめて会ったとき、胸が厚くて躰が締まっているから、ヘアメークさんだと聞いて、びっくりしちゃった。色が黒くて髪が短いでしょう、だからスポーツ選手かと思ったのよ」
「美容師に見えないところが、おれの自慢でね」
「Tシャツ姿で、若く見せようとしてるところが見え見えだけど」
「ちょっとちょっと、おれはまだ二十八だぞ。なのにもうオヤジ扱いかい。でも美鈴に比べると、十歳も上になるから、そういわれてもまあ仕方ないか」
 美鈴の前髪をカーラーで巻き上げると、おでこが丸出しになり、誌面で気取っているときよりもずっと初々しくて可愛らしく見える。
「でもわたし、年上の人、好きよ」
「おっと、嬉しいことをいってくれるじゃないか」
「わたしもそんなTシャツが欲しい」
「こいつ、そんな魂胆があったのか。あげたいけど、これはダメだね」
「さてはだれかに貰ったな。彼女からのプレゼントでしょう?」
 麻生は自分が着ているTシャツの胸の絵柄に目をやって、ちょっぴり照れるように笑みをこぼした。
「やっぱりそうなんだ。ねえねえ、麻生ちゃんの彼女ってどんな人?」
「そんなのどうだっていいじゃないか」
「わあー、ずるいんだ。このまえ一緒に仕事をしたときは、わたしの彼のことを訊いたくせに」
「教えてくれなかっただろう」
「だって本当に彼なんていないんだもん」
 ちょっぴりすねるように美鈴が唇を尖らせた。

 どんな会話になっても、麻生の手だけは敏速に動いている。髪全体にカーラーを巻き終えると、今度は化粧に移った。
 麻生はクリーム状のフアンデーションを容器の口からスポンジに垂らし、美鈴の肌理の細かな肌に塗ってゆく。小麦色の肌に見せるためにブロンズ色のファンデーションを使っている。丁寧に塗らなければ、本番で強いライトが当たると、わずかなムラでも写真に表われてしまう。ベースが整うと、次はアクセントカラーを塗ってゆく。アイシャドーとリップの色調を極力抑えて、日焼けを強調した若々しい印象の顔に仕上げた。
「上着、脱いで」
    事務的な声で麻生が指示した。
 美鈴はなんの抵抗もなく、羽織っていたブルゾンを取って、水着一枚の姿になった。
 トリコロール・カラーの大胆なデザインの水着が、美鈴の発育した肢体に見事にマッチしていた。可愛いく膨らんだバストライン、きゅっとくびれたウエスト、上に持ち上がったヒップ。洋服を着ているときには華奢な感じがするが、水着姿になると女体の曲線の美しさが充分に見て取れる。麻生はこのときはじめて、美鈴を女としてちょっぴり意識した。
 しかし仕事中はそんな感情もそこまでだ。麻生は露出している美鈴の腕にファンデーションを塗りはじめた。

 編集の木村房子が途中経過の確認にきた。
「麻生君、あとどのくらいで上がるかしら?」
「うーんと、二十分くらいかな、ヘアの仕上げ時間も入れてね」
「そう、手早いので助かるわ」
 木村が腕時計を確認した。
 オープンスペースの向こうでは、カメラマンの助手がライティングの準備で忙しそうに動いている。
「きょうのカメラさんはだれですか」
「佐伯さんよ。編集長と打ち合わせをしてたから、もうそろそろスタジオにくるころよ。ヘアチエンジの際の待ち時間が少ないから仕事がしやすいって、佐伯さん、麻生君のこと誉めてたよ。それに麻生君は英語が喋れるから、外人のモデルを使うときに助かるって」
 フリーのヘアメークにとって、英会話は必須条件だった。
「スピードや下手な英語よりも、仕上りを誉めてもらいたいな」
 麻生は仕事の手を休めずに冗談を返す。
「なにいってんのよ、認めているからこそ、麻生君に仕事を頼んでるんじやないの。最近、フリーのヘアメークさんからの売り込みが多いのよ、知ってた?」
 木村は手に持っていた大学ノートを丸めて、片手の掌にポンポンと叩きながら続ける。
「でも自己宣伝に見合うだけの仕事をしてくれる人は少ないのよねぇ。麻生君のようにコンクールで優勝したことのある人なら、一度頼んでみようかって考えないことはないんだけど・・・・」
 木村が退屈しのぎの話をする間にも、美鈴の上半身は小麦色の肌に変わってゆく。
 上半身が終了すると、麻生は美鈴をその場に立たせた。
「美鈴ちゃん、ちょっと麻生君と並んでみて」
 木村にいわれるままにふたりは肩を並べた。
「麻生君、身長はなにセンチ?」
「百七十八です」
「美鈴ちゃんは?」
「百七十センチ」
 麻生には木村が次にいう言葉がわかった。
「靴を脱いで並ぶと、やっぱり麻生君のほうが高いわね。でも足は美鈴ちゃんのほうが長いよ」
 やっぱり。予想していた通りだ。麻生は苦笑する。編集者にしてはつまらない冗談だし、ネタが古すぎる。それでも美鈴の足が長いことは認めなくてはならない。
「足が長い分、ギャラの割り増し請求をさせてもらいますよ。ファンデーションを塗る面積が多くなりますからね。肥満体のモデルの場合はさらに高くいただきますからね」
 わざと真面目な表情をこしらえて編集者に抵抗してから、麻生は美鈴の下半身のメークにかかった。
 ハイレグに切り込まれた足の付け根にも当然ファンデーションを塗らなければならない。その部分に近づくにつれ、美鈴の太股の筋肉が硬くなってゆく。麻生はファンデーションを塗っている箇所に無関心を装うために、編集者へ向けて再び軽口を叩いた。
「こんどはスタジオじゃなく、南の島へでもロケに連れてってくださいよ。そしたらこんな面倒なことをしないですむのに。発行部数伸びてるんでしょう?」
「おかげさまでね」
「だったら、こんなセコイことなしにしましょうよ」
 ファンデーションで日焼けしているように見せたり、ストレートな髪にヘアアイロンでパーマのウエーヴをつくったりすることは、撮影ではよくある手法だった。いかに本物っぽく見せるかがヘアメークの技術でもある。
「そうね、麻生君もがんばってくれているから、そろそろご褒美に、海外ロケを考るように、編集長に頼んどくわ」
「え、ホントにぃー。だったらわたしも連れてってくださーい」
 口を挟んだ美鈴が動いたので、スポンジが滑って水着にファンデーションが付いた。
「こら、じっとしてろ」
 麻生が美鈴の尻を軽く叩いた。ピチャッ、可愛い音がして、美鈴が、ごめんなさい、と謝った。

