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涙もろさとカタルシス

母が他界してから数週間、泣いた記憶がない。
もっと泣くと思っていたのに、涙が出てこない時期が続いた。
しばらくして、不意に母のことが思い出され、込み上げてくるようになり、当たり前の日常が戻った頃、疲れてくると身体も心もつらく、母を思うと涙が止まらなくなった。
いかに今まで、自分は母を頼り、母に護られていたかを、嫌と言うほど思い知らされた涙だったと思う。

この8ヶ月間という時間が、長いのか短いのかはわからないが、やっと、母のいない生活に慣れてきて、母を想っても泣かなくなった。
疲れすぎないように、日々過ごすよう心がけたことも、役に立ったように思う。

物心つく頃から、よく泣く子だった。
障害を持って生まれたせいで、学校に入る前の数年間、朝から晩まで矯正靴を履かされていた。
もう半世紀以上が経っているというのに、あの時履いていた靴の重さや感触、形まではっきりと憶えている。
思うに、自由に動けないことへの苛立ちと、悲しみがちょっとした刺激でも、泣くことに繋がっていたのだろう。

病弱だったせいで、病院通いが常だった。
発熱すると、38、9度はまで上がるのは普通で、たまに40度近くまで上がるときがあり、そうなると意識は朦朧となる。
氷嚢や水枕では足りず、冷蔵庫で冷やした果物の缶詰を手に握らされたことを憶えている。

そんなときでも、両親、特に母は私に厳しかった。
お医者さんや看護師さんが優先、どんなに治療がつらくても、泣くことは許されない。
小学校に入る前、大学病院に入院したとき、腕の血管が浮き上がらず、首から血液を採ったことがあった。首をギュンと曲げられて苦しくて仕方がない。泣きそうになったとき、いつものように母が「泣いてはだめ」と言うと、お医者さんが母に向かって、「止めないで泣かせてください。その方が、血管が出て採血しやすくなりますから」と言って、私に「泣いていいよ」と声をかけてくれた。
そのときの場面を、今も朧げに記憶している。病室や、母と主治医と看護師さんの姿と声…

小学5年生のとき、高熱が長い間下がらず、数ヶ月、入院したことがあった。
あまりに長く高熱が続くので、一時は白血病に間違われたほど。
毎日、点滴と、朝晩お尻にペニシリン注射を打たれた。お尻の打たれた箇所が硬くなり、揉んで柔らかくしようとするのだが、飛び上がるほど痛い。あの痛みは、今も忘れられない。結局、退院するまで数ヶ月間、耐え続けた。

毎日点滴を打つと、血管も潰れかけ、針を刺すところもなくなる。
ある日、なかなか針が入っていかないときがあった。
最初の看護師さんでだめ。二人目もだめ。三人目もだめ。
左右両方の腕を試されても入らない。
腕は痺れてきて、痛い。
涙がじわーっと溢れてくると、母が「看護師さんが困るから、泣くんじゃない」とすかさず声をかける。
入れ替わり立ち代わりやってきては針を打って、失敗して戻っていくのを繰り返して、やっと終わった時は、汗だくだった。

いったい何人の看護師さんに針を刺されたのだろう。
終わって、看護師さんが病室を出た瞬間、声をあげて泣いたのを鮮明に憶えている。なんでこんなときも、母は、私じゃなく看護師さんの気持ちを考えるんだろう…と悲しかった。
否、悲しいより傷ついたと言っていいかもしれない。
強烈な体験は、何十年経っても忘れないものだ。

小学校に入学しても、病気がちでよく学校を休んだ。
その頃になると、涙というものは、自分ではコントロールが効かないものなのだと理解した。
喜怒哀楽のどの場面でも、突然、涙が溢れてくるようになり、大いに困った。
例えば、誰かに何かを説明するときや、父や母に伝えようとすると、必ず泣きそうになる。
それでよく母には「泣けばいいかと思って」と言われ、叱られた。
でも、別に泣きたいわけじゃない、本当に突然、自分の意思とは関係なく涙が出てくるのだからしようがない。泣きたくないのに泣いている自分に、何度悔しいと思ったことか。

