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和歌山紀北の葬送習俗(7)枕飯

▼今の葬儀場で遺体のそばに枕飯が供えてあったとしても、枕飯はそれが誰によって、どこで炊かれたものであるかという点が非常に重要で、もしかするとその枕飯は「本物」ではないかも知れません。ということで、今回は枕飯を取り上げてみます。
▼登場する市町村名とその位置は『和歌山紀北の葬送習俗(3)死亡前の習俗』を参照して下さい。ほとんどの事例は全国各地にみられることから、掲出している市町村名にあまり意味はありません。

1.枕飯の名称

▼一般的な名称は「マクラメシ(枕飯)」で、これは全国津々浦々に伝わっています。そこで、マクラメシ以外の事例を取り上げてみます。

・「イチゼンメシ(一膳飯)」(和歌山県旧那賀郡粉河町野上:平成初年代)
・「イチゴウメシ(一合飯)」(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)
・「マクラノメシ(枕の飯)」(和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代,和歌山県旧那賀郡田中村:昭和10年代)
・「マクラヤノメシ(枕屋の飯)」(和歌山県日高郡:昭和40年代)
・「オベントウ(お弁当)」(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)
・「ブクメシ(服飯)」(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代)

▼以上から、枕飯には、その具体的な姿(一膳、一合、枕)を反映した名称と、「お弁当」や「服飯」のように枕飯の意味や背景を反映した名称があります。「服飯」とは『和歌山紀北の葬送習俗(5)死忌み』で取り上げた「ぶく」のことで、「お弁当」の意味はのちほど取り上げます。なお、「一膳飯」という名称は遺族らが葬儀で食べる食事を指す場合があり、意味の混同がみられるようです。

2.枕飯の素材と量

▼次に、枕飯の素材と炊くべき分量について。・・・と、ここで大事なことをすっ飛ばしておりました。すなわち、枕飯は故人の死亡直後に炊くものです。以下の事例は全て、死亡直後に炊かれたものであることにご留意下さい。

玄米を炊く(和歌山県旧那賀郡田中村:昭和10年代,和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
玄米を一杯分量った上で炊く(奈良県南部:平成20年代)
生前に熊野参りをしたことのある者は白米、参ったことのない者は玄米で炊く(奈良県吉野郡:昭和30年代)
一合炊く(和歌山県橋本市:昭和40年代,和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳,和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代,和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
一膳分を炊く(和歌山県旧那賀郡貴志川町丸栖:昭和50年代)
茶碗すりきり一杯分の白飯を炊く(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)

▼以上から、枕飯は白米だけでなく玄米が使われることがあり、3つ目の事例をみると白米と玄米との間には何らかの格差があったようです。そして、「一膳飯」「一合飯」という名称があるように、枕飯はまさにその分量を炊きます。炊くべき枕飯は適量でなければならず、量には限度があります。以下の事例をみると、その理由が分かります。

炊いた分が残らないように茶碗に全部盛り付ける(奈良県南部,奈良県吉野郡旧賀名生村,和歌山県橋本市,和歌山県旧那賀郡粉河町,和歌山県旧那賀郡貴志川町丸栖:年代は省略)
鍋釜に一粒も残さないように茶碗に盛り切る(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
山盛りにする(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代,和歌山県伊都郡かつらぎ町平:昭和50年代)
盛り飯にする(和歌山県旧那賀郡:大正10年代,和歌山県旧那賀郡粉河町:昭和30年代)
高盛りにする(和歌山県旧那賀郡池田村:昭和30年代)
ハナツキメシのように盛る(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代)

▼以上のように、枕飯は茶碗一杯分を作ればよく、多少の作りすぎは盛り上げる量を増やしてごまかせます。しかし、明らかな作りすぎはNGです。枕飯には「忌」がかかっており、遺族が食べたり、表に捨てたりできません。枕飯たるもの、残ってはならないのです。
▼枕飯は通常、おぼんに載せられて遺体の傍に供えられます。このとき、何らかの添え物(塩、味噌、梅干しなど)が枕飯と一緒に供えられるのが一般的です。特に、枕飯に味噌を添える習俗は広く一般に普及しており、「ご飯と味噌を一緒に食べるな」という迷信が各地にみられます。