 カメラマンの佐伯が姿を現すと、スタジオ内に緊張感が走った。佐伯はアシスタントに照明の指示をする厳しい顔と、モデルに向ける優しい顔を使い分けながら、撮影準備のチェックを終えた。
 モデルが位置につき、カメラテストがはじまる。ポラロイドで撮った写真で、カメラマンとヘアメークがそれぞれの責任範囲を入念に見直し、編集者は全体のバランスを検討してゆく。
 麻生は美鈴の前髪を少し手直しして、佐伯にOKの合図を送った。
 マイケル・ジェームスの海をテーマにした心地よいBGMが流れだし、本番がはじまった。
    6×6サイズのローライフレックスのシャッター音が、変化するモデルのポーズを一枚一枚確実に記録するように重く鳴動する。デジタルカメラの時代に、佐伯は頑なにフイルム写真にこだわっていた。被写体の内面までが写っていると高評価を得ている源だろう。
    フイルム交換の間に、佐伯が美鈴に次のカットの注文をだし、麻生のほうは美鈴の髪の乱れと鼻筋にうっすらと滲んだ汗を手早く直す。
    ヘアチェンジと衣装の着替えを何回かして、撮影は一時間ばかりで終了した。
「お疲れさまー」
 撮影に関わったスタッフ全員が声を合わせた。

 スタジオの外に出ると一瞬にして真冬に戻った。
 冷たい空気が麻生の肌を刺す。一緒に出た美鈴も身を縮めた。
「さむーい」
「夏から冬にタイムトリップしたから、よけい寒く感じるな」
「おなかもすいた」
「哀れそうな声を出すなよ、こっちまで侘しい気分になるじゃないか。おなかが空いてたんなら、木村さんがなにか食べてくって訊いたときに、遠慮しないでいえばよかったのに」
「いつもの出前のサンドウィッチはパスしたかったのよ」
 美鈴が舌を出して無邪気に笑う。
「じゃあ暖かいものでも食べてゆくか」
「連れてってくれるの、やったぁー」
 腹を空かした子猫のように戯てくる美鈴に、麻生は、妹とも友人とも、まして恋人ともいえぬ間柄の、奇妙で、それでいて心が躍るものを感じていた。

 ふたりは麻布まで足を伸ばして、名の売れている中華レストランに入った。
    二階の窓際の席に向かい合って座り、熱いスープで躰が暖まってくると、自然に会話が弾みはじめた。
「麻生ちゃん独り暮らしなんでしょう。食事は自分でつくってるの?」
「もちろんだよ。だれにつくってもらうんだよ」
「だからさぁ、彼女とか……」
「ならいいけど、いないんだ」
「また平気でそんな嘘をつく」
「ちょっと待てよ。またって、おれはきみに嘘をついたことはないだろう」
「ごめんなさい、『また』は取り消すけど、彼女がいないってのには、疑問符がつくわよ」
 美鈴が麻生の胸元に目をやり、ブルゾンの下を透視するように見つめた。
「そうか、いい方が悪かったな。日本にはいない、こういったら納得できるかい」
「外国の女性なの?」
「いや、日本人だけどね、スペインに行って、かれこれ五年になるかな」
「ふーん、スペインかぁ。でもときどきは帰国するんでしょう」
「それが行ったきり、一度も帰国してないんだ」
「えー、じゃあどうやって会うの? 麻生ちゃんがスペインへ会いに行ってるってわけ?」
「おれは一度も行ったことがない」
 麻生はさびしそうに首を横に振り、外の景色を眺めた。

 夕暮れの寒空の中、人々は急ぎ足でそれぞれの目的地に向かっ歩いている。行き着く先ではなにが待っているのだろう。笑顔で迎えてくれる家族だろうか、それとも甘える顔の恋人か。麻生には他人の幸せな場面しか浮かばない。それに比べて自分の場合は――、会いに行くには遠すぎる、と頭の中で反芻していた。

