記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

「異人たち:All of us Strangers」ラスト考察:愛の力で魂の浄化

観たいと思っていたアンドリュー・ヘイAndrew Haigh監督の新作「異人たち(原題:All of us strangers)」を観ました。

*邦題は「異人たち」だけですが、敢えて「異人たち:All of us strangers」と書きます。理由は記事を読んで頂けるとわかるのですが、このタイトルが非常に意味があると思うからです。

あらすじ
夜になると人の気配が遠のく、ロンドンのタワーマンションに一人暮らす脚本家アダムは、偶然同じマンションの謎めいた住人、ハリーの訪問で、ありふれた日常に変化が訪れる。ハリーとの関係が深まるにつれて、アダムは遠い子供の頃の世界に引き戻され、30年前に死別した両親が、そのままの姿で目の前に現れる。想像もしなかった再会に固く閉ざしていた心が解きほぐされていくのを感じるのだったが、その先には思いもしない世界が広がっていた…

公式サイトより

関連動画のコメントや掲示板など、海外では凄く評判がイイ。アカデミー賞にノミネートされなかったのは犯罪級の過ちだと言う人もいるほど。(アカデミー賞にはほぼノミネート無し。本国の英国アカデミー賞でもノミネート止まり)しかしRotton Tomatoでは評論家評で96%、一般評で91%とかなり高い。

で、私が観た感想はというと…
本当に良かった!!最初はキャストが今ひとつそそられなかった自分がいたたのですが、鑑賞後は全く考えが変わるほど。大きな賞の受賞はないけど、後々まで語り継がれる作品になってもおかしくない。

いつもは最後にもってくる私的☆評価、今回は最初に持ってくると
星☆9.5!!
(0.5の減点理由は最後に書くとします)

海外掲示板に書かれていた表現を使わせてもらうと、
幽霊を扱った作品だけに、鑑賞後しばらくの間この作品にHaunted憑りつかれたようになってしまうぐらいのパワーがある、そんな作品。

本当にいろいろ書きたいことがあるのですが、文才も構成力もないので、あいかわらずまとまりのない文章になりますが、気付いたことや、調べて知ったこと、感想などいろいろ書いていきますのでお付き合い頂ければ幸いです。

ラストの考察だけに興味ある方は目次から飛んでください。



原作と1988年版映画「異人たちとの夏」

原作はドラマ「ふぞろいの林檎たち」で有名な脚本家・山田太一の小説「異人たちとの夏」(1987)。新潮社によって設立された山本周五郎賞の第1回受賞作品。

日本でも大林宣彦監督で1988年に映画化されています。
主演は風間杜夫。両親役に片岡鶴太郎と秋吉久美子。謎の女性ケイに名取裕子。

今回、この作品も見比べるために何十年ぶりかに観てみました。殆ど憶えていなかったので。その後、原作も読んでみました。

この映画、概ね原作に忠実に作られていた気がします。一番の改変部分は映画のラスト。名取さん演じるケイと対峙する場面。製作の松竹からもゾンビ映画を作って欲しい的なオファーだったそうで、原作よりかなりオーバーなホラー映画テイストを強めた感じになっていました。

一方の今作「異人たち:All of us strangers」は舞台がロンドンで、主人公とその恋愛相手がゲイという改変がなされています。
ヘイ監督が、ケイという役をゲイに改変…ややこしいですがついてきてくださいね!!w ヘイ監督は、まず本がプロデユーサーから送られてきて、日本版の映画を観たのは随分後になってから。日本版の内容は興味深い。とても(自分のものとは)違うものだけど…とのこと)

あと「異人たちとの夏」はタイトルにある通り”夏”が舞台、お盆もあって幽霊が出てきそうな季節の設定。さらには「牡丹燈籠」をオマージュしているような部分もある(幽霊に憑りつかれて生気を吸い取られる)。この辺りはとても日本的な文脈なので「異人たち:All of us strangers」では採用されていない。

昨今話題の原作改変ですが、この作品においては原作者山田太一氏の了承は得ていた模様。コチラの記事にその辺りの詳細が書かれていました。
なので「原作にないゲイ要素入れるなんて!」なんていういちゃもんを原作者の代わりに声高に語るのはナンセンス(他人をだしにして主張するのはダサいですよね)。

ヘイ監督がインタビューで語っていたところでは、完成作を山田氏に病室で見て貰えたと言ってました。(その段階で字幕とかは付いていたのかな?)
ただ山田氏が亡くなる直前(2023年11月29日没)で、普段は病室で寝ていることが多いがこの映画を観ている時はちゃんと目を開けていた…らしいので、どれほどのしっかりした意識と意思疎通ができる状態だったのかはちょっと疑問ですけど…。でもお子さんたちが納得して満足しているようですし、その辺りは大丈夫そうです。

監督曰く、結局山田太一氏とは会えなかった。しかし彼とは作品を通じて繋がってる感覚を持てたと。

大林版「異人たちとの夏」もYT動画のコメント等を見ていると多くの根強いファンがいるようで評価が高い(ちなみに、この年の日本アカデミー賞の最優勝賞は「敦煌」。この作品は脚本賞助演男優賞を受賞)。

特に両親との再会、交流、そして別れ。既に親を亡くした人にはどうしても心に響く部分があるからでしょうね。映画のラストよりもその少し前の両親との別れのシーンこそが一番のクライマックスだという意見もありました。私も感情が一番揺さぶられる場面はやはりそこでした。(とはいえ両親の姿が段々消えていくという当時の映像技術の拙さが、現在の進んだ技術とどうしても比較してしまって微妙に興醒めしなくもない。とはいえ原作でもああいう感じの表現で書かれているので忠実ではあるんですけど…)

この作品で主人公の父親役を演じた片岡鶴太郎が数々の映画賞で助演男優賞を受賞。80年代、鶴ちゃんが出ていたドラマで記憶に残る「男女7人夏物語」1986年。その辺りから役者として本格的に進出していった印象。そしてこの作品(1988年)で役者としての地位を確立したって感じでしょうか?

ひょうきん族時代のポッチャリからこの作品では引き締まった体つきだったので、もうボクシングを始めた後なのかな?と思ったら、この作品の為に減量しての役作りだったというような記述がwikiにありました。大林監督が惚れこんでオファーしたものの、原作者の山田太一氏が「あんな太ったヤツの寿司は食えない(←役柄がすし職人)」と反対した。それを聞いた片岡は必死のトレーニングにより減量し、撮影に間に合わせた…と。

そのトレーニングの一環で始めたのがボクシングだったのでしょうね。そして映画公開の1988年にプロテストを受けるまでになるわけです(年齢制限を超えているのでテストだけは受けられるけど資格は得られなかったとかでしたっけ?当時結構ニュースにはなっていた記憶あり)。彼にとってはいろいろなターニングポイントになった作品。役柄もすし職人。現在、彼の息子さんが日本食の料理人になってテレビにも出てることを思うと、もしかしてこの時の役作りが影響してたりするんでしょうか?

今回見比べて思ったのは、「異人たちとの夏」はもの凄く日本的な映画で、これをそのまま海外で作ってもやはり伝わりにくくて難しいだろうなということ。

どういうところが日本的かというと、言葉より行動で心情を察しろ!感が強い。両親の幽霊と会う舞台も浅草で、江戸弁バリバリな江戸っ子の父親。「愛してるなんていちいち言わせんじゃねえよ。そんなもんなくったってわかんじゃねえか」というのがドーンとある感じ。
日本の忖度文化というか、以心伝心、ツーと言えばカー、打てば響く的なものこそがでお洒落っていう江戸っ子文化を理解していないと、ただただ両親たちは強引に主人公を振り回してるかのように見えなくもない(原作読んでる限りはそこまで感じなかった。映画の方は強引さが目立つ)。早逝して息子に何もしてあげられなかったことへの後悔が、強引に色々したがる理由だろうし、日本人特有の照れ隠しの表現でもある。その文脈がわかる日本人には伝わるだろうけど、それがわからないであろう海外では表現方法を変えるのは必須だったのだと思う。

逆に「異人たち:All of us strangers」では、母親と息子、父親と息子がしっかり向き合って語り合う。過去の傷、過去の後悔、この機会だからこそ本音でぶつかり合う。議論を重ねる文化と議論を避ける文化の違いがよく出ているな~と。私個人としては大事なことは「言わなきゃ伝わらない」と思う派なので、「異人たち:All of us strangers」のほうがガツンとセリフで頭殴られたような感情の揺さぶりを覚えました。

ただ日本的”粋”な表現にもイイ所はある。全て話さないことで余白が生まれる。そこに観客は色んな感情を乗せたり想像したり、幅があるので都合よく解釈できる。より自分事として作品世界に没入できる可能性がある。さらには、ここまで敢えて口にしなかったのに、最後の別れのシーンで「お前のことを大事に思っているよ」「お前ことが自慢だよ」と言う両親。溜めに溜めてきて、クライマックスで出てくるこれらの親からの愛&肯定感を与える言葉。それらの言葉の重みが何十倍にも感じられる演出だとも思えます。

あと両作品の違いで面白いなと思ったのは、「異人たちとの夏」では、風間杜夫演じる主人公が秋吉久美子演じる若くてきれいな母親に過剰なボディタッチや密接に寄り添ってこられて、明らかに”女性”を意識してドギマギしてる。母親を女として見ている、いわゆるエディプス・コンプレックスを感じる所。(小説ではビジュアルが無いからか、そこまで女を意識してる感はなかった)

一方の「異人たち:All of us strangers」では、母親が成長した息子の着替える半裸を見て、男を意識するというのではなくて自分の父親の裸を思い出すという流れ。主人公のアダムがゲイなので母親のことを性的に意識することはそもそも少ないとは思うものの、やはりこの改変は絶妙で私はこっちの方がいいなと思った。

今の時代、母親を女として見るとかはやっぱりちょっとキモイ。それも風間杜夫と秋吉久美子なんて組み合わせ、何か起りそうで洒落にならない(苦笑)。多分80年代ならまだ倒錯的な考えも芸術性と捉える風潮があったから何とも思わなかったんでしょうけど、今は自分の意識が変わってしまったんだなと強く意識することになったシーン。

「異人たち:All of us strangers」では、母親が息子の体が自分の父親と似てると感慨深く見つめる。これは血の繋がり、遺伝子レベルでの繋がりがもたらす不思議な愛しさ、親が子供に抱く”普遍的な愛おしさの根源”的なものを表現していたように思う。

私も、顔も全然似てなかった祖母と爪の形が誰よりもソックリだったと発見した時に妙に嬉しかったり、成長と共に現れてくる父親と似てる部分、母親と似てる部分、それらの血、遺伝子の不思議に感慨(や嫌悪😅)を覚えることがある。
昨今は血の繋がりという呪縛、その弊害の方に意識が行くことが多いけれど、親と子の繋がりを語るエピソードとしてはアンドリュー・ヘイ監督の表現方法の方が多くの人に訴えるだろうし、遺伝子レベルで共感できた人も多かったのではなかろうか。

「異人たちとの夏」と「異人たち:All of us strangers」とは枠組み、主人公が脚本家、人のいないビルに住む、謎の隣人が訪ねてくる、両親の幽霊と出会い、しばしの交流を持つ…ということを共有しているものの、後者はその枠組みを拝借しつつも別作品、別フレーバーといったほうがいいかも。

