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尻道楽

年を取ってくるとだいたい話題の中心は"シモ"の方に寄ってくる。"シモ"という大きな括りで表現すると分かりにくいが、私が語ろうとしているのは衛生面の方のシモの話である。つまり、尻のことだ。高齢者といえばシモ問題と言っても過言ではない。介護の現場ともなると、シモ問題の存在感はかなりのものであろう。人間、尻無くしては生きられないのだ。

私がもしも年相応(現在三十歳)のはつらつとした若い女性であれば、自分磨きの対象はファッションやメイク、もしくは自己啓発などになってくるのだろうが、残念ながら年寄りさながらの隠居生活を送っているため、そのようなことに手を出す機会がない。昔から自分はどうも年寄り臭い性格をしていると思ってはいたが、まさか三十歳にしてライフスタイルまで年寄り同然となるとは、人生、何があるか分からないものである。

しかしながら、そんな年寄りくさい私にも何らかの形で自分を磨きたいという欲求だけはまだ残っている。とはいえメイクをする必要もなく、外出する機会もなく、自己を啓発したところで人と関わる機会もないとなると、最終的に興味の対象はやはりシモ(尻)の方に寄ってくる。尻は人生の終着点なのだ。

ここまできたらもう、私は自分の尻をいたわることに心血を注いでやろうと決意した。手塩をかけ、自らの尻が最高の状態にあるよう、尻を愛し、尻をねぎらい、尻を包み込むことに情熱を注ぐのだ。そして、この一連の活動のことを「尻道楽」と名付けることにした。

「尻道楽」とは、もともとは『あたしンち』というマンガに登場した言い回しだ。スーパーでちょっと良いトイレットペーパーを買ったお母さんが、「これぞ尻道楽ね…ふふふ」とほくそ笑んでいた名シーン。そこからインスピレーションを得た活動となる。中高生の頃に読んでから今に至るまで、少し良いトイレットペーパーを使うたびに「これが尻道楽か…」としみじみしていたことを思い出す。

せっかく生まれてきたのだから、道楽の一つや二つあった方がいい。自分の葬式などで「あの人は道楽者でねぇ…」と語られる様子を想像すると、どういうわけかグッとくる。私の中で道楽者はなぜかかっこいいイメージなのだ。

そういうわけで(どういうわけだ)、私も道楽者としての道を歩むことにした。尻道楽という形ではあるが、道楽に生きる者の一員になれた気がして、妙に嬉しく、ニヤニヤしてしまう。道楽者の道楽人生が華々しく幕を開けたのである。

私なりに尻道楽を追求していくと、トイレットペーパー以外にもこだわるべき箇所は様々出てきた。例えば下着へのこだわりはかなり重要である。下着は常に肌に接しているので、一番尻と密接な関係にある。やはり下着の履き心地は見逃せないようだ。

恥ずかしながら、私は二十五歳の頃から家の中ではトランクスを履くようにしている。女性モノのトランクスではなく、もちろん男性モノのソレである。何が楽しくてそんなことをするのかというと、趣味や奇行などではもちろんなく、トランクスは尻に優しいからである。

中学生くらいの頃から私のお尻はどうにもお肌が弱くなり、常にトラブルを抱えるようになってしまった。大人になってもそれは治らず、気付けば半生を最弱の尻と共に過ごしており、皮膚科に行ってもどうにもならず、困っていた矢先に見付けたのが"トランクス"という解決策だったのだ。

私は悩み事の大半を「発言小町」で解決する。発言小町とは人生の諸先輩方が集うお悩み相談掲示板で、「Yahoo!知恵袋」などに比べると、解答の丁寧さと年齢層の高さが特徴だ。そして圧倒的に女性が多い。皮膚科にも匙を投げられた尻の悩みなど、誰に話せば良いかわからない。こういう時こそインターネットが頼りになる。