「麻生ちゃんとその人を結んでいるのが、いま着ているTシャツってわけね」
 人生の辛苦を噛み締めたような、生意気な口振りで美鈴がいった。
「こいつ、おれの私生活を退屈しのぎにしないでくれよ」
「退屈しのぎだなんて、ひどーい。わたしは興味があるから訊いてるのに」
「おれの彼女のことを知ったって、ちっとも面白いことないだろう」
 美鈴が拗ねた顔を横に振る。
「でもそれ以上話すことはないんだよ、残念ながら」
 なにげなく麻生は腕時計に目を遣った。
 すかさず美鈴が訊ねた。「用事があるの?」
「いや、なにもないけど」
「だったらもう少しいようよ。わたしも暇なんだぁ」
 自分の気持ちをストレートにぶつけてくる美鈴の若さが好ましい。仕事を離れてふたりで向かい合っていると、不思議な感情にむせそうになる。美鈴への気持ちを麻生は持て余しそうになっていた。 
 そんな麻生の内面にはおかまいなしに、美鈴はまたも切り込んでくる。
「ねえねえ、麻生ちゃんどうしてヘアメークさんになったの? 教えて」
「うーん、そうだなぁ……、おふくろの影響かな。おれの母親が美容師でね、子供の頃からおれに、雑誌に載っていた男性美容師の活躍ぶりを読んで聞かせてくれて、『美容師はええやろ、おまえも一流の美容師になりまいよ。そしたら女優さんの髪にも触れるで』って、しょっちゅう洗脳され続けたんだよ。それでおれも、美容師ってそんなにいいものかな、って思ったわけ」
 母の口振りを再現したりが面白かったのか、動機が単純で可笑しかったのか、美鈴は愉快げに笑い声を上げた。
 そう、笑い話でいいんだ、と麻生も笑ってみせた。

 借家の猫の額ほどの店で、朝早くから晩遅くまで働いていた母の苦労話など、他人に教えることではない。まして父がいなかったことや、しかも父が何処のだれかさえ、いまだに知らないことに触れる必要はなかった。
 そんな父のことに母は一切触れなかった。だが胸の底ではかなり意識していたのだろう。
「あんたが立派に生きている証を世の中に示すんや。有名な美容師になるゆうことは、自分の生きざまを世の人に認めてもらうゆうことなんや」
 謙虚な母が、いつも話の最後は妙に力をこめて締めくくった。
 いまとなれば父に対する意地だったとわかる。
「お母さんは麻生ちゃんが生まれたときから美容師にさせたかったんだ。だから『美行』って名前をつけたのね。本当の読み方は、『みゆき』なの『よしゆき』なの?」
「本当か、本当はね……」
 過去が麻生の脳裏を何度も駆け抜けた。引きずり込まれそうになるのを振り払い、きっぱりと答えた。
「みゆきだよ」
「アソウ・ミユキさんが美容師からヘアメークに変わった理由には、女優やタレントの髪に触りたいって魂胆があったのね」
「そうじゃないよ。おれの仕事は、いや、追求してるものっていい直した方がいいな、大切なことだからこれだけは説明しとくよ」
 麻生は地方の美容学校を卒業すると、すぐに上京したことから切り出した。
 都内の美容室で六年間働いた。その間、働き先の美容室を四軒替えた。新聞広告で探した新しい職場に移るたびに、その店の経営者から、一所の美容室で修業することが大事だと説教された。
    それからどの経営者も、自分の店がどんなに優れているかを必ず付け加えた。経営者がどんな言葉でうまく取り繕っても、詭弁はすぐにボロを出し、麻生の希望に叶う店はなかった。
 どの美容室にも『創造』という仕事が欠けていたのだ。

 麻生が美容師を志した最大の要因は、『美を創造してゆく』という仕事にあこがれたからだ。満足のゆく仕事をするためには、客とのコミュニケーションが大切だった。それが『創造』という仕事の第一歩だからだ。それなのに美容室へくる客は、時間を急ぎ、スタイルの注文は流行のパターンだけに左右されていた。雑誌に載っているヘアスタイルが素敵だと思ったら、髪の素材やモデルとの容姿の違いなどは関係なく、そのスタイルを真似ようとした。自分の持っている個性を、より美しく磨こうという意識のある客は見当たらなかった。

 美容室側も、美容師が芸術性を追求する努力よりも、利益を上げるほうに重点を置いていた。ヘアスタイルを『創る』という、もっとも魅力あるやりがいをおざなりにして、『作る』という機械的な作業に終始していた。
 美容師がそんなこだわりを持つと、美容室を捨てて、マスメディアに携わるヘアメークを選ぶよりほかに道はなくなってしまう。早くからそう考えるようになっていた麻生にとって、美容室で働くのはフリーのヘアメークになるためのステップでしかなかった。
 美容室が美容師の夢を平気で砕くのなら、麻生は美容室を利用することにした。
    先輩の技術を盗み、モデルウイッグで練習した技術を――代金を払ってくれる客には悪いが――客の頭で試してみた。日本人の黒髪に慣れると、今度は幅広い創作活動を念頭において、ブロンドの髪質を自由自在に扱えるようにするために、外人客の多い美容室へ鞍替えした。もちろんそれに付随して英会話の勉強もはじめた。