「異人たちとの夏」になぜか出てくるアイスクリームメーカー(ラジコンも出てきたけど、あれはどういう意味だったんですかね?主人公が子供の頃に欲しかったであろうものが具現化していたのかな?)で形容すると、容器は共通。中心にある芯棒をグルグル回す=核にあるテーマ:親子愛や自己肯定感の獲得なども共通で、それを巡って物語がグルグル展開する。
しかし中に入ってる材料が異なる。「異人たちとの夏」は日本風なあっさり牛乳味なアイスなら、「異人たち:All of us strangers」は濃厚バニラのラムレーズン、またはビタースイートなチョコレート・フレーバー。

機会があれば見比べてみるのも楽しいと思います。

「異人たちとの夏」では名取裕子がシャンパン持って現れますが、「異人たち:All of us strangers」ではポール・メスカルが日本のウイスキー?をもって現れる。細かいオマージュにフフっとできる所もあります。

あと、「異人たちとの夏」にも少しブロマンスを感じる部分はある。永島敏行演じるプロデユーサー間宮が、風間演じる脚本家原田に「あなたが好きなんだな。それが高じて奥さんまでよくなった」…なんて言ったりする。好きな男と同じ女性を共有したい心理があるようで、ホモソーシャルとホモエロティックの狭間みたいな部分がチラッと垣間見える気がしました。


アンドリュー・ヘイ監督と「Weekend」

今回、映画を観るまでは監督のことはあまり意識していませんでした。

で、映画を観始め、主人公アダムと謎の隣人ハリーとの親密な会話劇を見ている時に、アッ、あの映画に似ているなぁ…と、頭に浮かんだ映画がありました。それは「Weekend」です。

2011年のこの映画、これこそが今作のAndrew Haighアンドリュー・ヘイ監督が高く評価された作品でした。
(Haighでヘイと書かれているけど、役者たちのインタビュー聞いていると”ヘイグ”と、かすかにグが聴こえます。どっちが正解なんだろ?)

週末に出会ったゲイの二人が、2日ほどの短い限られた時間にも拘わらず会話を繰り広げて、性的に惹かれるだけでなくどんどん心も惹かれていく。心が溶け合って混ざり合っていくような、お互いにインスピレーションを与え合って、相手の姿を通して自分自身を見つめる、見つける。そんな濃密な週末を描いた作品。

この映画も男性二人の会話劇やフィジカル・コンタクトが続くので、とても「異人たち:All of us strangers」に似ているんですね。同じ監督ということで納得。

とにかく会話がリアルというか、生々しい。そこもソックリ。

ここで「Weekend」との比較の前に、アンドリュー・ヘイ監督の過去作なんかを振り返ってみたいと思います。

アンドリュー・ヘイ監督の作品

アンドリュー・ヘイ監督は、1973年イギリス出身の51歳。彼自身もゲイ(パートナーである小説家Andy Morwoodとの間に子供もいる)。

キャリアとしては「グラディエイター」(2000)や「ブラック・ホーク・ダウン」(2001)(共にリドリー・スコット)の編集アシスタントなどを経て、2003年には短編「Oil」で脚本&監督デビュー。
長編デビューは2009年の「Greek Pete」。ロンドンに生きる売り専ピートを描いた作品。

その次が2011年の「Weekend」

そしてサンフランシスコに生きるゲイ達の恋愛模様を描いたドラマ「Looking」の監督を務める。主役は「Glee」のJonathan Groff。

このドラマもヘイ監督の作品なんだと今回改めて意識した。言われてみれば「Weekend」に通ずる濃厚なゲイ同士の会話劇が繰り広げられるドラマで、共通した作風が感じられるなと納得。

ただ私はこのドラマ、第1シーズンは観たはずだけど、ちょっと苦手だったんですよね。ゲイ・キャピタルであるサンフランシスコの色んなタイプのゲイ達を、あ~こんなゲイいるいる~って感じで描いている。ゲイ版の「Sex And The City」を目指してそうだなと思いつつも、SATCみたいなわかりやすくてベタで明るいお下品なコメディと言う感じでもない。ゲイ的ジョークなんかはあるもののどこか暗くてもっと重い空気が漂ってる感じ。なのでなかなか入り込めなかった。恋愛模様もドラマの盛り上げ展開の為にドロドロ、みんな刹那的に生きていて、自分からトラブルに突っ込んでいくみたいな感じ。主人公もあまり共感も出来ないし応援したい感じでもなかった。よって第2シーズンは未視聴。(今観たら、また違う感想になりそうだとは思います。あくまで当時の私には嵌らなかった)

第2シーズンでサンフランシスコを去った主人公のパトリックが、友人の結婚の為にサンフランシスコに戻ってくるという、彼らのその後を描いた映画版「Looking: the movie」も作られていました。コチラもヘイ監督作品。


そして2015年の「さざなみ(原題:45years)」は、結婚45周年パーティーを控える老夫婦。そこに、氷河に落ちて遭難し、氷漬けになっていた夫の元恋人の発見の一報が届く。それによって変化する夫婦の心情を描いた作品。主演のシャーロット・ランプリングがアカデミー主演女優賞にノミネート。

この作品も「異人たち:All of us strangers」と同じで、過去と向き合うことになる物語。この辺りは監督のテーマなのでしょうか。なんだかジワる作品でした。セリフ、表情からじわじわと怖かったり、面白かったり、まさしくさざなみのように揺れる心情が良く伝わってくる。邦題は割とイマイチなことが多いですが、この邦題は”言い得て妙”なタイトルで納得。

2018年の作品「荒野にて(原題:Lean on Pete」は、アメリカのオレゴンを舞台に、15歳の少年チャーリーの成長物語。母は消息不明、ダメ父と二人暮らし、日々の食べ物に困りながらもなんとか生きている。そんな過酷な環境からLean on Peteと名付けられた馬と出会い旅に出ることになる。(監督の処女作もPete、初恋の人の名前だったりするのかな?www)

オレゴンを舞台にした映画を撮り続けているケリー・ライカート監督の記事を書いたこともあり、この作品も少し興味が湧いたので観てみました。

ギリギリのところで生きる主人公と動物というのはライカート作品の「Wendy and Lucy」とも似てる。主人公の身に不運な出来事が次々と起こる、なんともやるせない想いに駆られるところも共通する部分。あと”孤独”というのも「異人たち:All of us strangers」と同様、作品の底に流れているテーマだなと。

そして映画の最後にR・ケリー「The World’s Greatest」を歌うのはBonnie "Prince" BillyことWill Oldhamでした。そう、ライカート作品「Old Joy」でカート役を演じた彼。ヘイ監督もミニマリスト映画、スローシネマっぽい雰囲気はあるし、ライカート監督と交流あったりするのかも?と思い、二人の名前でググってみたら…

彼が影響を受けた監督としてライカート監督を挙げていました。

それにしてもオレゴンは過酷な土地のイメージしかない😅。昔「オレゴンから愛」ってドラマあったけど、あの作品も開墾してイチゴ農場か何かをするも、なかなか上手くいかないという過酷な生活を描いていた記憶があります。

父親役を演じたTravis Fimmel。昔カルバン・クラインだかの下着モデルだった時は目を奪う程の美しい金髪ロン毛の美青年でした。バイキングを演じたドラマでかなりゴツくなっていたのは知っていたけど…時の移ろいに切なくなりました(苦笑)。

そして今回の「異人たち:All of us strangers」。長編はこれで5作目(短編は4作)と、それほど多作の監督ではない。じっくり撮りたい作品にこだわるタイプでしょうか。

全然話が逸れるけど、この間タランティーノ特集やっていたので観ていたら、意外にまだ9作しか撮ってなくて(「レザボア・ドッグス」から始まり、「キル・ビル」は2つで一作扱い。最新作の「Once Upon a Time in Hollywood」で9作目)、10作撮ったら監督業を辞めると言ってる?噂がある?とか。知らなかったのでビックリでした。次が最後の作品になるんですかね?それはそれで寂しい。
映画一本取るのに3年~5年くらいかかると考えると、一人の監督が生涯で撮れる映画の本数ってそこまで多くはならないんだな~と。宮崎駿も「君たちはどう生きるか」で、大叔父様が積んでいた石が監督の作品数と同じ13個とか言われていたし。

「Weekend」との比較

で、「Weekend」も数年ぶりに観直してみました。印象だけで細かい所は忘れていたので。ゲイムービーとして評価の高い「Weekend」ですが、私は当時「Looking」同様、それほど好きにはならなかったんです。当時は会話の意味する所とかあまり深く考えずに観ていて、二人の濃厚さに胸焼け気味というか(苦笑)、ラストもハッピーなのかどうなのかなんとも言えないし、ふ~ん、こんな映画なのね…くらいの感想しかなかった。

しかし今回改めて観てみると、違った見方ができる自分がいて、とても面白い映画でした。評価高い理由がやっとわかったという感じ。そして「異人たち:All of us strangers」との共通点というかオマージュっぽい部分も発見できたりしました。「異人たち:All of us strangers」が気に入って、未見の方は機会があれば是非。

まず両作品ともに主人公が高層階に住んでいるのが似てます。

そこの窓から見える景色を印象的に挿入してくるところもセルフオマージュのよう。「Shogun」の記事でも書きましたが、部屋の内から外を撮ることで移り行く外の景色、とくに絶妙な色合いの空、その映像美に惹き付けられ心が動かされるし、登場人物の心情とリンクしている気もして想像が広がります。

「Weekend」の主人公のラッセルは里親のもとで育ち、本当の親を知らない。「異人たち:All of us strangers」のアダムも12歳で両親を亡くし、どちらも親の不在が成長期の自己形成に少なからず影響を与えている。

そして最も特筆すべき共通のシーンはベッドで語り合う場面

「Weekend」では、主人公ラッセルがいままで付き合ってきた人のカミングアウトに興味があり、それを聞き出してはPCに記録している。それを知ったグレンがラッセルの父親の振りをするからカミングアウトをしてみないか?と提案する。ラッセルが出来なかった”親へのカミングアウト”。どこか自信がなく、ゲイとしてのアイデンティティに躊躇があるようなラッセルに、通過儀式としてのカミングアウトを提案する。そしてカミングアウトしたラッセルを肯定して愛を示してあげる。ラッセルにとっては自分も意識していなかった心の底にある寂しさや痛み。それを思いがけなく引きずり出されながらも、優しく包み込んで愛おしんでくれた瞬間になる(←そりゃ好きになってまうやろ!!www)。

一方の「異人たち:All of us strangers」でもカミングアウト・シーンがある。母親と二人きりになった時に、12歳で亡くなった為にできなかった”親へのカミングアウト”をアダムはする。しかしここでの母親はグレンと違い、肯定と愛情よりも驚きと戸惑いが優先する。現在では受け入れられてる同性愛も、80年代当時はまだまだタブー観が強かった。イギリス(スコットランドと北アイルランド)では1982年まで同性愛は違法だったので当然の反応ではある。とはいえ、その時の母の心情を父親が後ほどフォローし、アフターケアもバッチリな構成となってるw。

その後、アダムは両親のベッドのもぐりこみ、母親と向き合い、生きていたら一緒に出来たこと、一緒に行けた場所について語り合う。「Weekend」のシーンと一緒で、親とできなかったことを母親と一緒に想像上だけど追体験する。彼の押し込めていた寂しさや痛みが表面に浮上してきて、母親に慰められる瞬間。しかしその辛さを思い出し泣きそうになるアダムに、横に寝ていたはずの父親が「大丈夫」だと言う。その父親がいつしかハリーに変わり抱きしめキスをしてくれる。肯定と安心感を与えてくれる瞬間。

監督がインタビューで語っていたのは、人生において味わう痛みや苦しみ。それを和らげてくれるのは”愛”だと。「Weekend」も「異人たち:All of us strangers」も、そこは共通するテーマであり、カミングアウトシーンやベッドでの語らいシーンで同じように表現しているんだということがわかります。

そしてこのベッドで向き合っての語らいシーン。もう一度登場します。
映画のラスト、ハリーの真実を知ったアダム。アダムとハリーがベッドで向き合って話す。両親との不思議な邂逅体験で自分の心の傷が癒されてきたアダム。ハリーの寂しさ、痛み、苦しみを知ったことで、今度は自分が癒してあげる側になる。怖がらなくていいよ。僕が守ってあげるからと。そして流れる「The Power of Love」

セルフオマージュと言うことなのか、ヘイ監督にとって、ベッドでの語らいシーンは重要なものである場合が多い印象。
「さざなみ」でも夫婦がベッドで語らうシーンがありますし(もっと不穏な雰囲気だけど)、「Looking : the movie」でも友人とベッドで語らい、もし付き合っていたら…みたいなシーンがあったりする。主人公たちが素直になれる場所としての役割を果たすベッドルーム。次回作でも出てくるか注目して観てみたいです。

「異人たち:All of us strangers」とは関係ないけど、「Weekend」の中で印象的だった現在の自分自身なりたい自分との間にあるもの、さらには周りが期待する自分についての話。

なりたい自分と実際の自分、その間にあるもの、何がなりたい自分との間で障害になり邪魔しているのか?

