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誰よりも自分の文章が好きな所以

「あなたがぽんと出す言葉がすごく不快なときがある」「あなた自身の価値を下げる言葉を使っているからやめた方がいい」会社の先輩からの言葉である。

確かに私は、文語とは異なり口語だと汚い言葉を発していると思う。人に対して苛立つことがあればすぐに「死ね」「糞」なんて言葉が口から飛び出す。とはいえ、会社の先輩の前ではそんな言葉を使っている気は全くしていない。無自覚故に恐怖である。

同時に、本当に申し訳ない上に僻みでしかない気もするがこう思う。
「こういうことを言う人は、そんな言葉を浴びせられない豊かな人生を歩んできたのだろうな」

そういうことを言える人はきっと、学生時代男子にトイレに連れ込まれたり、死ねと言われながら暴力を振るわれたり、そのあといやらしい目をして「セックスしよう」と言われたり、友人との交換日記を盗み殺しに行くと書き込まれたり、配布物を汚く丸めて渡されたりしなかったんだろうな。運動会で一番後ろを走って全校生徒から憐みを込めた拍手をされたりしなかったんだろうな。部活仲間から迷惑がられたり、お前のせいで負けたと言われたりしなかったんだろうな。親からうるさいと暴力を振るわれたり、泥酔した状態で身体をいやらしく触られたり、死にたいと話した際にだったら死ねと言われたりしなかったんだろうな。そう、思ってしまう。

汚い言葉や行動が私に向かう経験が豊富なせいで、気づけば私の心は捻じ曲げられてしまった。死ねと言われたらお前が死ねと思ってしまう。しかし表面上だけは笑ってしまう。そういう言葉や態度、行動を悦ぶ、マゾヒズムであるかのように。

恐らく私は、他者からあまりにも虐げられたせいで、自己を肯定する気持ちを有していないのだろう。だからこそ、他者と深い関係になると途端に依存し、見返りを求め「好き」という言葉を用いるのだろう。自分が本来、自身を好きでいる分も、親に注がれるべき愛情も全て、相手に委ねようとしてしまうのだろう。

しかし、そういった経験は、他者に対する同情や優しさを注ぐ気持ちや、どういうことをすれば相手を喜ばせられるかを常に考える気持ち、に結びついているとも思う。現に今、私は他者から虐げられることなく生きている。私が少しでも困った様子を示すとすぐに声をかけてくれる先輩だっている。誕生日を祝ってくれる素敵な仲間がいる。「あなたには相談しやすい」と頼ってくれる後輩がいる。「あなたの丁寧な接客が好き」と言ってくれるお客様だっている。

そして何よりも、誰よりも自分の文章が綺麗で透き通っていたいと、否、その通りであると確信して文を紡ぐ自分がいる。だからこうして文語に頼る。依存する。文語、および活字は、依存すればするほど私を良いものにしてくれるから。自分の文章に酔いしれているのであれば、まだ完全には自分のことを嫌いではないと確信できるから。

昨日、23歳になった。誕生日前日は友人の家に泊まり、予約してくれたケーキを食べた。当日は憧れのお店にディナーを予約し、これまた別の友人と嗜んだ。たくさんの「おめでとう」「ありがとう」が私のかまぼこのような形をした液晶画面に溢れていた。綺麗な言葉が溢れていた。

昔はさておき今を顧みると、たくさんの綺麗な言葉で満ち満ちている。そう思うと、口語の改善も試みようとも、より一層文語を極めたいとも思う。儚さと強さを併せ持った自分を慈しみたいとも。

最後に、23歳2日目、ひとつの大きな決意を表明したい。
「23歳のうちに小説を執筆し、出版社に投稿する」

私の文章を好きになって、お金まで払ってくださる人がいましたら幸福です。