 最近ではフリーのヘアメークを志す美容師が増えているが、麻生は、流行やカッコよさだけで転向したのではない。あくまでも美容の仕事の本質を追及したかったのである。
 そこまで説明したあとで、麻生は、自分の屁理屈を図々しく聞き手に押し付けていたと気づいた。
「ごめんな、話がしつこくなって。信念のことになるとこうなんだ。退屈だったろ」
「ちっとも。興味深い話だったわ。わたし、麻生ちゃんを見習わなきゃね」
「おれを見習うって……、自分勝手な要領のよさをかい」
「ちがうわ。いい仕事をしようというこだわりよ」
「あまり買い被るなよ。口先だけだぞおれは」
「そんなことない」
 美鈴は麻生の瞳の奥を見抜こうと、強い視線を放っていた。
「仕事の話はやめにしよう。ところで美鈴ちゃん、海は好きかい?」
「ええ、急にどうして」
「時間の都合がついたら、伊豆の海へダイビングにでも誘おうかと思って」
「ほんとに、連れてって。きっとよ、約束よ」
 麻生はしっかりとうなずいた。
    一旦交わした約束は絶対守る。自分の信条から、絶対に欠かすことのできないものだった
 
      6
 
 その日の仕事を終えた麻生美行は、目に付いたカウンターだけのラーメン屋に飛び込んだ。
 昼食時にサンドウィッチ二切れとコーヒーを口にしただけで、朝から夜七時まで働きづめだった。空腹と気疲れで胃がキリキリと痛んでいた。八時には広告会社のアートディレクターとホテルのロビィで会う約束があるので、それまでにとにかく腹を満たしておきたかった。
    次に会うアートディレクーの顔が浮かんだ。仕事の打ち合わせは、会社ではなく飲み屋でする主義の男だった。アルコールの量が増えると次から次にとアイアが浮かんでくるという体質を持っているらしく、打ち合わせ相手を必ず飲み屋に誘う。今夜もホテルのロビィで会って、すぐに飲み屋に直行するのはわかっていた。

 麻生は麺がゆであがる間に自分の部屋に電話をして、留守番電話にメッセージが入っているかどうかを確かめることにした。
    ごく親しい人にはスマートフォンでのやり取りをするが、それ以外は自宅の固定電話を使っている。
    スマートフォンで部屋の電話を操作すると、留守番電話に録音されている声が再生された。
《ヘアメニュー編集の佐藤です。ポジが上がりましたので、明日にでも時間があれば、社にきてチェックしてください》
《お部屋のリニューアル、スマイルハウスです。またかけ直します》
《中野です。四国の中野です。帰ったら至急連絡をしてください待っとります》
 録音されているメッセージは三件だった。
 ラーメンが出来上ってきたので、湯気が立っている器の中の麺と具を掻き混ぜながら、頭のなかでメッセージの内容を反復した。
 佐藤からの用件は明日会社に電話をすればいい。美鈴の口調はふざけていたし、それに制限された時刻はとうに過ぎているので、このままにするしかないだろう。
 最後のメッセージだけは気になった。四国の中野と駄目押していわなくても、真梨の父親だとすぐにわかった。声を忘れるはずがない。子供のころからの恩人だし、恋人の父親なのだから。それにしても今日の声はいやに沈んでいたような気がする。
 麻生はラーメンをひとすすりした。胃に落ちてゆく麺をなにかが下から突き上げた。胸がつかえる。空っぽの胃が食べ物を拒否しているのだろうか。いや、そうではない――。
 考えてみれば、真梨の父親が麻生に電話をかけてきたことなど、今までに一度もなかった。しかも急用らしい。それに言葉の隙間に重苦しい気配が流れていたのは、いったいどういうことだ?
 麻生の胸騒ぎは大きくなった。忙しく働き、仕事が順調に進んでいるときに、ふと襲ってくる不安感に似ていた。
    気になるとラーメンどころではない。一刻も早く電話をかけたい衝動にかられた。しかもこの場から電話する用件ではなさそうな気配を感じている。
 麻生は麺を残したまま店を出た。通りを足早に歩きながら雑音の少ない場所を探した。
 プラタナスの木陰で、麻生はスマートフォンの登録番号を呼び起こし、せわしなくボタンを押した。
    ひどくのろまに感じられる呼び出し音が麻生の耳に響く。
    五度目の呼出音が鳴る直前に、接続音が聞こえた。
 麻生は性急にいった。「もしもし、おじさん」
 相手が待っていたかのように答えた。
「ああ、みっちゃんやな、待っちょったんや」
 留守番電話に録音されていた声だった。
「ご無沙汰しています。みなさん、お変わりございませんか」
「••••••」
 麻生の問いかけに返事はない。
 受話口から重くて暗い闇がはびこってきた。
「電話をするようにということだったので、遅くなりました」
 相手の返答を待った。
    電話回線の彼方から、聞き取れないくらいの小さな声が流れてきた。
    麻生は音量を最大にして、一方の手で左耳をふさいだ。
「もしもし、叔父さん、どうかしたんですか」
 大きな声を出していた。横を通りすぎる女性が驚いた顔で麻生を見ながら通りすぎる。
「――真梨が、死んだんや」
 言葉の後が嗚咽に変わった。
「えっ、いまなんていったんです?」
 嗚咽の間から絞り出すように父親がいった。
「真梨が、自殺、したんや」
「まさか……」
 動転した心を騙すように、麻生は精一杯の軽口を叩いてみた。
「すごく真に迫ってますよ、叔父さん。でもかつぐのはもう終りにして、はっきり冗談だといってください。真梨さんが帰国したんでしょう、だからみんなでおれを驚かそうとして、演技してるんでしょう、そうでしょう?」
 言葉の内容とは裏腹に、麻生の声は震えていた。