付き合うグループごとに演じ分ける。彼らが求める”私”に調整して、その役をこなす。本来の自分と周りが期待する自分とのギャップ。
さらには”なりたい自分”と”周りが期待する自分”との、より大きくなる隔たり。

こういうことを考えていた時に、「異人たちの夏」関連で、片岡鶴太郎氏のポッチャリ芸人から減量してボクサーを目指していた頃の周りから反対されたというエピソードを読みました。

「『鶴ちゃん、これどうするの?』って。『鶴ちゃんはポチャっとしてるから鶴ちゃんで、2年先までスケジュール埋まってるでしょ。あれ、鶴ちゃんで埋まってるのよ?』。『芸人が腹筋鍛えてどうすんの?』って言われて」。
でも、片岡さんはそんな声に対して、「おっしゃってることはよくわかるけども、2年先はあってもその後のことはわからない。だから、僕は新たな僕の作り方をやらせてください」と言ったんだとか。

TOKYO FMの記事

鶴ちゃんはなりたい自分に向かって貪欲に突っ走れる人なんだなと。ボクシングの後は芸術家。そして今はヨガ仙人みたいになって、その時々でなりたい自分に変身していっている。理想と現実の壁にひるまないし、周りの期待に迎合しない。なかなか出来そうで出来ない。
このトピックが意外なところで結びついて面白く感じたのでした。

今の自分となりたい自分の間にあって邪魔してるもの、それを見つめることで自分という人間が見えてくる。それは世間の目や干渉、そしてそれを気にする心?どうして気にするようになったのか?どうしてグループごとに微調整して自分を使い分けるのか?そこに幼少期の親の期待、親の子育てが影響を与えているのか?例えば「Weekend」のラッセルは里子でたらい回しにされた。行く先々の家庭でチューニングしてサバイブしてきたから?なかなかに奥深いトピック。自分の過去を見つめるきっかけにもなりそうです。


原作ありきなのにとてもパーソナル


「さざなみ」や「荒野にて」も原作があるのを監督が脚色した作品。今回の「異人たち:All of us strangers」も同じ。しかし原作があるにも拘わらず監督はもの凄くパーソナルな作品だと繰り返しインタビューなどで語っている。

パーソナルだからこそ、みんなが嫌いだったら自分が嫌われてる感覚になるから怖かった…と言っているほど。

物語の枠組みと中心にあるテーマ性は原作を踏襲しているものの、それ以外は主人公をゲイにして大胆に変更している。そして両親との会話や、当時の時代背景、それらは全て監督自身の経験を反映したものになっている。

監督自身も脚本家であり、主人公と同じように過去と向き合いたい気持ちに共感したのもあると言う。
この映画は過去についての物語。「私は私自身の過去しか持っていないので、それに基づいたものになっている」、そのために古い写真を見たり、記憶を掘り起こしたりもしたそう。

ゲイであること、ゲイとして育ったこと、アダムが感じてきた少年時代の傷、トラウマは監督が経験してきたものそのものであり、それらを語ることはもの凄くパーソナルなこと。監督のことをよく知る人が観れば、どれだけパーソナルな内容かわかるだろうと。
(「Aftersun」のシャーロット・ウェルズ監督も同様のことを言ってましたね)

幽霊を扱って現実的でない部分もありながらも誠実な映画でありたいと語っていた監督。登場人物たちが吐露する感情はまさしく監督の経験を反映した嘘のない誠実なものだったと思う、だからこそ多くの人の心に届き響いたのでしょう。

監督がインタビューで何度も説明していて興味深かったのが、主人公アダムが訪れる両親の家。あれはアンドリュー・ヘイ監督自身が、45年ほど前の幼少期に実際に住んでいた家なんだそう。脚本を書いている段階で頭に思い浮かべていたのはどうしてもあの家であり、脚本が完成し自分でわざわざ訪ねて撮影できるか交渉したそうです。幸せな記憶だけの場所ではなかったけれども、主人公が過去に帰る話なので、自分も一緒に過去に戻る感覚を持ちたかったから。すると現オーナーもOKと快諾。幼少期を過ごした家での撮影が実現した。

そして、演じているのは俳優たちだけど、実際に両親が寝ていたベッドルームで撮影したりしていると、不思議な、子供に戻った感覚になって、長いこと出てなかった湿疹が腕や脚に出たりしたそう。
リビングでクリスマスツリーを飾っていたのもまさにあの場所。

監督自身が本当に幼少期に戻った感覚を撮影を通じて体験した…主人公アダムが経験したような感覚を監督自身も経験することができた…まさしくフィクションとノンフィクションの境界が曖昧に感じるようなパーソナルな体験をこの作品を通じて得たということなんですね。

とはいえ、監督の両親はまだ存命だそうです(笑)。

母親を演じたクレア・フォイの髪型はヘイ監督の母親を真似ているんだそう。


映画を彩るポップミュージック

パーソナルということでは、劇中で流れる音楽も監督の人生で影響を与えてきたもの。

ヘイ監督はこう言ってます。
ポップミュージックは本当に誠実だ。普段は表せない気持ちを表現してくれている。そしてクィアの子供にとって音楽は非常に重要で、映画の一部として挿入したかった」と。

他にも、その曲を熱心に聴いていた時代に戻してくれるタイムマシーンのようなものだとも。過去に戻ることがテーマのこの映画にとっては重要な役割を果たしているわけです。

「Always on my mind」

アダムと両親がクリスマスの飾りつけをする場面で流れるPet Shop Boys「Always on my mind」(1987)(オリジナルは1972年Gwen McCraeの曲。多くのアーティストがカバーしている)

ペットショップ・ボーイズと言えばゲイテイストを感じられるアーティストで、ボーカルのNeil Tennant ニール・テナントもゲイをカミングアウトしている。

しかしこの歌、いままで私は、男女間(同性でもいいけど)のロマンティックな関係でのことを歌っているという発想しかなかった。そこで親から子供に向けての愛という解釈、それも母親との会話、父親との会話のシーンが終わった後に持ってくる。「いつもお前のことを想っているよ…」と歌われたら、もう涙腺崩壊。ダラダラ涙が流れました😭。あのタイミングはズル過ぎる(褒めてます)。全然エモい感じの声でも歌い方って訳でもないのに。シチュエーションでここまで別次元の良さを引き出せることにとても驚かされた曲でした。

「Death Of A Party」

次に、この映画を観た後にこの曲がグルグル頭を回っているという意見も見かけたBlur「Death Of A Party」(1997)。アダムとハリーが出掛けるクラブのシーンで流れ始める。

この映画、全体的に不穏で不安な気持ちにさせる不協和音的な音が流れてることが多いのですが、この曲はまさしくその象徴と言った感じ。薬でトリップしてたら気持ちよく聴こえるのかもだけど、普通の状態で聴いたらやっぱりなんだか不安定な危うさを孕んだような曲だと思う。

「Death Of A Party」直訳したら「パーティーの死」。歌詞も、あんなパーティーに行かなけりゃ良かったのに、一人で寝ておけばよかったのに、よ~く考えて、別のパーティーに行って、そっと棚の上で首を吊ろう…みたいなもので、エエッ、パーティーで何があったのよ!?と訊きたくなるようなダウナー系。なんでもパーティーで出会った相手にHIVのような病気をうつされたという解説もありました。性病じゃなくてもクラブで薬やってオーバードーズで死亡なんてのもよく聞く話ですし、友達やパートナーが死んで自分も…みたいな想像もできる。

「死」に注目したら「死=終わり」とも考えられるので、映画の文脈に沿わして考えると、パーティーの終焉=両親との束の間の再会が終わりに近づいてきていることを示唆しているとも取れる。または「パーティー」を会合ではなく「人の集団、グループ」という意味に捉えると、「パーティー=登場人物達」の死とも考えられる。両親は既に死亡しているし、ハリーとアダムも!?パーティー全滅!?というアイデアも想起させ得る。

で、ペットショップ・ボーイズと違って、ブラーにはゲイのメンバーいるんだっけ?ゲイ・アイコンという印象はなかったので調べてみたら、

彼らの最大のヒット曲で、私も唯一ちゃんと知ってて好きな曲である「Girls & Boys」。

そのサビの部分が

Girls who want boys who like boys to be girls
Who do boys like they're girls, who do girls like they're boys
Always should be someone you really love

となっていて、もう好きなのは男なのか女の子なのか、男みたいな女の子なのか、女みたいな男の子なのか、頭がこんがらがってくる歌詞で、結局好きならなんだっていいという内容になってる。
ボーカルのデイモンがスペインにバカンスに行った時に、現地の自由な男女関係ないヤリまくりの雰囲気に影響を受けて書いたのだとか(苦笑)。

それで、この性別関係なく好きな人と楽しめばいいよというメッセージがバイセクシュアルのアンセム的に考えられて、LGBTQ、クィアの人々に支持されて好まれているという背景があるようです。

加えて、キャリアを通してインタビューなどでホモエロティックな発言があったり(男のグループではふざけてありがちですけどね)、LGBTQのファン層にも感謝する発言をしていたり(今の時代ホモフォビア発言なんてできないですけどね(;^_^A)、Professor Greenというラッパーが、ブラーのベーシストであるAlex JamesからBJ(フェラ)を提案されたことがあるという話もあるんだとか(ゲイ・キュリアスなことはこういう界隈ならごまんとありそう)。

ということで、アンドリュー・ヘイ監督がBlurを選んだ理由も割と納得できた気がします。

「The Power of Love」

そして、この映画で一番大事な曲がFrankie Goes To Hollywood「The Power of Love」(1984)。(セリーヌ・ディオンの同名曲とは別物)

映画序盤、ハリーがアダムの部屋を訪ねてくる直前に部屋のテレビから流れている。
そして二人の会話の中で、ハリーが中に入れて貰いたいがために言う「ヴァンパイアが僕のドアの所にいるんだ」というセリフ。これは「The Power of Love」の歌詞「keep the vampires from your door」から来ている。アダムがハリーに関心を持つきっかけになった、ある意味二人の出会いの曲。