中学に入ってすぐ、いじめにあった。
クラスの男子生徒全員からいじめの対象にされた。それを見てみないふりをしていた女子生徒たち。
あのとき自分は、本当にひとりだった。
泣くともっと苛められそうな気がして、学校では、絶対に泣かなかった。
家に帰っても、父や母に気づかれたくない、心配をかけたくないという気持ちが働いて、夜、寝てから、布団を被り声を殺して泣いた。
あるときから心臓神経症のような症状が出たが、誰にも話さなかった。
話したところで、症状が収まるわけじゃない。誰に話したところでどうなるものでもないと、自分を諦めていたところがあった。

いじめは一年で終わった。しかし、卒業する日まで、心を閉ざし続けた。
油断するとまた苛められるとの恐怖から、男子はもちろん女子にも一切、警戒の手を緩めなかった。
そのせいか、卒業式が近づいて、クラスでは毎日、サインノートを交換する光景が見られたが、誰一人として私にサインを求めてくる子はいなかった。
当然と言えば当然で、私自身、サインノートなど用意していなかったし、こちらからサインを求めようとは、思いもつかなかった。
正直、ちょっと寂しい気分になったが、仕方のないことと諦めていた。

そして卒業式の当日。式典が終わり、玄関で互いに別れをかわしたとき、涙が自然と溢れ、号泣と言っていいくらい、ボロ泣きした。
そんな自分が信じられず、愕然としたことを憶えている。
今にして思えば、あのときの自分は、深く深く傷ついていたのだろう。
単に別れが悲しくて泣いたんじゃない。むしろこれで解放される、どれだけ苦しんだか、辛かったか、悲しかったか。
そんな3年間の感情が一気に堰を切って、溢れ出した涙だったのだと思う。

この体験がトラウマとなり、30年近く男性恐怖症だった。
男性と一緒にいると怖くて、早くそこから逃げ出したくなった。男性と1対1になることはもちろん、その場で話をすることも苦手だった。
40代になって心理の勉強をしていた頃、教育分析というプロのためのカウンセリングを受けて、実は、男性恐怖症ではなく、当時自分をいじめた男子に対しての恐怖と怒りを、ずっと溜め込んでいたことによる、「反応」だったことを知らされ、ようやく解消することができた。(いとも容易く解消されたときは、拍子抜けした)

そしていつしか、必ずと言っていいほど、喜怒哀楽のどの場面でも感情が昂り、涙が溢れてきたのが、涙ぐむことなく冷静に話ができるようになっていた。
ただ、家族と口喧嘩をしたり、わかって欲しいのにわかってもらえない時は、いまだに言葉と一緒に、涙が勝手に出てくる。
いつまで経っても大人になれないことに、我ながら恥ずかしいのだが、これだけはどうすることもできない。本当に困ってしまう。

最近、母のことで泣かなくなった代わりに、ちょっとした刺激で涙ぐむことが増えた。
音楽を聴いて涙ぐんだり、舞台を観て泣くことはあっても、ドラマを観て泣くことまでは、そんなになかったのが、今は、ドラマを観てもすぐ泣いてしまう。
元々、共感性は高い方で、ひとのことを自分のことのように感じてしまう傾向はあったが、よりその傾向が強まったような気がする。
ひとの心の動きをより敏感に感じ取ることで、まるで自分が体験したかのように、悲しくなったり、苦しくなったり…心が震え、嗚咽で息ができなくなったり…
自分でも、不思議なくらい響く。
つらいなら観なければいいのにと言われそうだが、何度も観ては、また泣いてしまう。

これも一つのカタルシス効果なのだろう。

もう、ずいぶん昔に、私と同じ病気の女の子を密着取材した番組を観たことがあった。
そのときの女の子も、私と同じように、ことあるごとに泣いていた。
その様子を一緒に観ていた母が、ぽつりと「あなたがよく泣くいた理由がわかった気がした」と漏らした。
それについて、なぜそう思ったかを聞くことはしなかったが、母のその一言で、救われたような気がして、その時もやはり涙ぐんでしまった。
初めて母に理解してもらえたと感じた瞬間だった。

物心ついた時から、嬉しいとき、悲しいとき、つらく苦しいときはだけでなく、感情が動いたときに泣くことで、私は心を保ってきたのかもしれない。

人前で涙を見せるのは、やはり恥ずかしい。
涙目になっても、そこをグッと堪えることが多い。
でも、自分ひとりでいるときは、涙が出そうになったときは、そのままにしている。
泣きたいときには泣いて、感情をコントロールしないようにしている。
その瞬間、瞬間に起こる自分自身をありのままに受け入れるために。


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