 一流のフラメンコダンサーになるために、家族や恋人から離れてまで、スペインへ単身留学するほどの強い意志を持ったあの娘が、自殺したなんて……、信じろというほうがおかしい。
 笑い飛ばしたかった。が、胸から込み上げてきたものが喉につまり、雑踏の街が滲んだ。
「ほんとうに、真梨さんが死んだのですか……」
 相手の返事はすすり泣きだった。
 スマートフォンを耳に当てたまま、麻生はぼう然とたたずんだ。
 悲哀感が怒涛となって押し寄せてくる。
 五百三十キロの彼方から聞こえてくる叔父さんの嗚咽が、『みっちゃん』と呼ばれた男の頭にガンガン響いた。
 
 
      7
 
 警察庁国際部の電話が鳴った。電話を取った二課の木戸は、交換手から手短に説明を聞いたのちに、その外線電話を課長の曽我秀典へ回した。
「お待たせいたしました、曽我ですが」
「先日電話を差し上げました、麻生というものです」
「ああ、ちょっと待ってください」
 曽我は顔を曇らせていた。電話をかけてきた相手は、マドリードで自殺したフラメンコダンサーの事件を、もう一度調べ直してほしいと再三訴えてきていたのだ。あまりのしつこさに負けて、曽我は相手の要求をのんだ格好で、その事件の調書をスペインの日本大使館を通して、マドリート警察から取り寄せてみたのだった。

 報告書を手にした曽我は、改めて話をはじめた。
「手元にマドリード警察の調書があるのですが、それには自殺した女性の遺書があり、死ぬのに使用したスカーフは本人のものだった、と記載されていますね。確か、遺書は遺品とともに親元へ渡っているはずですが……、それについて、あなたはご存じないのですか」
 最初の電話で、麻生と名乗る男は、死亡者と親しい間柄だと説明していた。
「だから、その遺書がおかしいのです」
「おかしい? どういう根拠でそう断言なさるのか、一応聞かせてもらいましょうか」
「それは、遺書がスペイン語で書かれていた、ということなんです。いいですか刑事さん、死んだのは、れっきとした日本人なんですよ。それなら家族に残す遺書は、日本語で書くのが当然でしょう」
 曽我の職名は警察庁国際部二課長であり、警察官でも、俗にいう刑事とは違った。それでもここでそんなことを訂正する必要はないだろうと思い、曽我は応答を続けた。
「なるほど、ごもっともな意見だ。しかし向こうの警察だって、遺書の裏付けはしてありますからね」
    遺書の筆跡を本人のものだと証言している人の名前がある。死亡者の部屋には、スペイン語を勉強した同じ筆跡のノートが残っていた。
「となると、外国で生活していて、彼の地で死を選んだときには、現地の言葉を使ったって不思議じゃないでしょう。遺書を真っ先に見るのは現地の人ですからねぇ」
「しかし両親へ宛てた遺書ですよ。あなたならスペイン語の解らない日本の親へ、もそんなことをしますか。それに署名だってなかったんだ!」
「そう突っかかれましても、わたしには手元にあるマドリード警察の調書をもとにした返答しかできませんね。こちらの国際部というところは、国際的な刑事犯罪の防止や、解決に役立てる目的の協力体制をとる部署でして、つまりあなたが考えているような、現場で犯人を追う警察官がいるところではないのですよ。だからわたしも世間一般にいう刑事とは違うし、職務も違います」
「警察の機構はどうだっていい、現にあなたはこの事件の報告書を手にしているじゃありませんか。ぼくは日本の警察の力で、もう一度再調査してほしいとお願いしてるんです。あなたがその手続きをしてくれればいいんだ。それに自殺自殺と簡単に片付けようとするが、死んだ中野真梨は意志の強い女だったんですよ。自殺するような弱い人間じゃありません。それに死ぬ理由なんてなかったはずだ」
「あなたの気持ちはお察しできますが、自殺した方たちの近親者は、みなさん同じようなことを主張します。しかし、死んでゆく人間の心理は、残された者にはとうていわからない複雑なものがあるんじゃないですか。周囲の人たちが、死んでゆく人の心を深く理解していたら、自殺件数は減るんですがね――」
「ぼくのいっていることをまともに取り上げてはくれないんですか! どうしてわかってもらえないんだ。お願いします、もう一度調査してください、お願いします」
 男の声は、怒りを含んだり、哀願を湛えたりした。
「あなたの申し出は承っておくことにします」
「再調査してくれるんですね?」
「そこまでは断言できません。いまはあなたのおっしゃることを承っておくとしか答えられませんな」
 曽我のはっきりとした口調は、相手を幾分かは納得させ、いや興奮する気持ちをを抑えただけだったかもしれないが、とにかく相手から電話を切らせた。

 曽我は受話器を置くと、交わした言葉の余韻で書類に再度目を通しはじめた。
    通り一ぺんの報告書で、書面からは電話してきた男が疑っているような真相は伝わってこない。事件を調査したのが異国のマドリード警察だけに、直接、担当官に話を聞いてみることができない困難さもある。互いの国の警察を信頼するしかないな、と思いながら読み進めていたとき、曽我の視線は、死亡者の踊り子名で一旦戸惑い、さらに本籍地名で完全に止まった。
 香川県大川郡白鳥町◯◯番地。
 〈白鳥〉。曽我の頭は過去に向かって急速な勢いで回転した。遠いむかしに、美しい町名だと感じた記憶がある。

