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【掌編小説】流れ星一つ分の奇跡

 母親のことはよく知らない。
 俺が物心つく前からあまり家にいなかったらしいし、気づいた時には我が家はシングルファザーだった。時々来る祖母が母親代わりのような感じではあったが、それでも毎日会う訳じゃ無い。それに祖母は『普通の母親』に比べれば甘すぎたような気がする。いつも菓子や小遣いをくれたから。

 世間一般で言う、母親に反抗したくなる気持ち。
 甘えたくなる気持ち。
 頼りたくなる気持ち。
 きっと俺はそれらを父だったり、祖母だったり、兄、友達、恋人に分散させていたのだろう。だから母親というものが、よく分からない。 

 そんな母から約二十年ぶりに連絡が来た。
 桜が咲き乱れる、春のことだった。
 家に届いた一通の手紙。そこには俺達兄弟に会いたい、と書かれていた。場所と時間も指定されていた。

 六つ上の兄は既に家を出て近所で一人暮らしをしていた。連絡すると

「行くわけねえだろ」

と何故か俺が怒られた。仕事が忙しいのかな、と思ったが俺には関係のない話だ。
 父と祖母は好きにしなさい、という感じだった。

 

 俺は社会人三年目でそれなりに仕事に慣れ、少しだけ仕事の楽しさが分かるようになってきた頃だった。気持ちに余裕があったから、会いに行くことにした。さすがに誰も行かないのは可哀想だとも思ったし。
 指定の場所に向かうと知らない女の人に声を掛けられた。化粧をしているのに顔色が悪いその人は、俺の名前を呼んだ。

「元気だった?」

なんて挨拶を交わし、近くの喫茶店に入った。

「何でも好きなもの頼んでね」

と言われたけど、俺はアイスコーヒーだけを頼んだ。

 母は涙ながらに、今までごめんね、とか、苦労をかけたね、とか、ずっと会いたかった、というようなことを言った。
 俺はコーヒーに手を付けず、困惑が混じった相槌を続けた。

「それでね」

と母が本題に入ると無意識に身構えてしまった。
 薄々気づいていた。何か裏があるんだろう、と。
 純粋に会いたがってくれたと百パーセント信じられなかったのは、変わっていく友達を何人も見たからだ。
 商品を紹介されたり、セミナーに誘われたり、泣き脅しされたり……。
 そんな経験があったから、母もきっとお金とか……生活のことなんかを心配して手紙を出したのかもしれない。それを覚悟の上で会いに来たのだ。

「それで……お願いがあるんだけど」
「はい」
「……握手をしてくれない?」
「え?」
「握手。……ダメかな?」
「良いですけど、何で?」

 握手をするためだけに手紙を出して、ここに来たのか?
 俺の当然の疑問に母はまた目に涙を浮かべ答えた。

「もう一度、自分の子に触れたいと思ったから」

 隠しきれていない顔色の悪さが、残された時間の短さを表している。聞いても、母は大丈夫だとしか答えなかったけど、そう思わずにはいられなかった。
 テーブルの上で握手を交わした俺と母。母は両手でしっかりと俺の右手を握った。冷たさも温かさも感じない、不思議な手だった。そう感じたのは、朝からずっと緊張していたせいかもしれないけど。

「連絡先、聞いても良いですか?」

 気付いたらそう口走っていた。この先も会えるなら会ってみたいと思った。母が、どんな人か知りたい。
 でも母は小さく首を振った。

「ごめんね」

 辛うじて聞こえる声で呟いた。

 

 コーヒーは一口も飲まなかった。
 喫茶店を出ると雨が降っていた。母は隣のコンビニに行って、二本のビニール傘を買ってきた。

「元気でね」

 そう言葉を残して去る母の背中にデジャヴを感じた。母が家を出て行ったときも、こんな風に雨じゃなかったっけ? 違ったっけ?
 俺は母を追いかけるでもなく、ただ新品のビニール傘を見て変な感動を覚えた。
 母親に貰った初めてのプレゼントだ、と。実際は赤ん坊の頃になにか貰ったのかもしれないが、そんな記憶残っているはずもない。
 俺はビニール傘に次々とついていく透明な水滴を、ぼんやり眺めながら帰宅した。