海外掲示板の考察によると、二人の会話時には音楽が止まっているので、ハリーはドアが開かれる前から外でベルを鳴らすか躊躇していて、部屋の中で流れる「The Power of Love」を廊下で聴いていたんだと。そうでないと前述したセリフは出てこない…と。勇気を出してドアを叩くか悩む、そんな繊細なハリーの心情に寄り添う考察厨の皆さんに感服!!なんだか半ば酔っぱらってヘベレケみたいに見えてたけど、照れ隠しの演技だった可能性もあるってことなんですね。尊い!(笑)

そしてラストシーン。映画の最初と最後でブックエンドのように再び流れる「The Power of Love」。

監督はラストシーンの演出が余りにもCheesy(安っぽいとかベタでクサいという感じ)で、どうかな?という想いがありつつも、クィア・コミュニティにおける音楽の重要性を考えると、私にとってはちゃんと意味をなして成立しているのではないかと思えた…と語っておりました。

確かに幽霊が出てくる話とは言え、大林版みたいにス~っと下から消えていくみたいなものはなく、映像的には割とここまで現実的な感じだったのが、最後で妙に寓話的というか、メルヘン入ったな…とは思いましたけども😅。

でもインタビューを聞いていると、この映画のテーマとして語られる単語にPurgatoryパーガトリーというのがよく出てくるんです。

Purgatoryとは、「煉獄」、カトリック教における教義の一つで、死後の魂が天国へ昇る前に罪の浄化を受ける場所を指す。 また、一般的には、苦痛や困難な状況を指す際にも用いられる。
形容詞として使われる時は、浄化の、清められた 的な意味合い。

つまりこの映画は、彷徨える魂たちが天に昇る前に、過去の苦痛と向き合い清算する、そして癒され、浄化される物語だということ。

それを踏まえると、「The Power of Love」の歌詞の中に「Purge the soul」という部分があることに気付く。「心を浄化するんだ」と言っている。ではそれは何で?というと、それは「The Power of Love」愛の力で!ということになる。それが監督のメッセージなので、この歌しかありえないということになるんですね。(*・ω・)(*-ω-)(*・ω・)(*-ω-)ウンウン納得。

で、Frankie Goes To Hollywoodもゲイテイストを感じられるグループ。
代表曲である「Relax」のMV、このサムネからしてもわかりやす過ぎますね😅。絵に描いたようなハードゲイ!

ボーカルのHolly Johnsonはやはりゲイで、LGBTQのモニュメンタル・アイコンと呼ばれるほどなんだとか。クイーンのフレディ・マーキュリーとか、ワムのジョージ・マイケル、エルトン・ジョンとかはモミュメンタルって感じはするけど、Holly Johnsonもそうなんですね。イギリス音楽界は本当に多いな~。日本でゲイ・アイコンがいるバンドとかってあったっけ?歌手なら美輪さんとピーターくらいしか思い浮かばない(古っ!w)。


ラストの考察

掲示板を見ているとラストの解釈で意見が分かれているんだと気が付きました。あなたはどう解釈されたでしょうか?

私? 私は、あ~星☆になったなぁ~…って、まんまやんっ、浅っ!😅

一番多い解釈としては、ハリーも死んでいるし、アダムも死んでいたんだというもの。だから二人の魂がPurgatory煉獄で浄化されて天に昇っていったと。

ではアダムはいつ死んだのか?わかりましたか?
それに関して議論が繰り広げられていて興味深いです。私が納得できたのを書いておきたいと思います。

映画の最序盤、アダムが冷蔵庫を漁っていると部屋の火災報知器が鳴ります。そして外に出てビルを見上げるとハリーの部屋に明かりが灯っている。

この火災報知器=火事があった→アダムはこの火事で死んだ…という解釈。
つまりアダムも死んで霊になったのでハリーが見えるようになったし、その後に両親も見えるようになったと。

火事で死んだというヒントは映画の所々に散りばめられている。

ハリーが訪ねてくる直前に流れている「The Power of Love」も”Feels like fire~♪”という部分が歌われているし、 両親と会っている時にBurning Up=高熱がある(燃えるように熱い)と話したり、地下鉄に乗っている時に異常に咳き込んでむせる場面などがある。

そしてこの物語はPurgatoryとも書いたように、Purgatoryとは煉獄、火に焼かれて浄化される場所のこと。だからあのマンション自体が煉獄を象徴しているという意見もありました。

私は煉獄と言えば、最近なら鬼滅の刃の煉獄さんですけどw、てっきり地獄の一種(針山地獄とか窯茹で地獄とか)で、火で焼かれる灼熱地獄的なものだと思っていました。そこでずっと焼かれ続ける場所。
しかし。キリスト教(カトリックのみの考え方みたいですが)におけるPurgatory煉獄とは、宗教学者中村 圭志氏の説明によると、

煉獄で死者は火の試練を受けますが、煉獄の火は地獄の劫火とは異なり、苦しいながらも浄化される喜びがあります。死者たちは煉獄で過ごすうちにすっかり身ぎれいになり、終末において晴れて最後の審判に臨むことになります。おそらくは天国に行くことになるのでしょう。

と言う感じで、絶対的善人は真っすぐ天国、絶対的悪人は真っすぐ地獄、そして多くの善人とも悪人ともつかない人々は、この煉獄で魂を清められてから天国に昇天する…と言うことらしいです。だからあのマンション=煉獄という空間で、火、炎に関するものが散りばめられていたんですね。

そう考えると、最初ハリーがアダムの部屋にやってきて、入室を拒否されたから自室に戻って薬とヤケ酒で死んだかのような時系列ですが、ハリーはもっと前から死んでいた霊の可能性もあるかもしれない。煉獄マンションで同士の霊を見つけたので寄ってきたという考えもありかも。

そもそもあのビル自体、ロンドンで二人しか住んでないビルなんて不自然過ぎます。別々の所で焼死と泥酔死した霊が、あの煉獄マンションという浄化空間に吸い寄せられ、そこで死んだ状況を再現していた。そして今世の魂として心残りだったり満たされてない想いを昇華出来たことで昇天していったということなのでしょう。

それを踏まえると、映画のオープニングシーンは夜明けの空を窓越しに観るアダムの姿から始まります。窓に映る姿が最初はボヤ~っと薄くて、それがだんだんハッキリと実体を伴ってくるみたいな表現になっている。まるで幽霊が現れてくるところのよう。そして燃えるような太陽の光で包まれたところでタイトルが表示される。まさにこれから霊が煉獄の炎で焼かれることを示唆しているかのようなオープニング。そう考えると、火災報知器はこれから浄化の炎が始まるよ~!!というお知らせアラームという解釈もありかも。

こういう解釈でラスト、二人のベッドシーンでの会話を振り返ると、自分たちが霊だと認識して、これから天に召されるんだと自覚している発言だと捉えられます。

ハリーが「I'm scared 怖いよ」…と言う。これから昇天し、ハリーとしての今世を終え、自我が消えることへの恐怖から言っているようにも聞こえます。

I know わかっているよ」「But I'm here with you だけど一緒にいるから」とアダムが宥める。これは両親が昇天する所を経験したばかり。彼は昇天することが決して怖いことじゃないことを知ってるんですよね。

次にハリーがアダムの胸に手をあて、「Don't let this get  tangled up again もうここを拗らせないようにね」と言う。「次生まれ変わった時は」という意味合いがあるようにも聞こえるセリフです。

そして「Okay C’mon よし、行こう」とアダムが促し、後ろから抱きしめる。レコードをかけてと頼むハリー。しかし念じるだけで?曲は自然に流れ出す。Feel like fire、 Flame on(燃え上がる)、Burn desire(欲望を燃やす)という火に関する歌詞が流れ、二人はになる。

この星になるという部分も深掘りしてみると、
監督がインタビューで言っていましたが、「星になる=死」の意味で使われる通りだとも取れるし、光になったとも取れると。

そして「The Power of Love」の歌詞の中に「love is the light」と言う部分がある。二人が光になった時に流れる「love is the light」。そう、二人は愛になったとも取れるんですよね。

監督の別の発言でこういうのがありました。

「この物語は”人生で重要なのは愛である”と基本的に言っている。恋愛関係においてや、親子関係、友人関係、どのようにして愛を見つけることができるかということであり、人生を通して愛を見つけ、失い、そしてまた見つけるということ」

アダムの人生を振り返ってみると、たぶん幼少期は両親から掛け値ない愛情を注がれた=愛の種を蒔かれた。しかし思春期に入ろうとする頃に、劇中にあったようにわだかまりが生まれ始める。そして両親が死亡し、実際の愛情も受けられなくなった。愛の喪失→悲しみ。そしてゲイとしての自分を彼らは生きていたら受け入れただろうか?変わらぬ愛を与えてくれただろうか?ということがずっと引っ掛かり続ける。肯定感を得られない心の拗らせがずっとあるので、上手く他人に愛を示すことができなかったのではないだろうか?(アダムはハリーと関わりつつも両親に対するほど強い関心を示してなかった…といったら語弊があるか?でもラストにハリーの部屋に訪れるまではずっと受け身。SEXでさえ躊躇あるのにウケ側だったわけで😅)そして自己肯定感も低め、どちらかと言うと孤独を選ぶ人生を歩んできた。

そこで両親と再会し、ゲイとしても受け入れられ、ちゃんと愛されていたことを知る=愛の再発見。愛で満たされたアダムはようやく他者にも愛を与えられる存在になり、ハリーを愛で包み込んだ…と言うことかなと。

監督はこういうことも言っていました。
悲しみは愛を知っているから感じることができる

愛を知り、愛の喪失があるから悲しみを知り、愛の再発見からより深くその尊さを知る。愛に触れたことのある人間なら感情を揺すぶられずにはいられない。そんな作品になっているんだと思います。

アダムの両親があの煉獄マンションに来なかったのは、まあ霊それぞれ煉獄の場所は違うんでしょう(汗)。
彼らは交通事故でいきなり死亡し、息子とちゃんとした別れが出来なかった。息子がずっと気がかりだったし、彼のことを深く知る機会も持てなかった。それらのUnfinished businessが済み、息子を愛で包み自らも愛になり、それで浄化されたので成仏できた。

ハリーの成仏条件は何だったんでしょうね?薬とアルコール…鬱だった可能性も高い。家族の中でもはみ出し者。彼も孤独だった。この孤独が彼を引き留めていたもの。孤独の中で死んだ彼が、勇気を出して別の霊のアダムに近づいた。そしてアダムからちゃんと向き合って貰え、真に愛されたことで孤独が解消され、昇天できたということでしょうか。
アダムもたぶん誰かを愛したいと願いつつ孤独だった人物。ハリーよりも両親からは愛されていたので愛を知っていた。誰かを愛する準備はできていたと思う。しかし彼のセクシュアリティと時代がそれを許さなかった。それがハリーと出会い、愛することの悦びを知れたことで昇天できたのかなと。

で、この”全員死んでいた説”で私が気付いた補強考察があります。
それはタイトルです。ここが「異人たち:All of us strangers」と邦題と原題を併記したい理由。私はこの英題に非常に意味があると思うんです。