発言小町を見て回ると、そこにはお肌の悩み含め、尻の悩みがわんさか溢れかえっていた。私のような最弱の尻を持つ者たちが尻を語り、尻に嘆き、尻を論じていた。尻に迷える子羊たちを導くのは、同じ道を歩んだ先達である。彼女たちもまた、赤裸々に尻を語り、尻のあるべき道、尻の通るべき道を説き示していた。

いわく、最弱の尻にはトランクスがいいと言うのだ。トランクスは構造上通気性がよく、おまけに綿100%なので肌にも優しいらしい。私はこの書き込みを100%鵜呑みにして、年寄りしかいないダイエーの男性下着売り場に走り、三枚千円の安トランクスを購入した。

もちろん当時まだ二十代半ばだったため恥ずかしさもあり、「これは夫に買う分…(未婚だけど)」「これは彼氏にあげる分…(いないけど)」などと心の中で呟いていた(年寄りしかいないダイエーのトランクスをプレゼントする女などいるのだろうか?)。

そうして嬉し恥ずかし手に入れたトランクスはとても履き心地がよく、「男の人はこんなに爽快な気分で下着を身に着けていたのか」と羨望の念を抱いた。以降、私はトランクスに病みつきになり、部屋にいる時は必ずトランクスを履くようになった。当時は一人暮らしをしていたので、洗濯してベランダに干しておくと"男性の同居生活感"を演出することができ、防犯にも一躍買っていた。思わぬ副産物である。

ところが現在の隠居生活に突入し、このトランクス天国にも暗雲が立ち込め始めたのである。というのも、普通の綿のトランクス(中学生男子が腰パンしてチラ見せしていたようなやつだ)は両サイドに縫い目がびっちりと刻まれており、最弱の尻を通り越して最弱の痛覚の持ち主となった私には(奇病の影響だ)、些か刺激が強すぎたのである。

尻道楽に生きるものとして、このような由々しき事態はあってはならない。早急に問題を解決し、我が尻を安寧の地へと導かねば。私と母はチーム一丸となって解決策を検討した。今回ばかりは発言小町にも頼れない。なぜなら奇病であるがゆえに、こんな前例はどこにもないからだ。私たちは今、日本初の悩みを解決しようとしている…!今、そのとき歴史が動こうとしているのか…!?

そうして暗中模索の末に導入されたのが、無印良品のボクサーパンツである。この商品は僅か600円ほどにして超良質のコットンを使用しており、綿100%にも関わらず驚くほどによく伸びる。細い糸から作られた生地のようで、薄手で柔らかく、肌馴染みも良い。

よくあるトランクスは「昔ながらの綿一筋!」という感じでハリのある素材感だが、無印のボクサーパンツは「めちゃくちゃ良いTシャツに使ってあるとろっとろの生地!」みたいな(どんなだ)、選ばれし綿という感じの肌触りで、縫い目も無く、もはや履いていないも同然だ。良質のコットンに捕らえられた一対の尻。一度履けばもう虜である。

パンツの虜となった私は、夢うつつになりながら、「尻のためにパンツがあるのではない。パンツのために尻があるのだ。天は人の上に人を作らず。天は尻の上に布を作らず」などとくだらない空想に耽った。それくらい、無印のボクサーパンツの前では、尻⇔パンツ間の主従関係すらも逆転してしまうのだ。

こうして私と私の尻は最強の防具を手に入れ、肌ストレスから開放された。

ちなみにボクサーパンツには太ももに当たる裾の折り返し部分に縫い目があり、これも刺激になるのでハサミで切ってもらった。ずいぶんと雑に切り落とされたため、一度洗濯を終えたボクサーパンツは裾の部分がズタズタになり、野犬に襲われた後みたいになっていた。パンツ一丁で野犬に襲われたらもう、ひとたまりもないだろう。瀕死の状態である。

こうして私は、裾がズタズタのボクサーパンツを身につけ、野犬に襲われたような格好で、今日も風呂上がりに試合後の力石徹(あしたのジョー)の真似をしておどけているのである。

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