 記憶は三十年の歳月を一気に遡った。愛していた女から届いた、
たった一通だけの手紙。和紙の封筒の裏に記された住所。
 『幸福に暮らしています』という文章以外は風化してしまっているが、町名だけは脳の襞にしっかりと刻まれていた。
 手にしている調書に何回か目を通しているのに、マドリードで起きた事件の内容ばかりに気を取られてしまっていて、死者の本籍のところは目が滑っていたのだろうか。
 曽我は焦点の定まらない目を書類に向けていた。
 そんな様子を不思議がった木戸が声をかけた。
「どうかしましたか」
「なんでもないよ、この事件を再調査してくれということだ」
 曽我は書類を軽く持ち上げ、胸のうちをすり替えた。
「なにか不審な点でも?」
「自殺する動機がないということだよ」
「それだけのことですか。まあ、遺族にしてみりゃ、やり切れないんでしょうね」
「うん。だがな、確かに疑問点がないわけじゃないんだよ」
 胸中でくすぶる過去の忸怩が、いつの間にか電話してきた男に共鳴していた。
 曽我は報告書を木戸に手渡しながら、スペイン語で書かれていという遺書の説明をした。
「そりゃあ、署名がないというのは確かに変ですが、ここに《筆跡鑑定の結果》とあるんですから、遺書を書いたのは本人に間違いないでしょう。身内の心情だけで、マドリード警察の調書を否定するわけにはゆきませんからね。自殺者の精神構造は複雑になっているはずですから、常識を逸することだってありますよ」
 木戸は事務的にそういった。
「まあこっちでも、その遺書を検討してみようじゃないか。悪いが、遺書の現物をこちらに送ってもらうように、両親に連絡してくれないか」
 わかりましたと答えて、木戸は自分の机に戻ってゆく。
 会議の時刻が迫っていた曽我は、国内で起こったサリン殺人事件の実行犯が海外逃亡をした可能性があるという点について検討することに頭を切り替えた。
 
      8
 
 新宿歌舞伎町の喧騒は深夜になっても静まることを知らず、派手な色どりのネオンサインはほかのどの店よりも目立とうと、けばけばしさを競いあっていた。
    その明かりに吸い寄せられるように、身を蝕まれている人間たちが、荒んだ境遇から逃れるように集まってくる。
 麻生美行もこの街の雑踏に身を浸すひとりだった。酒に酔い、あてもなくうろつき、ピンクキャバレーの呼び込みの声や、ギラついた眼光を放つ外国人の間を、毎夜彷徨っていた。
 今夜も客引きが声をかけてきた。
「いい娘がいますよ、どうです、ちょっとだけ寄っていきませんか。五千円、五千円ポッキリ、サービスしますよ」
 麻生は顔を背けたまま、無視して通り過ぎようとした。
 客引きが擦り寄ってきて、しつこく引き止めようとする。
「お兄さん、絶対間違いなく楽しめますから、のぞいてってくださいよ。若い娘ばかりで、おさわり自由。五千円だけ、ね、いいでしょう」
 客引きの誘いを振り払おうと麻生は口を開いた。
「あとでな」
「ほんとですか。それじゃお待ちしてますよ」
 麻生は歩きながら、いい加減にうなずく素振りをした。
 客引きがしかたなさそうに足を止めた。それでもまだ諦め切れないのか、麻生の背後から声を浴びせた。
「必ず戻ってきてくださいよ、お待ちしていますからね、約束しましたよ。顔、覚えましたからね」
 くどい駄目押しの言葉が、麻生の神経にグサリと刺さった。
 麻生は立ち止り、振り返った。勘違いした客引きが餌にかかった獲物を捕獲しようと、狡猾な内心をニヤけた面でごまかして歩み寄ってくる。
 麻生は相手の目を見据えておいてからいった。
「いまなんていったんだ? もう一度いってみろ。おれは約束なんかしてないぞ!」
 客引きが麻生の剣幕にたじろく。
 麻生の全身を縦横無尽に駆け巡っていたアルコールの酔いが、相手の『約束』という一言で、沸騰してしまった。
「約束ってのはな、命を賭けて守るものなんだぞ! そんなに簡単に口にするもんじゃないんだ」
 麻生の瞳では激烈な炎が燃え上がっている。
 唖然となって麻生を見ていた客引きは、逃げ腰になってから、
「けっ、なにほざいてんだ」
 と捨て科白を残して遠ざかった。

 怒りをぶつける相手を失い、我に返った麻生は、客引きがいったように、一体おれはなにを息巻いているんだろうと、ほぞを噛んだ。
(約束にまだこだわっているのか。もういいじゃないか。約束ってやつは、どれも過去の出来事なのだから――)
 そう自分に諭しても、躰の芯がどうしても納得しない。
 スペイン留学することが決まった中野真梨と交わした約束が、いまでも悲嘆の源となる。
《どんなに離れていても、ふたりが交換した宝物を大切にして、頑張ろう。どっちの宝物が先に輝くか競争しよう》
 あれほどまでに強い誓いを交わしておきながら、中野真梨は一方的に自分の手で、約束を破った。