山田太一氏の小説が英訳された時のタイトルが「Strangers」だったのに、なぜ「All of us strangers」と改題したのかと監督が質問されていました。
IMDb(オンラインの映画ドラマ・データベース)で「strangers」とつくのがいっぱいあったし、”A”から始まるのがいい(アルファベット順で最初の方に来る)と思ったという冗談を言いつつ、一番は観た人との会話でありたいと思ったからだと。私のパーソナルな話ではあるけれども全ての人(=US)に訴える物語だと思うし、全ての人(=US)と繋がり得る話であるから、そういう意味合いを込めたんだと。

「All of US」私達だって皆どこか異人、はみ出し者、そんな傷を持っている者たち。身体と言う実体はあるものの、現世を彷徨う魂たちという解釈もできる、なるほどな~と、最初聞いた時は思いました。

ですが!!ふと、このタイトル、アダムが言っているとしたら?と思い至ったのです。「僕たちはみんな異人」と。
この作品における異人とは幽霊のこと。ならば「僕たちはみんな幽霊」という上記の考察にピッタリくるんですよね。監督もそこをハッキリ言ってしまうとネタバレになる為、敢えて上記のような取り繕った言葉で絶妙にはぐらかした…そんな気がします。

前述したBlur「Death Of A Party」
パーティを一集団、グループだと捉えると、この登場人物というグループの死。これも示唆的だったなとしっくりくるわけです。

原題が非常に意味があると思うもう一点。
 ”Strangers”…これってStrangeから来てるわけです。Strange奇妙な、不思議、変なって意味ですけど、現在LGBTQを総称する”クィア Queer”という言葉も 本来は 風変わりな、奇妙な、変な、疑わしい、怪しい、気分が悪い、ふらふらする、頭が変で(←後半のいくつかは映画内のアダムの状態も彷彿とさせる)、などと言う意味でほぼ一緒。
だから主人公がゲイであるのもStrange=Queerという解釈をヘイ監督は込めてるんだろうなと。完全な男性性しか持たない人物、100%女性性しか持たない人物なんてまずいないわけで、皆その間のグラデーションのどこかにいるという考えに基づくと、「All of us strangers(queer)」という英題には皆の中にあるQueernessにも目を向けて欲しい…そんな想いも込められてるような気がします。

最初に書いた、意見が分かれているというもう一つの考察は、脚本家のアダムによる創作説

映画は最初、アダムが両親のことを題材にして何か書こうとしているところから始まる。まだPC画面はほぼ何も書かれていない状態。あそこだけが現実で、それ以降はほぼ創作の世界だと考える説です。

途中でアダムが執筆している姿が映った時にPC画面が文字で埋まっているので、その辺りは創作の世界と現実世界が融合しているというか、行ったり来たりしてるようにもとれる。

ただ、この説だと最後に作品が完成したとも語られないし、ブックエンドが無い状態なので何とも言えない。メタ視線である種明かしは欲しい所です。

でも作家が作品を書くことを通して、自身の心のわだかまりを解消する、カタルシスを得ることで前に進む、過去を清算して未来に進もうとしている物語だという意見。それもいい解釈だなとは思いました。
アダム、ハリー、アダムの両親、みんながある意味作家自身(多くの人とも共通する)が持つ過去の傷の象徴であり、それを愛で癒すことで未来に進んでいく…ヘイ監督が語る”愛について”とも合致する気がします。

私は前者の考察を支持しますが、監督はラストシーンは敢えて曖昧にしている、観た人の好きなように捉えて貰ったらいいと言っているので、解釈は人それぞれ、自分がしっくりくるものであればそれが正解でイイみたいです😉。

「Aftersun」のシャーロット・ウェルズ監督も同様に、多くの曖昧さによって解釈を観客に委ねる姿勢を貫いていました。この2作品はどこか地続きな印象があります。ポール・メスカルが演じたカラムが、今作のハリーと地続きのようなキャラだという意見が出てくるのも納得。11歳で父親を亡くしたソフィーと、12歳で両親を亡くしたアダム。そんな彼らが両親と再会する物語というところも似ている。

もし「Aftersun」を未視聴の方がいたら是非観てみてください。おススメです。そして、その後に私の考察を読んで頂けたら嬉しいかも!!www


キャストについて

監督曰く、キャスティングはいつも主人公から。そうじゃないと他のキャストは考えられないんだとか。

それで選ばれたのがアダム役のAndrew Scott アンドリュー・スコット。アイルランド、ダブリン出身の47歳。

私はカンバーバッチ版「シャーロック」モリアーティ役の役者さんだな~というのが一番最初に来る印象。

だからなのか、ちょっとサイコパスっぽい印象が強くて、こういう物語に嵌るのか、最初はピンとこなかった。でも観ているうちにそんな違和感は消えていき、ある意味50歳前だけど童顔っぽい顔が、両親を前にして少年に戻った様な主人公を演じるのに最適なんじゃないかと思ったほど。

監督も彼が適役だと言っている。
普段はクィアの役をクィアの俳優がやるべきだとは思わないけど、今回のケースに限ってはクィアの役者が演じることが重要だったと(←アンドリュー・スコットはゲイをカミングアウト済み)。なぜならクィアであること、クィアとして成長してきたことにおける絶妙なニュアンスを分かってもらうために、細かい指摘や長い会話をしなくても伝わるから。

アンドリュー・スコットとヘイ監督は同世代。アダムはある意味監督の分身。80年代に10代を過ごし、エイズ禍も知っているだろうし、そんな難しい時代、同様の重荷を背負い大人になった。そんな内臓レベルで理解できる人物に演じて貰う必要があった…と言うことらしいです。

アンドリュー・スコットの次回作がネットフリックス版の「Ripley リプリー」パトリシア・ハイスミス原作のアレですね。

リプリーシリーズって何作かあるから、てっきりリプリー晩年の物語なのかと思いきや、予告観てたら普通に「太陽がいっぱい」やアンソニー・ミンゲラ版「リプリー」のリメイクっぽいんですけど…さすがに歳くい過ぎじゃないですかね(;^_^A。でも前2作とどう違うか見比べてみたいです。今回のトム・リプリー、やっとこさゲイの俳優が演じるわけですが果たして!?

*****

そして監督が次に選んだのは両親役の二人。このキャステイングで監督が重要視したのは、まずはアンドリュー・スコット演じるアダムの両親としてしっくりくるかどうか。そして同時に、自分(アンドリュー・ヘイ監督)の両親として考えてもしっくりくるかどうかということだったそうです。

それで選ばれたのが父親役にJamie Bell ジェイミー・ベル、母親役にClaire Foy クレア・フォイ。

ジェイミー・ベルは「Billy Elliot リトルダンサー」以来勝手に成長を見守ってきた😅。最近だとラース・フォントリア―監督の「Nymphomaniac ニンフォマニアック」でSMの…男の場合はマスター?ご主人様?役で出ていて、あのビリーが…と複雑な心境になったもんですw。実生活でもケイト・マーラと結婚して、今や2児の父。38歳だもんね。

クレア・フォイは私は余り馴染みのない女優さん。最近だと「Women Talking ウーマン・トーキング 私たちの選択」で見かけていたけど、主要キャストの内の一人というだけで注目まではしていなかった。英ドラマ「クラウン」でエリザベス2世を演じているので世界的には有名なのだろうとは思う。エミリー・ブラントとリース・ウィザースプーンを足して2で割ったような感じだな~と思いながら観てましたw。彼女も一児の母。39歳。

Women Talking」ではかなり気の強い女性を演じていたけど、ああいう役の方がバッチリ嵌る感じはする。どこか話し方や表情にハッキリ物申す威圧感がある感じからでしょうか。今作も優しい母性のかたまりと言うよりもサバサバした感じの女性と言った感じ。あの感じがある意味でゲイの息子との絶妙な距離感=この子が何考えてるか分からない、男になっていくこの子にどう接していいかわからない…そんな母親としての微妙な心情が反映されてる感じがしました。映画内ではアダムがゲイだと知る前に死亡しているので知る由もないのだけれど、あれはヘイ監督と彼の母親との関係に近い感じだったのではないかと想像。そしてベッドでのアダムとの会話では母性溢れる感じに変化。アダム自身も子供のパジャマ着て幼児化したことで母親もよりわだかまりの無い時代に戻った感じ。

両親の役者さん共にアンドリュー・スコットより10ほど若い。原作も主人公が50前で両親が35歳くらいで亡くなった設定。
大林版「異人たちとの夏」では風間杜夫が39歳、片岡&秋吉夫婦が34歳くらい。コチラの方があまり原作に沿ってなかったんですね。確かに登場人物全員同世代(名取さんだけちょっと若い)にしか見えなかった。

監督曰く、この映画では子育ても重要なテーマ(監督自身も同棲パートナーとの間に子供がいる)。ゲイの人物と亡くなった両親の話にだけしたいわけじゃなかった。クレアとジェイミーも子育て真っ最中故に脚本をのめり込んで読んでくれたそう。

そしてクレアは前からアンドリュー・スコットを知っており、彼の母親になりたい、絶対に母親役をやりたいと主張。おじさんの母親になりたがるなんて変だよねと監督も笑ってましたw。

*****

そして最後にキャスティングされたのがハリー役のPaul Mescal ポール・メスカル。彼もスコット同様アイルランド出身の28歳。この28歳と言うのがビックリ。35歳くらいだと思っていた😅。あの口ひげ( ¯灬¯ )、あれすると凄く老けるというか若く見えない気がするの私だけ?アゴの無精ひげとかはカッコよく見えるけど、あの口ひげはマリオみたいでどこか滑稽さがただよって、私は好みじゃないんですよね~(←知らんがなw)。

彼は元々ゲーリック・フットボール(アイルランドのラグビー的な競技っぽい)の選手だったそうで(アゴのケガで引退)、どうりでガタイがいい。

アカデミー主演男優にノミネートされ、彼を一躍有名にした映画「アフターサン Aftersun」でも半裸になること多いけど、背中の筋肉とか凄いゴツゴツしていた。筋トレで作った整った筋肉ではなくてもっと粗野な、何かスポーツとか労働とかによって身に纏ったような筋肉だったので納得。

今後はリドリー・スコットの「グラディエーター2」で主役をやるそうで、今最も熱い俳優の一人という感じ。(ヘイ監督がリドリー・スコット組出身っぽいから縁を感じますね)
People誌の 「Sexiest Man Alive」にも選ばれてる。個人的にはそこまでハンサムとは思わない…だけど「異人たち:All of us strangers」ではアンドリュー・スコット同様に、観ていると次第に魅力的に見えてくるから不思議でした。ただアンドリュー・スコットと一緒に出ているインタビュー動画とか観ていると、ずっと楽しそうに笑っていて、人好きのする好青年という雰囲気。人気あるのも納得。


「異人たち:All of us strangers」のキャスティングに戻ると、監督は最初、適役とは思わなかったとか。しかし会ってみると素晴らしい役者だと分かったので採用。彼はゲイではないけれど、そこは重要でなく、スコットとの間にケミストリーをちゃんと感じられる役者であることが大事だったと。

そう、メスカルはゲイではなく、インタビューでもストレートと言ってました。ただ元カノである歌手のPhoebe Bridgersはバイセクシュアルだったようですし、スコットとも本当に仲良く、インタビュー動画でも終始イチャイチャ(笑)。最初こそ監督が二人の親善のためにコンサートに誘ったりしたらしいけど、その後は二人で会話に夢中で監督のことなんか眼中にないほど仲良しに。アンドリューの誕生日にポールは招待されたのに僕は招待されなかったんだよと監督が冗談で文句を言うほどw。ということで、ポール・メスカルはクィアに対してアライ的な、いやそういう壁自体持っていない人物と言う感じでしょうか。
次回作も「God' Own Country」のジョッシュ・オコナ―と「The History of Sound」という映画で再びゲイ役を演じるそうです。

