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短編小説・エッセイ・詩

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Tさんのこと

Tさんのこと

 H警察署から電話があり、ああ、あれかと思った。
 予想通り、不審死した人の身元確認に協力してくれとの依頼。これ、年に数回くらいある。
二人組の刑事さんがやってきたので、夜勤の診療の合間に、医局に上がってもらい、対応した。

 見せられた腐乱死体の顔写真は、変わり果ててはいたが、確かに数カ月前に治療をしたばかりのTさんだった。
 彼のために俺が作った部分入れ歯が、ビニール袋に入っていて、黒

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あの日

あの日

 もう30年以上も前のことだ。あの日のことを思い出すと、今でも心がざわつく。
 招待されていた友人Mの結婚式をすっぽかした。
 理由?正直に告白する。単純に、忘れていたから、だ。

 あり得ないだろ?自分でもそう思う。コロナ禍で習慣になった家飲み中、ふとまた思い出して、妻にこの失敗のことを告白した。当然のごとく、あり得ない、と言われた。
 思えば他にも散々やらかしてきた。就職先の内定を得ていながら

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世界の終わり(b)

世界の終わり(b)

 昨夜はなかなか寝付けなかったが、夜明け近くになってようやく浅い眠りに落ち、目が覚めたときにはすでに朝の九時を少し過ぎていた。
 窓の外は薄暗い曇り空。
 今日、私は銃殺刑に処せられることになっている。一昨日通告され、自宅待機を命じられた。
 昨日は身辺整理に明け暮れた。

 十時になったら、兵士たちがここに来る。
 彼らは私を拘束し、町外れへと連行するだろう。
 荒涼とした広場の隅にたてられた杭

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世界の終わり(c)

世界の終わり(c)

「ところでさ、今のうちに言っておかないといけないことがあって」
 と、それぞれの彼女との声を潜めて語るべき例の営みに関する際どく下世話な話でひとしきり盛り上がった会話に、締めくくりを付け加える、といった様子で、いくらか身を乗り出しながら、顎マスクを元に戻し、声はより一層潜めて、博は唐突にその言葉を口にした。ほとんど呟くように。
「明日の正午、世界が終わるんだよ」
 一呼吸おいて、それから、はぁ?と

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帰宅

帰宅

 ハンドルを握っている妻の表情がいつになく硬い。生真面目ではあるがいつも温和な彼女だから、余計に何かただならぬ緊張感が伝わってくる。
 車は直線の道路を走っている。午後の空は薄暗い曇天で、朧な日差しが傾いてきている。郊外型のディスカウントショップやショッピングモールが点在するエリアを過ぎて、道の両側は雑木林や畑、田んぼばかりになり、平家か二階建ての建物もぽつりぽつりあるが、どれも無個性で、何だか倉

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ごめんね、ごめんね/倉橋ヨエコ「楯」

ごめんね、ごめんね/倉橋ヨエコ「楯」

 男にとって女性は守るべき対象で、もし逆に女性が誰かを守る側であるとしたら、その対象は子供か老人。もし女性が守る相手が大人の男性ならば、それはその男が窮地に陥っていて、女性が彼を守る側にまわらざるを得ないとき…というのはジェンダーレスの今でもなお、ありがちな図式ではなかろうか。
 だから大人の女性が大人の男性を守る、というのはやはりイレギュラーでドラマ性がある。
 40年前、松任谷由実の「守ってあ

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死ぬこと

死ぬこと

 3日前、飼っていたハムスターのハミちゃんが死んだ。2歳3ヶ月。人間ならまだよちよち歩きの幼児だが、ハムスターだと80歳台後半位らしい。
 ハミちゃんはペットショップで980円で売られていた。下の娘の不注意から骨折させてしまい、動物病院に通院した。爪楊枝より細い彼の足を整復固定して治療して、治療費総額5万円くらいかかって骨はくっついたが、足の向きが反対になった。それ以外は特に怪我も病気もせず、2歳

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命の設定

命の設定

 娘の手の中ですやすや寝ているジャンガリアンハムスターのはみちゃん。
 我が家の天使だ。
 彼女の仕事は、寝ることと、食べることと、あとは我々家族に愛玩されること。
 
 彼女を観察していると飽きない。実に色んな動きをする。遊ぶ。そして学習する。
 最初は家族を噛んでたけど、今では全く噛まなくなった。
 大好物のナッツをあげると本当に嬉しそうに食べる。一方で、ペレットは嫌いらしく、食べる時もなんだ

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なぜ、書いてる?

なぜ、書いてる?

 何故、書いてる?大体、書いて何か得することある?お前は物書きでもないし、仕事は他にちゃんとあるだろ?

 まあ。そりゃそうだけど。

 書くのが趣味?

 いや、どうだろう。正直、そうでもないのかも。

 じや、文章、うまいね、と誰かに褒めてもらいたいのか?

 そりゃ褒められるなら、どんなことだって嬉しいよ。でも。別に文章でなくてもいいような気もするな。
 実を言えば、文学賞に応募した経験ある

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世界の終わり

世界の終わり

 以上、春爛漫の高知からの映像でした。番組の途中ですが、ここで臨時ニュースをお伝えいたします。首相官邸からの中継の…よう、ですね。はい。これより菅田部総理の特別緊急会見が行われる模様です。皆さん、そのままでお待ちください。

 「おはようございます。菅田部です。只今から、重大な問題につきまして国民の皆さんに私の口から直接お伝えしたく、緊急会見を開かせていただきます。なお、今から私が皆さんにお伝えす

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覚えていない…

覚えていない…

食事中のこと。
どういう会話の流れだったか、もう既に思い出せないのだが、妻が、立川の成城石井で万引きをした女の子が捕まった現場を目撃したという話をした。6、7年前の出来事だ。
「へえ、どんな感じだったの?」と俺が言うと、妻は少し驚いた顔をして言った。
「え、あなたその時一緒に居たわよ」
「……全然覚えてない。どんな女の子だった?」
「制服着てたわよ。高校生みたいだったよ。沢山人が駆けつけ

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沈黙と偶然

沈黙と偶然

 沈黙村と偶然村。
 二つの村は同じ域内にあって隣りあっている。互いの村はいがみ合っている訳でも、それを禁じられている訳でもないにもかかわらず、住民同士の交流といえるようなものはほぼ皆無だった。村外からの行商人が二つの村を渡り歩くことはあったが、彼らは、それぞれの村で商売のスタイルをガラリと変えざるを得なかった。それらは二つの村の奇妙な掟ゆえのことであった。

 沈黙村の掟は全てにおいて沈黙を守る

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