 真梨の父親から彼女の死を知らされたときには、すべてが信じられなかった。負けず嫌いで、挫折することを極端に嫌った彼女が、志し半ばで自殺するはずがない。なにかの間違いだと、麻生は事実を頑なに拒否した。
 だが、真梨が遺体で日本に帰ったときには、麻生のかすかな期待は打ち砕かれてしまった。
 恋人が愛用していたというカスタネットが麻生への遺品になった。使い古されたカスタネットの表面の色は剥げ落ち、指を通すゴム輪はほぐれかかり、ぶつかりあう面は摩耗していた。

 あの日以来、麻生は希望を失った。落胆だけならよかったが、いまでは奈落の底への坂を急速で転げ落ちている。
 人通りの少なくなった花園神社付近にさしかかったとき、萎たれて歩いていた麻生は、道の角から飛び出してきた黒い影に体当たりされ、躰ごと吹っ飛ばされた。
 ぶつかった衝撃で黒い影も道端に転げた。
 バカヤロー! 怒鳴り声を発した影は黒い革ジャンパーの男だった。油でリーゼントに固めた髪型と、まだ成熟しきっていない顔の造作は二十歳そこらのものだった。男は膝を地面に付いたまま、手から離れたバッグを拾おうと、四つん這で動いた。
 そのとき角から、もうひとりの男が走って現れた。今度は小柄で背広を着ている。
 現れた男は目のまえで起こっていた光景をとらえると、勢いよく革ジャンに躰を持っていった。背広が革ジャンに激突し、ふたりは重なって地面に転げた。
 麻生は立ち上がりながら、突然の出来事を眺めていた。
 体当たりしていった背広が優勢な状態で、相手の油で固めた髪をわしづかみにして頭突をくらわした。意気がったリーゼントを崩され、顔面に頭突をくらった革ジャンは、顔を歪め大きく後ろにのけ反った。相手を倒した格好になった背広は、あっさりと敵から離れて、当り前のようにバッグを拾い、自然な手つきで中を改めようとした。
    バッグを手にして油断したのか、背広の男は打ちのめした敵に対して無防備になっていた。
 立ち上がった革ジャンはポケットからナイフを取り出し、鋭い刃を背広に向けた。
 危ない! 麻生が叫んだ。背広の男が反応するより、ナイフの刃が男のふくよかな頬を横に切り裂くほうが早かった。鮮血が散った。グレイの背広と白いYシャツの首筋を赤い飛沫が染めた。獰猛な野獣のように変貌した革ジャンが、ふた振り目のナイフを素早く構えた。

    野獣が踏み込もうとするまえに、麻生が背広の前に飛び出していた。ナイフは標的を変え、麻生を威嚇した。麻生に恐怖心はなかった。
(大切に守らなければならないものは、なにもない)
 心の奥の声が麻生の全身を支配していた。
 刃先がじりじりと迫ってくる。麻生は動かない。ナイフが襲ってきた。それを払った左手に激痛が起こった。もう一度鋭い刃が飛び込んでくる。今度は身をかわして、右足で相手の腕を蹴り上げた。ナイフが宙に舞った。武器を失った野獣は急に気弱なガキの顔を現し、踵を返して逃げ去った。
 頬を切り裂かれた男が、麻生の左手の傷を見ながら、何度も頭を下げた。男は自分が喋るイントネーションの不安定な日本語がじれったいように、言葉より大袈裟な身振りで感謝を表した。
 遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。回りにはやじ馬が集まっている。麻生は頭を下げ続ける男を振り払うようにして、足早にその場を去った。
 代々木の古いマンションまで歩いて戻ったときには、左手を縛っていたハンケチが真っ赤に染まっていた。
    部屋に入り、きつく縛っていたハンケチを外してみると、どうやら血は止まっているようだった。ゆっくりと掌を開閉してみた。ズキッとした痛みが走り、顔をしかめたが、左手の動きに支障はないようだ。しかし一文字に切り裂かれた傷口から、また血が溢れだした。さっきまで止まっていたのだから、血の量ほど傷口は深くないはずだ。
 麻生は救急箱から万能軟膏と包帯を取り出して、応急手当をした。
    あとは怒りも興奮も感じないまま、ベッドに横になっていた。
 むかしの麻生なら、刃物を振り回して手を傷つけた相手を、立ち上がれないほど叩きのめしたはずだ。学生時代の喧嘩では、片親と貧しさのうっぷんを晴らすように、徹底的に相手を痛めつけた。それが今夜は、悪さえも逃した。
 麻生は目を閉じて、独り呟いた。
「こんな傷なんてどうってことはない。警察のあの返事に比べれば」
 対応した国際部二課の曽我という課長は、数度に渡るこちらの願いをまともに取り上げてはくれなかった。
 あいつは事務的にこういっただけだ。
「あなたがおっしゃるように、遺書の件についてもう一度再考してみようと思って、四国の遺族に連絡をしたのですが、遺書は焼却してしまって、もう残ってないということです。つまり筆跡鑑定を改めてするということは、無理な状況になっております。マドリード警察にコピィでも残っていればいいんですが、期待できません。それとひとつ問題なのは、あなたと中野さんとでは、考えていることが違います。中野さんがいうには、娘さんの死因が自殺でないとすると、あくまでも例えばですが、他殺ということになりますが、『娘が他人様に殺されるような、恨みを持たれることなどない』とのことです。つまりご両親は、自殺だと認めて、このままそっとしておいてほしいと、いうことのようです。あなたには不服かもしれないが、現地の警察が調査した結果だし、この結論はくつがえしようがない」
    曽我は一瞬黙り込んだ後で、力のある言葉を出した。
「最後にお伺いしますが、あなたもやはり、香川の白鳥の出身ですか」
 出身地がどうだっていうんだ。麻生は相手のとぼけた問い掛けを無視して電話を切った。