ただちょっと気になったのは、精神科医には掛かっているようで、映画の中でアダムから両親の話を聞いて涙をするシーンの前にはパニックアタックになるような状態だったとか。”Sad boy eyes”なんて言われていたけど、確かに悲しさを湛えた目だし、結構心に闇を抱えているのかも…その裏返しでインタビュー動画なんかではハイテンションだったりする可能性ある?というのも少し頭をよぎりました。

メスカルの初日は、アダムが両親とベッドで寝ている場面、父親がハリーに変わってアダムを抱きしめキスするシーンからだった。

役者間のケミストリーについての監督の意見:役者たちは作品においてお互いのことを大事に思っているし、お互いにベストな作品を作りたいと思っている。それだけでケミストリーは自然と醸成されると思っている。

セックスシーンについて:リアルで、優しくて、デリケートでありつつ、セクシーでダーティーな要素も含んだもの、それがセックスだから。

今回は今まで使ったことがなかったインティマシ―・コーディネーターを使用した。撮影の前にコーディネーターと役者と交えて話し合うのは変な感じだったが、彼らの必要性は十分理解しているし、大事な仕事だと思う。

セックスシーンは物語に関連していないと意味が無いし、そうあるように心掛けている。


その他

海外掲示板で気付かされたことを少し。

電車の少年

アダムが電車で両親の家に向かう時に、斜め向こうのボックス席に家族と座っている少年と目が合うシーンがあります。
なんだか意味深なシーンだなと思いつつ、その後に伏線回収されるでもなかった。

実はあの少年、ハリーの少年時代だという指摘がありました。
アダムとハリーの会話の中で、昔、彼が太っていたと言っています。そして兄と姉がいることも。家族の中心は兄や姉で自分はいつも端にいるような存在だったと。

その会話の後、アダムが電車に乗るシーンの脚本にこう書かれています。

A TUBBY BOY (9) with dusty blond hair sitting with his older brother and sister, looking out of the window like he might just cry.
暗めの金髪をしたポッチャリとした男の子が、兄と姉と一緒に座っている。今にも泣き出しそうに窓の外を眺めながら…。

まさしくハリーの少年時代と重なるわけです。
それにどういう意味があるのか?なぜ少年のハリーが乗ってるのか?そこはちょっとわからないんですけどね(;^_^A。

ただ、電車を降りて両親の家に向かう途中、すれ違う少年達が80年代の制服を着ているとかも書かれている。すると電車がタイムマシンのようにも考えられるし、アダムの潜在意識を具現化する装置のようなものとも考えられる気がします。電車の中で大人のハリーを見かけて追いかけたのも、死ぬ前の過去のハリーを見かけたとも取れるし、潜在意識でハリーへの関心が高まっていたので彼を想像して具現化したのかもしれない。

ハリーが読んでいた本「WALDEN」

アダムが執筆中、同じ部屋の傍らでハリーが読んでいた本がアメリカ超絶主義の作家 Henry David Thoreau ヘンリー・デイヴィッド・ソローウォールデン 森の生活だという指摘もありました。

どういう内容かはちょっと一言で説明し辛いので、詳しく知りたい方はwikiでも読んで頂けたらと思いますが(読んでもよくわからなかったけど😅)、

”ウォールデン湖の近くに建てた小屋での2年2か月2日間にわたり暮らしたソローの経験を叙述したもの。自然の環境の中での著者の素朴な生活を反映しており、一部は個人の独立宣言、社会実験、スピリチュアルな発見の旅、風刺であり、ある程度は自立のためのマニュアルでもある”

ソローという作家の隠遁生活を通しての色々な考察が書かれていて、「孤独」に対する考察なんかもあったりする。この辺りで孤独に生きていたアダムやハリーと繋がってくるのかも?

掲示板で見かけた説明で、わかりやすかったのはこんな感じ。
「ウォールデンは「孤独」、特に意識的に作り上げた孤独、に関する本である。そして人生の意味を模索するのである。ウォ―ルデンからの言葉はこの映画のテーマや登場人物に多く当てはまるものがある。また、ソローは超絶主義者だ。超絶主義とは、五感の限界を超絶して、より高次なスピリチュアル世界における現実を経験できると信じている人々のこと。この考えはこの映画にまさにぴったりと当て嵌まる」

超絶主義というのが、この映画における幽霊、彷徨える魂というスピリチュアルな存在と出会う現象にピッタリなんでしょうね。納得の小道具です。

そして、森に隠遁して創作活動していたアメリカの詩人といえば Walter Whitman ウォルター・ホイットマンもいる。映画「The Whale」でも引用されていて、調べてみたら、ゲイだったのでは?といわれている人物。
それでソローも同様に調べてみると、コチラもやはり生涯独身の人物であり、ゲイだったのでは?という研究者もいるらしい。

そしてこの二人、同時代に生きていて、ソローがホイットマンを訪問し(仲介したのが「若草物語」の原作者オルコットの父親)、二人でCommon man について熱い議論を交わしたんだとか。コモン・マンって一般人?一般男性?よくわからないのですが、男について熱く語り合ったと。そしてお互いの著作を交換し合った。議論では意見が分かれたそうで(ホイットマンは豪快系?で一般的な男性を擁護派、ソローは繊細系で男性を非難派だった)、それ以降会うことは無かったらしい。でもゲイの作家同士のネットワークというのは古今東西結構あるので、この二人もそういうので会うことになったんじゃないかと私はちょっと疑っているのですが、どうでしょう?(笑)

ということで、「ウォールデン 森の生活」が小道具として出てきたのは孤独なゲイという登場人物たちの文脈を強調するためであったのだろうと思うわけです。


雑多な感想

アダルトチルドレンとセラピー効果

監督のインタビューの中にこういうのがありました。

「多くの男性は、まるで大人の体の中に囚われた迷子の少年のようだといつも思っている。だからこの映画はその部分、ある種の彼らが放つ脆弱性について語りたかった」
「この物語は、喪失、悲しみ、痛みなどの感情に訴えてくるものがあり、子供時代の傷、大人になっても取り除けない傷、それが行く道の邪魔をしていることがある」

これはまさしくアダルトチルドレン(AC)のことだなと。

アダルトチルドレンは、子ども時代の家庭環境や親の行動、例えばアルコール・薬物依存、心理的・物理的虐待、感情的ネグレクトなどに起因する心の傷を持つ大人を指します。 彼らは、過度な自己責任、自己否定、難しい人間関係、依存性、感情のコントロールの困難などの特徴を示すことが多い。

苛烈な児童虐待は勿論ですが、アダムやハリーのように親によるパッシブアグレッションのような態度、行動(一見そこまでの問題が孕むとは想像できない)は、実は感情的なネグレクトに近い経験であり、彼らを子供のまま心の奥に閉じ込め、情緒的成長を止めてしまう。そして本人でさえ向き合うことが往々にしてできなくなる。しかしその抑圧が後々に問題として浮上し、鬱になったり、依存状態に陥ったり…となる。

私は常々思っていることがあって、日本で現在、引きこもりや鬱、そして各種依存、宗教からアイドル、ギャンブルからアルコールまで、それらの問題が多くみられるのは、多くが幼少期の親による虐待やネグレクト、特に感情的なネグレクトが原因であることが殆どなのでは?ということです。そういうことを世間が気にするようになったのはここ10年、意識高い人でも20年くらいのもので、それ以前はそういうことを意識している親はかなり少なかったと思う。

そしてその大きな要因の一つとして”戦争”があるのでは?と。
太平洋戦争で生き残った多くの当時の子供達は、生き抜くこと最優先で感情のケアなど全く受けられなかった。その後のベビーブームによる団塊の世代。彼らも継続する苦しい暮らしと多くの兄弟姉妹で、やはりほぼネグレクト状態であることが多かったのではないだろうか?そんな彼らもACであり、問題を抱えたまま親になり、高度経済成長の旗印の元、余裕の無かった社会、再びその子供たちは感情のケアを受けることが出来ず(親がケアの仕方をそもそも知らない)、ACの連鎖が続いて行った。現在、そういう問題が可視化される社会に変容したので、ここ数十年で問題化したように思えるけれど、その根は戦中、戦後から続く負の連鎖…のような気がします。戦争は全てを奪う。そういう形の無い”心のケアをする文化や生活の余裕”さえも奪い、それを人々が取り戻すには何十年、いや百年単位で掛かるということではないかと。
あと近年の未婚率の高さと出産率の低さ。勿論経済的な事情が原因である部分もあるでしょうが、こちらも根は同じところにあるような気がします。

そして、この映画は、世界中にいるACの人にとってセラピー的な役割を果たしているのではないだろうか?大人の体に囚われた子供の心。その心を曝け出す機会を得たアダム。そして、心の成長を止めた原因と向き合うことで、心のつかえが取り除かれ、成長というか、大きな愛でハリーを包み込むことができるようになった。

アダムと両親とのシーンで涙を流した人達も、たぶん心の中に子供の心が閉じ込められているんだと思う。アダムのように人生50年生きてきて、自立自立で甘えることも許されず、必死に生きてきた人たち。しかし人間、親から愛された記憶があればあるほど、無条件に愛されたい欲はどこかに残ってる。その戻りたいけど戻れないノスタルジーに圧倒されてしまう瞬間、それがこの映画にはある。
そして涙を流すことで、心の奥で抑圧されていた子供の心に一時戻り、子供のように素直に悲しみを表現する解放感を与えてくれる。両親への想いも涙と一緒に甦り、これもまた涙と一緒に洗い流してくれる。そんな心の浄化セラピー現象がこの映画にはある気がします。

あと親視点としては、いくら子供のことを想っていても、それで彼らを幸せにできるかどうかは分からない現実。その子育てに付き纏う不安、後悔、懺悔…。それらの想いもあのシーンが昇華してくれ、エモーショナルにさせられる。

監督も、感情を扱う作品なので、エモーショナルな作品にしたかったと。脚本執筆中や制作中のスタッフも、涙でティッシュをいっぱい使い、そこら中に散らかっていたんだ、決してセックスシーンのティッシュじゃないんだよ…なんてジョークを言ってはいたけど、監督自身も含め、多くの人にとって感情の解放が重要だということを理解していたからこそ、そこにフォーカスした作品に仕上がったのだろうなと思います。

*****

セクシュアリティを演じるということ

↓この記事の中で、アンドリュー・スコットが'You don't play sexuality'と言っていました。

セクシュアリティを演じることは無い…と。セクシュアリティはその人物を象る一つの要素ではあるが、最も重要なことは、どういった要素がこの人物を象っているかをよく見ることだと。そうじゃないとどのゲイ・キャラクターも同じになってしまう。際立っているゲイキャラがいるなら、何か別の要素があるからだ。それはストレートの場合だって同じだろう…と。

確かに、ゲイキャラだとオネエ言葉話したり、(色んな痛みを知ってるから)優しく思慮深い設定だったり、マツコみたいな毒舌ハッキリズバズバ言う系とか、所謂ゲイの定型を演じてるだけの役者は多い。でも男を演じる、女を演じる時、男らしさや女らしさの役作りや演技だけしてる役者ってほぼいなくて、それ以外の個性をもっと重要視して演じてる。セクシュアリティを演じることは無い…この言葉でなんだか私の中で日本の映画やドラマで感じていたモヤモヤの原因がわかったような気がしました。