3.枕飯に立てる箸

▼枕飯には、なぜか箸を突き立てます。突き立てる箸は、一般に故人が生前愛用していたものを使います。そして、突き立てる箸の本数と立て方にはさまざまなバリエーションがあり、作法として何が正しく、何が間違っているかを議論することにはあまり意味がありません。

(1)枕飯に突き立てる箸の本数:
1本(奈良県吉野郡十津川村:平成20年代,和歌山県旧那賀郡貴志川町甘露寺:昭和50年代,和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)
2本(奈良県南部:平成20年代)
2本(柿の木の箸と竹の箸の片方ずつを合わせたもの)(和歌山県西牟婁郡:平成20年代)

(2)箸の立て方:
突き刺して立てる(奈良県吉野郡十津川村,和歌山県旧那賀郡,和歌山県旧那賀郡貴志川町甘露寺,和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:年代は省略)
十文字に刺す(奈良県吉野郡野迫川村,和歌山県橋本市,和歌山県伊都郡かつらぎ町平,和歌山県伊都郡かつらぎ町天野,和歌山県旧那賀郡粉河町,和歌山県旧那賀郡打田町,和歌山県旧那賀郡田中村,和歌山県旧那賀郡岩出町,和歌山県旧那賀郡貴志川町北山・丸栖,和歌山県日高郡:年代は省略)

▼以上から、箸を立てる場合と、箸一対の片方を縦に突き刺し、もう一方を盛り飯の上に横向きに置いて十文字型にする場合の2パターンがみられます。また、他地域では箸一対を平行に突き刺す、箸一対を「逆ハの字」に突き刺すなど、表現のバリエーションがさまざまで、細かい部分はやはり作法の問題ではないと考えます。
▼問題は、なぜ箸を突き立てるのかです。直立にせよ十文字にせよ、何らかの呪術的な意味=魔除けであることは間違いなさそうです。故人(霊魂)が枕飯を食べる、もしくはあの世に持参するとして、箸そのものではなく、箸を突き立てるという行為とそのさまがどのような呪術的、宗教的な意味を持っているのでしょうか。たとえば、藤原は箸にはそれを使う人の魂が乗り移るとした上で、枕飯の一本箸は死者が三途の川を渡る架け橋を連想させると述べ(藤原 1988)、押尾と大熊は枕飯が一般の飯とは違うことを表示する意味で箸を立てる(押尾・大熊 1981)と解釈しています。箸を十文字にする意味はさらにミステリアスで、葬送以外の習俗や神事でも棒状のものを十文字にする事例が数多くあり、十文字をひと括りにして意味を追求するのは難しいと考えられます。この件はギブアップにつき、ケースクローズです・・・

4.枕団子

▼地域によっては、枕飯のほかに枕団子を作って供える事例がみられます。

枕飯のほかに枕団子を添える(和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代,和歌山県旧那賀郡池田村:昭和30年代,和歌山県旧那賀郡田中村:昭和10年代)
枕飯と同時に枕団子49個を作る(和歌山県橋本市:昭和40年代)
夜になってから6個作って供える(大阪府河内長野市流谷:昭和50年代)
枕団子は作らない(大阪府河内長野市滝畑:昭和50年代)
・3本の串に刺した団子を供えていたが、今はお菓子に代わった(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)

▼これらのうち、二番目の事例「枕団子『49個』を作る」は、四十九日法要で団子を49個作って供えるという、追善供養としての仏教習俗との混同がみられます。

5.枕飯の意味

▼さて、枕飯という習俗の意味ですが、 枕飯はさきに述べたようにもっぱら故人のためのもので、故人があの世に持っていく弁当と位置付けられます。そして、故人があの世に持っていく弁当としての枕飯は、当シリーズ『和歌山紀北の葬送習俗(3)死亡前の習俗』で取り上げた「故人は死亡直後に熊野三山や善光寺に参詣する」という俗信と結びついていることを示す事例があります。

枕飯は死者が熊野参りをしている間に炊く(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代)
枕飯を炊いている間に故人の霊が熊野の一つ鉦(妙法山)に参る(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
枕飯を炊いている間に故人の霊が熊野三社に参る(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)
故人は死亡直後にまず那智山に参らなければ極楽に行けないので、その弁当として枕飯を炊く(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代)
故人が熊野に参って帰ってくるから、枕飯はゆっくり炊く(和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)

