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「敵」に対しては「何をしてもいい」という発想(のネットリンチ好き)は今のイスラエルと変わらない、という話

さて、今日は僕が人間を信用する「基準」について書きたいと思う。まあ、改めて書こうと思った「きっかけ」があるのだけれどとりあえずはその「基準」から書こうと思う。

・脊髄反射的なSNSの投稿をしないこと
・後出しジャンケンで負けた方を馬鹿にしないこと
・「リンチ」の快楽を貪っていないこと

この3つだ。

最初の「脊髄反射的なSNSの投稿をしないこと」はさんざん書いてきたし『遅いインターネット』という本で詳しく分析し、その対策まで提案しているのでそちらを参照してほしい。

しかし僕の読者にも、ときどき元記事をロクに読まずに稚拙な(内容を理解していないことを自ら証明してしまうような)投稿をしているのを見かけることもあるので、人間が「自分の意見を認められて気持ちよくなりたい」とか「こだわりのある話題について何か言いたい」という気持ちに抵抗して、しっかり「読む」というのはなかなか難しいのだと思う。あと、やっぱりプライドと実績が釣り合わない人にとって「SNSで毒つくことで自分を賢く見せる」というのは精神の一時的な安定のためにかなり魅力的な選択肢なのだと思う……。しかしそれは「誰もがハマりがちな罠」なのは間違いないので、しっかりスキルの伝授や環境整備という二本柱で対抗していくのがよいだろう。

二つ目の「後出しジャンケン」で負けた方を馬鹿にする卑しさもまた、いまのSNSの構造に起因している問題だ。要はリベラル勢力が選挙で負けるたびに「だからあいつらはダメなんだ」と追撃して右派の歓心を買う言論人やジャーナリストやその支持者のことだけれど、こうした「弱い者いじめ」はあまりものを考える力のない層に「負けた方や弱い方を叩けば自分は強く賢く見える」というメタメッセージを与え、動員する(課金させる)ことが可能になる。こういう商売に手を染める人も、その支持者も僕は軽蔑するしそもそも信用しない。

そして三つ目の「『私刑』の快楽を貪らない」。これが厄介だ。先に言っておくが僕は国家や資本など、支配的体制に対する批判はとても重要というか、今の日本にはもっとも不足しているものだと考えている。裏金問題も、ジャニーズや松本人志への追求もまだまだ「手ぬるい」と感じている。ただ、それとは別のレベルで、普段は「弱い」人々の立場に立って自由や平等を訴え暴力に反対している人々が、自分たちのムラの外の人間、共同体の結束のために「叩いていい」と認定された人には、平気で石を投げているケースが常態化してしまっているように思えるからだ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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