某ゲイ作品で、主役の俳優さんがクランクイン前に新宿二丁目に行ってゲイの方たちを観察してきました!と言って、どんな演技をするかと言うとオネエ言葉でクネクネしてる、よく見るアレ。そういうの見る度に、う~ん、なんか違うくない?とずっとモヤモヤしてたんですよね。彼らはゲイの定型を演じること(=セクシュアリティを演じること)に躍起になってて、その登場人物のもっと芯になるその他の要素をないがしろにしてるんじゃないかと。ゲイはたくさんいるけど、その人物がその人物足らしめてる要素、他のゲイと違う部分を強調してこそ、その人物像と言うものが浮かび上がる。逆にその人物をゲイの定型に押し込めることで個性を薄め、観客への訴求力を奪ってやしませんかと思うんですよね。私はその定型の先を見たいと思ってしまう。そのゲイの役を他のゲイを扱った作品にもっていって演じても成立しちゃうんじゃダメだと思うんです。しかしながら現実は紋切り型の同じようなゲイを演じている役者が多い印象。

もちろんそれは役者だけの問題ではなく、監督や演出家、そして視聴する側の意識の問題もある。決まりごとに従っておけばいい、定番演出こそ聴衆が求めているもの、だってわかりやすいでしょ?…という意識は凄く日本的な感じ(それも分かるけど…)。しかしそこで満足していると、そのキャラに深みも与えないし、そもそも人間としての真実味が全く生まれなくて薄っぺらい。人間もっと色々あるはず。その部分を、セリフが無くても滲み出るように演じてこそ絶賛されるべきな気がするんだけど…。だからスコットが言うセクシュアリティの向こう側にあるものこそ大事だというのは凄く共感&納得できる考えでした。

こういうことが出来てないストレートの俳優が多いから、ゲイの俳優がゲイの役を演じるべきという意見が出るのもちょっと納得。だって彼らはゲイと言うセクシュアリティを演じようとは普通はしない。それが彼らの一部ではあるけど全てではないことを分かっているから。

そしてストレートの役者であるメスカルもこう言っている。
「歴史的に、その(ゲイの)演技が(ある意味当事者にとって)攻撃的で不快だとみなされてきた時というのは、往々にしてセクシュアリティを演じようとしている時だ。そんなことは不可能なことだし、これらのキャラクターのセクシュアリティの部分と言うのは最も面白くない部分だと僕は常々思っている。これらのキャラクターはゲイと言うセクシュアリティ以上のものを持っている。だからクィアのラブストーリーとしてではなく、一般的なラブストーリーの部分こそ、僕がこの物語の中に見つけたい部分だ」

役者が演じるのはセクシュアリティではなくて、その向こう側、もしくはそれをベースにしたキャラを形成する様々な要素の部分。
しかしここで、定型ではなくて個性を重視するべきと言いつつも、凄く興味深かったのは、さらにその先。スコットは、役者はキャラに変身なりきることが好きだと言う。なぜならそこに共感があるし、これらの人物の気持ちになって考えてみることに関心があるからだと。そしてその役者が登場人物の中の共感した部分を表現することは、さらに観客側の共感を呼び起こすことにもなると。なぜなら僕たちは思っている以上に似ている部分があるからだと。

empathy共感というのは人間だけが獲得した感情かもしれない(猿や類人猿には多少あるかもだけど)。この高度な感情を用いて人の心を揺さぶることができる職業、それが俳優なんだなと。
定型を越えた先の個性を演じつつも、最終的には人類に共通する感情、怒り、悲しみ、喜び、楽しさ、悔しさなどを表現することに帰結する。観客はその感情に共感した時に感動する。だからこそ、その役者が表現する感情は真実味が無いといけない。

ヘイ監督もこの映画はエモーショナルな作品だと言っていたし、霊という超常的なものを扱っていながらも、登場人物たちの感情は本物であるように心掛けたと言っていた。その感情の演技に真実味があると観客を納得させられるかどうか、そこが俳優の腕の見せ所だということ。そういう意味では「異人たち:All of us strangers」は成功していたのではないだろうか。

最近、私自身、日本のドラマとか映画はあまり見なくなってしまったんだけど、その理由に、マンガの実写化が影響しているのか、物凄く漫画的な演技が増えた気がする。あれを実写でやられると冷めるんですよね。でも世間はあまり気にしていない感じがして、大きな溝を感じます😅。あと、あざとい演技も多い。ハイ、ここカッコいい演技するところ~!ハイ、ここ泣きの演技の見せ場~!!っていうのが、いやらしい感じで伝わってくる。これって役者さんの実力どうこう言うよりたぶん演出とかの質が落ちてる(脚本もひどいのが多いけど)んだろうなと。役者さんは作品によってはちゃんと演技出来てることも結構あるので、上手く引き出せる力量のある監督なんかが少ないんじゃないかな?悪い意味で世代ごとマンガに毒されてしまっているというのもあるかも。あるいは、感情が伝わる演技ができるまで何度もNG出すことが、パワハラだとか言われかねないと躊躇する空気が現場にあるんですかね?そこ諦め始めたらいい作品はできないだろうなぁ…。


設定はファンタジーでもそこで表現される感情はリアルであって欲しいし、私はそういう作品に出会いたいと思いながらエンタメを見てる気がします。そう思うと最近ドラマ「Firstlove初恋」を振り返ることがあったのだけど、あのドラマでの満島ひかりさんの”あのCD聴いた時の演技”はすごく良かったなと。あざとさも無くまさに真実味がある演技だった。アレが撮影の時系列がバラバラの中、結構序盤に撮影されたというのがスゴイ。あの瞬間にあの感情を的確に再現できるようにもっていく感情のナビゲート能力と、やり過ぎてもやらな過ぎてもダメで、的確な塩梅、さじ加減で表現できるコントロール性の高さ。まさに職人だなと。

作品自体はどこかファンタジー的というか記憶喪失なんて言う少女漫画王道みたいな部分もあるし、若い頃を演じた二人の演技もある種、恋人の定型を演じていたという感じ。しかしあの場面の満島さんの演技が、視聴者の感情に訴えかけて共感を得るに足るだけの真実味があったからこそ、あの作品は一つ上のレベルに行けたような気がします。

この記事を読んでいると、満島さんがただ傷ついた”女性の定型”を演じていただけでないのもよくわかる。

寒竹さんが元々イメージしていた野口也英は、おそらくもう少し内向きな人だったと思います。ですが、満島さんと話していく内に、過去に喪失感を抱えている人が、ずっと暗い人生を送っているわけではなく、日々の中に喜びを見出しながら生活している
(中略)
ネガティブなことが起きてもただ落ち込むのではなく、笑いに変えていけるようなパワフルな部分ができていったのは、満島さんとの出会いの賜物です。

女性というセクシュアリティではなく、その先の也英という人物。ただ悲観しているのではなく、全体としてキャラが抱える悲しみや諦観を表現しつつも、そこから藻掻きながら喜びも見出そうとしている強さ、そのバランスを繊細に演じていた。その人間の持つ多面性。これをいかに自然に演じられるかというのも大事。それがクライマックスでの共感に結び付く大事な要素だから。


弱音会 (追記)

考察に力を割いて自分の感想をあまり書いていないので記しておきます。(個人的な記録ですので、どうぞスッ飛ばしてください)

とにかく監督が言うようにエモーショナルに訴えかける映画だった。今風にエモい…と言う表現じゃちょっと軽すぎる。もっと喪黒福蔵にド~ンとされたぐらいの衝撃(例えが微妙😅)。「Always on my mind」でダダ泣きして以降はずっと涙目でした。

世界中で支持されているというのは、やはり人間の心にどこかに常にある根源的な孤独感や悲しみに訴えるからなんでしょう。

今月の「100分de名著」でフロイトの「夢判断」をやっていて、そこでエデイプス・コンプレックスの話をやってました。普通は男性から母親への愛情ですが、女性にもこれはあるんだと(父親を好きになる「エレクトラコンプレックス」ではない)。これって胎内返りというか、胎児の時の記憶、絶対的に守られて愛されていた感覚、唯一他人と一体化していて孤独でなかった時間へ戻りたい願望が人間にはあるってことな気がします。この映画での体験がその感覚に近い。だから世界中の人々のコアな部分に突き刺さるんじゃないかな?

突然個人的な話になりますが、私は幼少期に兄を事故で亡くしました。
当時まだ私は4歳ほど。しかしそれ以来イマジナリー・フレンドならず、イマジナリー兄がズ~っといます。幼い時、両親が不在時、一人でトイレに入るのが怖い時にはその兄に心の中で話しかけたり(💩している所見せられる幽霊も迷惑な話よね😅)、ぬいぐるみを兄に見立てて会話してたり(ヤバさは子供心でも分かってるからあくまでも心の中でね)。

イマジナリーだからと言って勝手にベラベラ話し出すなんてことはない。基本何も発しない。そこに存在してるという感じなだけ。結局は自分の欲しい言葉を言ってくれる風、自分がやることを肯定してくれる風で、いわば都合のいい独り芝居してるようなもの。それは自己欺瞞かもしれないが、それによって勇気を貰えたり、孤独を紛らわせたりしたのは事実。

そして最近もう一人イマジナリーな仲間が増えました。イマジナリー母です。数年前に癌で亡くなりました。もう緩和ケアに入ろうかという段階の時、残りの時間に伝えたいこと、伝えておかないといけないこと、いっぱいあったんです。最後はドラマの様にベッドの傍らで手を握って…みたいになるんだと思っていました。しかし現実は突然せん妄状態に陥り、まともな会話が出来なくなってしまった。せん妄になって二日目に「私、もう死んだの?」と言われた時はゾッとしたのと同時に、もう何を伝えても伝わらないんだ…という絶望感と自責の念でただただ自分も消えてなくなりたい&でも最期まで母を看取らないといけない…そんな想いでグチャグチャでした。

そして母の死後、ある程度のグリーフケア期間が過ぎると、母もイマジナリーに加わりました。といっても対面で話すみたいな感じではなく、側に存在を感じているというか、心の中の部屋の一つに住み着いているみたいな感覚。
旅行でキレイな景色を見ている時は私の目を通して母にも見て貰い(現世での五感は私を通して感じて貰う感じ)、親孝行旅行に連れてきた気分になったり、一人飯で美味しいものを食べにいった時も、母に美味しいものを食べて貰ってる気分になったり。私が母から受け継いだ細胞が感じてる全て、それを母も感じてくれているという感覚。
(いつもじゃないですよ。そういう風に気持ちが向いた時)

ただイマジナリー母も兄も何も話してはくれない。私をただただ傍観してたり、都合よく受け入れてくれるというだけ。頭の片隅で自分が作り上げてるという意識も存在しているから。そういうわけで私は亡き人と話したい気持ちはすごくわかる。

だからこの映画「異人たち:All of us strangers」ではちゃんとやり取りが成立している。亡き人に言いたかったこと、言って貰いたかったことがイマジナリーではなくて実際に起こる。怖いけどそれが出来たらどんなだろう…。少しは心のつっかえが取れるのかな?後悔が薄らぐだろうか?