▼このように、枕飯の作り方は故人の霊魂が熊野三山や善光寺に参るという俗信と絡みながら、①霊魂が死亡直後に熊野三山や善光寺に参るので、そのため弁当をすぐに作らなければならない、②霊魂が熊野三山や善光寺に参った後に喪家に戻ってくるのでゆっくり作らなければならない、という二律背反的な意味を持ち合わせています。なお、枕飯について「芯のある固い飯を作る」事例が各地にみられ、これは①の意味と関係していそうです。
▼枕飯や枕団子は、遺体納棺時に副葬品として入れたり、「故人の弁当」として埋め墓に持って行って遺体と一緒に埋めたりする習俗が各地にみられます。

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▼食べ物は、人が生きていく上で非常に身近であるだけに、葬儀、葬式というイベントの要所要所で頻出します。また、故人に対して枕飯や弁当を持たせるという習俗は、霊魂が生きているという観念をそのまま反映していますし、何十年経っても仏壇や墓石に食べ物を供え続けるという行為も、生死にかかわらず食べ物が欠かせないという点で興味深いものです。

🔸🔸🔸(まだまだ)次回につづく🔸🔸🔸


文献

●賀名生村史編集委員会編(1959)『賀名生村史』賀名生村史刊行委員会.
●藤原繁(1988)「箸の文化と割箸の歴史地理:奈良吉野下市の割箸を主として」『兵庫地理』(神戸大学)33、pp34-38.
●橋本市史編さん委員会編(1975)『橋本市史.下巻』橋本市.
●井之口章次(1977)『日本の葬式(筑摩叢書)』筑摩書房(引用p63).
●河内長野市役所編(1983)『河内長野市史.第9巻(別編1:自然地理・民俗)』河内長野市.
●近畿民俗学会編(1959)『大和の民俗』大和タイムス社.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県那賀郡貴志川町共同調査報告」『近畿民俗』82、pp1-28.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(Ⅰ)」『近畿民俗』83、pp3369-3436.
●近畿民俗学会編(1980)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(Ⅱ)民家・民具」『近畿民俗』84/85、pp3438-3444.
●粉河町史専門委員会編(1996)『粉河町史.第5巻』粉河町.
●那賀郡編(1922-23)『和歌山県那賀郡誌.下巻』那賀郡.
●那賀郡池田村公民館編(1960)『池田村誌』那賀郡池田村.
●那賀郡田中尋常高等小学校田中村郷土誌編纂部編(1939)『田中村郷土誌』那賀郡田中尋常高等小学校田中村郷土誌編纂部.
●野田三郎(1974)『日本の民俗30和歌山』第一法規出版.
●野上町誌編さん委員会編(1985)『野上町誌.下巻』野上町.
●野迫川村史編集委員会編(1974)『野迫川村史』野迫川村.
●押尾忠・大熊文夫(1981)『四街道市の民俗散歩:昔の内黒田村』四街道市内黒田民俗愛好会.
●玉村禎祥(1972)「紀州岩出町の民俗―人生儀礼―」『民俗学論叢:沢田四郎作博士記念』pp88-95.
●東京女子大学文理学部史学科民俗調査団(1985)『紀北四郷の民俗:和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保』東京女子大学文理学部史学科民俗調査団.
●打田町史編さん委員会編(1986)『打田町史.第3巻(通史編)』打田町.
●山田慎也(2012)「枕団子と死者の想い」『国立歴史民俗博物館研究報告』174、pp31-42.
●横井教章(2018)「葬送儀礼の出棺について」『仏教経済研究』47、pp113-137.
※各事例に付記した年代は、文献発行年の年代(例:昭和48年発行→昭和40年代)とし、その文献が別文献から引用している場合(=管理人が孫引きする場合)は原文献の発行年の年代を付記した。但し、文献収集の段階で現代の市町村史が近代のそれをそのまま転載している事例がいくつか判明した(例:昭和中期の『●●町史』が大正時代の『●●郡誌』を転載、昭和中期の『●●町史』が昭和初期の『●●村誌』を転載、など)。したがって、事例の年代に関する信頼性は疑わしく、せいぜい「近世か近代か現代か」程度に捉えるのが適切である。

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