 死んでしまった人間のことは時間が忘れさせてくれるかもしれない。心の痛手だって、この手の傷のように時間が癒してくれるだろう。しかし腑に落ちないことをどうやって処理すればいいんだ。
    世の中の法則に従うなら、自分で自分の思考力を殺さなくては処理できないだろう。つまりは生きながら死んでいるということだ。
 麻生はいくら考えても、今夜の暴漢よりも正義の側に立つ警察機構に怒りを覚えた。

 玄関のチャイムが鳴ったが、麻生は起きて出てゆく気にもなれなかった。
 勝手に上がり込んできたのは美鈴だった。
「いるんだったら、返事くらいしてよね」
 黙ったままの部屋の主に、無断で入ってきた弁解も加えた。
「訪問者を遮断するのなら、窓からこぼれる明かりを消して、玄関ドアにロックしておくことね」
「入ってくるやつはだれだろうと、拒みはしないし、歓迎もしない。好きなように入ってきて、勝手に出てゆけばいい。欲しいものがあれば、なんだってもってゆけばいいさ」
 麻生は美鈴にわからないように、左手の包帯を脇腹の陰に隠した。
「ちょっとぉ、変なこといわないでよ。それじゃまるでわたしが泥棒みたいじゃない。フンだ、また今夜も飲んで、いい気なものね。仕事はここのところずっとキャンセルのしどうしで、結構なご身分だこと」
「説教してるのか、心配してるのか、どっちなんだ。説教なら聞きたくない、心配なら無用だ」
「そうなの、それじゃ帰るわ。でもせっかくこうして、仕事が済んだら飛んできてあげたのだから、もう少しいわせてもらうわよ」
「聞いてもらえないのを承知でなら、演説しな」
 麻生は躰をひるがえして美鈴に背を向けた。
「ええ、するわ」
 美鈴はひと呼吸ついてからまくしはじめた。
「麻生ちゃんの哀しみや苦しさは痛いほどわかる。でもね、わたしはいまのあなたの姿が大嫌いなの。なによ、いつまでもクヨクヨして……。過去を背負って生きてゆくのは、あなたの自由だわ。だけどいまのあなたのように、堕落しはじめた人が、亡くなった人を追悼できるの――。最初は麻生ちゃんに愛された女性が羨ましいと思ってたけど、いまではその人が哀れでしかたがないわ」
    麻生の背中が一瞬だけ微かに震えた。
    美鈴はさらにまくしたてた。
「仕事もせずに毎晩飲んでばかりいて、おまけに周りの人たちを心配させて……、その隠した手の包帯がいい証拠じゃない。酒と喧嘩で現実から逃避しょうとするなんて、卑怯よ。甘えるのもいい加減にしてよね。過去を大切にするのなら、いまをもっと大事にしてよ。でないと、女を愛する資格なんてないわ。――麻生ちゃん、これだけは覚えておいて。あなたの打ちのめされた姿を見て、傷つく人間だっているのよ。それから――、未来にはね、過去よりも、もっともっと沢山の思い出の素が待っているということにも気付いて」
 涙声になった美鈴が、手に提げているピザの紙箱を置いてゆこうかどうか迷っている。
 重苦しい空気が部屋に充満していた。麻生の背中は寂しさの石膏で固められたかのように動かなかった。

 そんな雰囲気を裂くようにチャイムが鳴った。ふたりは微動だにしない。チャイムがまた鳴る。
「だれかきてるわよ、出てゆかないの?」
「親しいやつなら勝手に上がってくるさ。そんな図々しいやつは、きみ以外にいないけどね。上がってこれないやつは、放っとけば帰るさ」
 背中越しに答える麻生の口調は、強がる科白に反比例するほど弱々しかった。
 一定の間隔で鳴るチャイムに美鈴が落ち着かない。
「気になるんなら、帰るついでに見てきてくれよ」
 美鈴はバッグとピザの紙箱を置いてから玄関に向かった。
 すぐに引き返してきた美鈴がいった。
「李さんという中国の方よ、早くきて」「リ?」
 麻生が玄関の外に出ると、黒ずみはじめた血痕を服につけた男が、果物籠を抱えて立っていた。
 麻生は男の頬を見た。男は麻生の左手に視線を向けた。ふたりは互いにニャッと笑った。
「どうしてここが」麻生が訊く。
「お礼がしたくて、ずっと後を付いてきました」
「礼なら、あの場で聞いたはずだ」
 男は、今度は側にいる美鈴に向けていった。
「新宿でわたしのバッグが奪われたのを、この方が取り戻してくれました。そのうえナイフで襲われたのも助けてくれました。バッグには大事なものや、お金沢山ありましたし、ナイフ危険です。バッグをなくしても、ナイフで襲われても、わたしの人生は破滅です。命の恩人なのに、この人、名前を聞く前に消えようとする。見失ったら、わたし困ります。だから家を確かめるのが一番大切だと思って、付いてきました。ここがわかってから、急いでこれ買ってきました」
 説明を聞いた美鈴は、哀しみと不機嫌さを混じらせていた感情を、ひとまず置く場所に困った。

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