ふと思い出したのが「ドラえもん」の「おばあちゃんの思い出」回。

これものび太がタイムマシンで過去、おばあちゃんが生きていた頃に戻る。
そこでわがまま放題の3歳のび太に無条件の愛を注いでくれていたおばあちゃんの姿を知る。当時は気付く由もなかったのび太がそれを知り、最後は自分が成長したのび太だと告白。そしてわがままだった自分を謝罪する。おばあちゃんはのび太の全てを受け入れて愛で包んでくれる。

見る度涙がダダ洩れになってしまう回です。この涙と「異人たち:All of us strangers」で流した涙が非常に近いんだな~と。

人間、子供の頃の無条件に絶対的に愛された記憶というものへのノスタルジーがある。成人して何年もこれでいいのか分からずに、だけどなんとか必死に生きていくしかない。途中で後悔もいっぱいある。その度に心に傷が増えていく。そんな不安な心を全て受け入れ許してくれて、大丈夫だよ、頑張っているよ、と愛で包んで欲しい…そんな深層心理にガツンと突き刺さるんだと思う。

亡くした親と言うのもだけど、亡くした子供でもいい。私の母は子供を亡くしたので、いつも自責の念はあっただろうし、もし話して謝ることが出来たら少しは心が軽く出来ただろうなと思う。
または別れた恋人や疎遠になった友人でもいい(こちらは現実世界で実際に会って何かしらできる可能性はあるけど)。
そうした愛した人への行き場のない想いを浄化、昇華させるということは人間にとってスゴイ重要なことなんだなと考えさせられた。

朝ドラ「虎に翼」の今週の回で「弱音は別に吐いてもいい」的なエピソードがありました。そう、「弱音吐くな!」っていう概念が凄い大きいというか、弱音は吐いたらいけないものと思い込ませられてる感があるけど、別に弱音吐いたって全然いい。なんでココまで悪いことになってるのか?それで心が軽くなるなら、そこから前向きな方向へのきっかけになるなら、どんどん弱音吐いていくべきなんじゃ?と思う。メンタル・ヘルスケアの観点からも推奨されてるんじゃないの?

ググってみたら、やはり推奨されてました。
「介護がつらい…」愚痴は心のデトックス?弱音の正しい吐き方と効果的な3ステップ

ただ弱音を吐きすぎるのは問題。思い出すのはドラマ「フレンズ」のブルース・ウィリス回。

大人の男ポール(ブルース・ウィリス)が一度弱音を吐いたら堰を切ったように弱音しか言わなくなり、子供の時の傷まで思い出して泣き続ける。そしてレイチェルが困り果てるという回。

それだけ人間、閉じ込めている、我慢している想いは実は溢れるほど持っている。ただそれを聞かされる方も大変。でも弱音を吐くことも推奨したい…ここで”弱音会”というのを考えてみたらどうかと思う。

*”弱音会”を開く。
*参加者は一回に1弱音に限定。
*悲しい、寂しい、悔しい、認めて欲しい、愛されたい、何でもいい。
*聞き手はその弱音をバカにしたり否定したりはしない。全面的に受け入れるだけ。もしくはその感情を掘り下げるための相槌や軽い誘導程度に留める。
*弱音を吐いてスッキリしたら、もうその負の想いを(出来たらその場で)手放すように心掛ける。
*際限なく弱音を吐いて感情に振り回されるのではなく、弱音を始点に感情のコントロールを目指す。

宗教が長年この苦しい想いの浄化の役目を果たしてきた。
でも権威に結び付いた宗教は時にそれに付け込んできた部分もある。
だからもっと権威化しない状況をお手軽でカジュアルに作れるようになればなと。

女子会にはある種こういう役割を果たしている場合があるとは思う。だけど男子会というか、男が集まっても弱音吐くことに抵抗があってなかなかできない(弱音を吐くなと育てられてる呪縛)。だからこそ男が弱音を吐いて心のデトックスするために、老若男女関係なく”弱音会”をしやすい風潮になればいいのになと。

なんだかうまく言えないけど、この映画が教える孤独や痛み、それをどう乗り越えるかをもっと皆考えて、もう我慢せずに積極的に解消していくフェーズに人間は移行していくべきなんだろうなと、そんなことを思った次第。


監督のインタビューから

監督のインタビューで記事本文に挿入しなかったものなど。

「子供のことを考える。自分達の子供だけじゃなく子供一般について。彼らは私たちに影響を与える存在であり、逃げることができない。私たちは年を取ると勇敢になったり強くなったりするもんだと思っている。だけど昔負った心の傷は大きくなってもいつもそこにあり、無視しようとしてもどうにかして出てこようとする。過去がなにかしら這い戻ってくる。それも想像していない時に限って戻ってくる。私も過去と現在を行ったり来たりしている。まるで音楽のように。音楽も同じような効果があって、それを聴くだけで過去に戻る気持ちになり、その当時どう感じていたかも思い出させる」

どのシーンが観客に一番インパクトを与えたと思うか?
「それは観た人による。親のこと、亡くした親のこと、悲しみの形も様々。クィアの男性として父親と話していたシーンに共鳴できたり、また年代によっても感じ方は違うだろう。歳を重ねていればそれだけ反映される部分も多いだろうし、感傷的になることや、若い時には受け入れられなかったことが受け入れられるようになっていたりもする。だから、いろんな人がいろんな受け止め方をしてくれているのは嬉しい」

「私にとってこの映画は、いつだって愛が痛みをどのように和らげてくれるかということについて描いた作品。愛が人生のツラい部分を和らげてくれる。どのように愛するかを理解すること。愛によっていろんなことを乗り越えていくことができる。何度も何度も、挑戦して何度も。映画を作ることも私にとってはそれらを理解しようとすること。親の愛とロマンチックな愛が絡まり合ってお互いにどう影響し合うかという映画でもある」

「ラストシーンは人によって色んな解釈ができるだろう。
私にとってはこの脚本を書くことは昔に戻ることだった。80年代を生きたゲイとしての感覚に戻ることであり、それは愛を見つけるなんてことは不可能であり、現実的でないと思っていた感覚。だからこそ最後に大きく出てみるべきだと思い、愛には何かしら意味があり大事なものなんだと。だからこそラストをああいう風にした。星は死を意味しているとも取れるけど、光を象徴しているとも言える。臭い演出だけどね。でもそれも真実だ。だから最後はリアリティから解き放たれるようにして、観客に何かしら考えて貰えるようにしたかった」


最後に

日本文化自画自賛番組なんかは観てて恥ずかしくなる方なのですが(自分で言う時点で無粋すぎる)、それでも世界の中で文化的に高い国なのは間違いない。

食文化も貪欲に色々な国のものを取り込み、独自に発展させる。平安と江戸の二度の鎖国で醸成した独自性も存在している。その多様性独自性が共存している独特な文化。音楽も同様。この辺りは今も進化し続けている。

一方、日本の文学作品というのも欧米とは一味違う道を歩んでるように思う。

現在の大河ドラマ「光る君へ」で、主人公まひろが庶民に文字を教えるというエピソードがあった。そんな平安の時代から江戸期を経て、江戸末期には世界でもトップクラスの識字率だったと言われている。

江戸時代の世界の識字率は?
幕末には全国に1万5千以上の寺子屋があり、江戸時代中期の人口100万人、成年男子の識字率70~80%世界一といわれる。 当時のロンドン人口86万人、識字率20%、パリ54万人識字率10%との記録がある。 当時の識字率が維新改革・西洋化に適応できた理由と認識されている。

そして明治、大正、昭和と来て、たぶんネットが普及する前の80年代~90年代が文芸文化、出版産業がピークに達した時期。質は今もゆっくり進化して新たな良質な作品も出ているんだろうけど、量はあの頃がやはりピークだったはず。世界中探しても多種多様で玉石混交の多くの書籍が、それも自国の、この国でしか話されていない言語であれほど溢れていた国はほぼ無かったのではないかと思う。そこに漫画文化も発展していたわけで、その熱量は凄まじかった。

90年代に留学したときに知り合った香港出身の生徒と話した時、彼女の親はilliterate(文盲)だと言っていた。あれほど人口密度が高い場所、ウォン・カーワイなどの映画文化も発展しているのに、そういう現実があるのだと結構驚いた。日本の当たり前が世界の当たり前ではないと気付かされたことのひとつ。

なので、山田太一氏の「異人たちとの夏」のように、まだまだ西欧世界では気付かれていなかった良作が埋もれている気がする。漫画文化がこれほど受けいられているのは”絵”という視覚で理解できるとっつきやすい窓口があるから。つまりその窓さえあれば文芸作品も十分訴求力はあるはず。ある意味、”文化の金脈”が70~90年代ぐらいの日本の文芸作品にはあるのではないかと思うわけです。その時代から活躍してる村上春樹が世界的に評価されてるのは、ちゃんと翻訳されて世界に紹介されてる(窓口があった)からというのも一要因なのでは?とも思う。他の埋もれた作品の中にも、西欧世界とは違う日本独自の切り口で書かれ、且つ世界中の読者の感情に訴求する作品は絶対あるはず。

前記事で、海外ドラマ「Shogun」においての”East meets West”を語りましたが、「異人たち」All of us strangers」をきっかけに、日本の文芸作品が西欧の映像作家と出会い、マリアージュして生まれる新たな”East meets West”な映像作品の誕生が増えればいいなと。

そういう文化の交流、文化の融合、そこから国、文化が違っても人間が抱く感情の共通性類似性を人々が強く意識できれば、それが世界平和の一助に貢献するのではと思う、いや、貢献して欲しい。

アッ、最後に☆評価のマイナス0.5ポイントの理由をば。

映画の序盤、アダムの部屋にハリーが訪れる場面。私はあの場面のハリーは不気味さしか感じなかったんです。てっきりアダムも不気味さに慄いて扉を閉めたんだと思っていました。しかし監督の説明を聞いていると、あの時のアダムは若くて魅力的なハリーの誘惑に内心物凄く葛藤していたんだとか。

そんな風に見えました?私は全く見えなかったw
幽霊だからまるで発光しているような超然とした美しい若者、「テルマ&ルイーズ」の頃のブラピぐらいのわかりやすさだったらそう見えただろうけど、マリオ髭生やして20代なんかに全然見えないし、Sad boy eyesというよりヤクでちょっとイッてるみたいな目をしたポール・メスカルがネットリと握手してくるとか、あそこを分岐点にしてサイコパスホラー映画でも全然納得できた気味悪さだったw

なので、この監督との感覚のズレがマイナス点でした。このせいで他の場面も実は自分がトンでも解釈してるんじゃ…という疑念が拭い去れない(苦笑)。

藤井風「満ちていく」という曲を最近よく聴いていて、物凄くエモーショナルになる時があって涙が溢れたりしてたんです。どこかこの映画で描かれるテーマに通づるところがある気がするんですね。
MVも母親の幽霊が見守ってるみたいだったり、地下鉄でその面影を追いかけたり、つい類似点を探してしまう。

”手を放す、軽くなる、満ちていく”
心に絡まったわだかまり、両親への想い、いろいろ手放すことで自由になりこころが愛と平穏で満ちていく。
愛は与えられて満ちるのではなくて、与えることで満ちていく。
アダムもハリーに与えることによって自身も愛で満たされていった…。
素敵な曲ですので、未聴の方は是非!別の映画の主題歌なんですけどね😅。


こんな長い記事を最後まで読んでこの文章に辿り着いたあなた!!
本当に良く頑張ってくださいました。拍手👏 
その偉業を記念して良かったらスキ💓を押していただけたらウレシイです。
そのスキに込められた愛で明日も生きていける気がしますw




参考動画や記事、スクリプトなど



https://deadline.com/wp-content/uploads/2023/12/All-Of-Us-Strangers-Read-The-Screenplay_Redacted.pdf


この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?