 それから数ヶ月後、母の親族を名乗る人から連絡があった。予想通りと言うととても失礼だが、母の訃報だった。

 俺と兄だけで母の葬儀に向かった。

 この前会ったばかりの人が……とか、自分の母親が……とか色々考えたけど、全てがどうでも良くなった。
 焼香を済ませた兄が廊下で泣き崩れたのだ。
 兄の泣いている姿なんて小学生以来だ。

「クソババア! 自分勝手に生きやがって! クソババア! クソババア!」

 兄は最後に、蚊の鳴くような声で、母ちゃんともらした。
 その言葉を聞いて僅かな記憶が蘇った。
 そうだ、俺もかーちゃんって呼んでいた。
 おんぶされ、兄と母と三人で夜の土手に行って、なんとか流星群を見た。
 でも俺の目からは涙が出ない。兄の目から溢れるのは、憎しみだったり悲しみだったり――愛だったりするのだろう。
 でも俺にはそこまでのものが無い。あの時貰ったビニール傘のように、透明な気持ちだけ。
 泣き崩れる兄が羨ましく思えた。
 母がいなくなった理由も知らず、母との記憶もほとんど無い。俺の感情は、小さく揺らいだだけで終わるのだ。大きく揺らぐことはもう一生ない。
 たとえ母が消えた理由を知っても、きっと変わらないのだろう。


 母の親族から薄いアルバムを貰った。それはセピア色にあせていた。めくると、パリパリパリ、とフィルムが剥がれる音がする。
 見たことが無い写真ばかりだ。でも確かに存在した時間がそこには並んでいる。俺と兄と母が並んで笑った日が、かつてあったのだ。
 俺はアルバムを兄に渡した。兄の方が持っているのに相応しい気がするし、俺にはあの傘がある。写真を見たくなったら兄の家に行けば良い。



 数ヶ月後、

「流星群は雨と重なってしまいそうですね」

とテレビの女子アナが残念そうに言った。

 俺は夕飯を済ませ、玄関で靴を履いた。

「外出るなら、なんかつまみ買って来て」

 父の声が聞こえる。俺は適当に返事をして家を出た。
 外は雨。俺はあのビニール傘を差した。本当になんの変哲もないただのビニール傘だが、なるべく塀や電柱にぶつけないように気を付けてしまう。
 土手に着いた頃には、雨足はもっと強くなっていて、流星群を見るなんて絶望的に思えた。
 でも俺は土手に来て、兄に電話した。

「何?」

 兄の不機嫌そうな声が聞こえる。

「流星群一緒に見ようかと思って」
「はぁ? 馬鹿かよ。こんな天気で見られるわけないだろ」

 相変わらず口が悪いな、と苦笑しながら会話を続けた。
 ほとんどが愚痴だ。上司がうざいとか、後輩が使えないとか、楽して稼ぎたいとか。そんな話をしている内にだんだんと雨が止んできた。
 雲の切れ間で、スッと星が流れた。

「あ」

と二人同時に声を発した。

「見てるんじゃん」

 からかう俺に、兄は舌打ちをした。
 でも奇跡はそれだけ。また雨が降って来て、天体ショーはおしまい。
 俺は電話で兄の愚痴を聞きながらコンビニに行った。

「そういえば」
「ん?」
「母ちゃんって、よく野菜スティック食ってたよなぁ」

 俺は覚えてない。でもしみじみと言った兄の口ぶりから、嘘とは感じなかった。
 俺は一度も買った事の無い野菜スティックを買うことにした。


 

 テレビの前で、もう晩酌を始めていた父に野菜スティックを渡した。父は一瞬の沈黙のあと、ビール缶を野菜スティックのケースに当てた。

「献杯」

 父の静かな声が聞こえる。
 今日は野菜スティックをつまみに、父の晩酌に付き合おうと思う。その前に、ビニール傘を風呂場で乾かさないと。錆びたらショックだし。

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