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見ることも触れることもできない世界へ -広井良典著『無と意識の人類史』を読む

広井良典氏の『無と意識の人類史』を読む。

人類の歴史は、人間たちの「意識」のあり方の歴史でもある。

広井氏は意識について、それが「"脳が見る共同の夢"」としての「現実」を作り出すものであると書かれている(『無と意識の人類史』p.24)。

これはユヴァル・ノア・ハラリ氏が『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』で論じた「虚構の力」にも通じるところがある。

"脳が見る共同の夢"は「現実」であり、「」の世界、「ある」ものたちの世界である。それに対して「無」とは、意識が、自ら作り出した「共同の夢」の底を破りつつ、その破れのむこうに捉える何かである。

「「無」あるいは「有と無」というテーマは、この世界、つまり「有」の世界の”内部”における様々な現象や法則について探究してきた近代科学の営みが、その探究の最終局面においてたどり着く、文字通り「究極のテーマ」であるはずだ。」(『無と意識の人類史』p.31)

科学は「自然や世界の事象のうち、数式や言語などで表現できる『断面』を切り取って把握」する営みである(『無と意識の人類史』p.23)。今日の自然科学の観測技術・測定技術が捉え、記述することができる事柄もまた、自然そのもの世界そのものの「すべて」ではなく、自然や世界の「一部」である。

この断面を切り取るということは科学に限った話ではない。私たちが現実だとか、自然とはこういうものだとか、世界とはこういうものだとか思っているものは、ある時代のある共同体における知識のシステムの中の集合的な意識の表層に浮かび上がった、隠れ謎めいた「全体」の「一部」なのである。

そうした断面を切り取る仕掛けとしての意識のあり方は、人類の歴史を通じて変化してきた。特に紀元前5世紀ごろに生じた意識の変化によって、人類は意識の底の下に「無」ということを考え、意識するようになった、というのが本書の重要なところである。

「拡大・成長」と「定常化」

広井氏は『無と意識の人類史』の81ページに以下の図を示されている(広井,2021)。横軸が時間、縦軸が人口・経済の規模である。

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詳しい解説はぜひ『無と意識の人類史』を読んでいただけるとよいが、かいつまでん説明すると、右上がりになっている時期と、横ばいになっている時期が、交互に繰り返されたというところがポイントである。広井氏は右上がりのところを「拡大・成長」、横ばいのところを「定常化」と呼ぶ。

人類史の始まりは、図の一番左下、20万年よりさらに前の人類の人口0のところである。ホモ・サピエンスたちはたくさんの大型野生動物を追いかけ、狩っては食べ、徐々にその生息範囲を広げつつ、人口を右肩上がりに増やしていったと考えられる。

ところが、5万年前から1万年前あたりまでの数万年間、狩猟採集社会の人口・狩猟採集経済の拡大が横ばいになる。おそらく繰り返し訪れる氷河期が大型の動物と人類を含む食物連鎖のネットワークを撹乱し、人類は思うように食べ物を増やすことができず、人口も伸び悩んだのである。

かつての主な食べ物であった大型の動物が数を減らしてしまい、小さな動物を苦労して追いかけたり、植物を探し求めるといった、複雑な環境への適応を強いられるようになったのではないかとの仮説を立てられる。この第一の定常化の時代に、人類が大変な苦労を強いられつつ、いかにしてのちの農耕牧畜に至る工夫を凝らし始めたか、スティーブン・ミズン氏の『氷河期以後』から垣間見ることができる。

移行期に生まれる革新的思想

ここで広井氏が注目するのは「成長・拡大から定常化への"移行"期」において、「それまでに存在しなかったような革新的な思想や観念が生成する」ということである(『無と意識の人類史』p.74)。

およそ5万年前にはじまった「定常化①」の時代には「加工された装飾品、絵画、彫刻などの芸術作品のようなもの」が突然出現する「心のビッグバン」と呼ばれる出来事が生じた。食べるものが思うように増えず、人口も増えない横ばいの定常状態にあって、「食べきれないほどの獲物の肉が山積みになっている」「いくらでも獲物が獲れる」といった物質的な豊かさを得難くなった人類は、そこから転じて、集団で頭のなかに思い描くことができる豊かさ(芸術的あるいは象徴的な「意味」の豊かさ)を求めるようになったのではないか、というのである。

虚構や意味、言葉をはじめとする象徴による思考は、目に前にいない獲物の出現を予測したり、その予測の妥当性を仲間と相談したり、動物のいどころや、食べられる植物の在処についての情報や知識を交換し共有する力でもある

こうした「虚構の力」、直接触れたり目にみたりできない、集団の頭の中にある豊かさのイメージに導かれて、日々の活動を律するというやり方は、狩猟採集民たちが大規模かつ継続的に協力協働して計画的に活動することに高い価値を与えたものと考えられる。ギョベクリ・テペの遺跡にある石造構築物などは、その「意味」の表現の極みと言えるのだろう。

ギョベクリ・テペのような農耕牧畜以前の狩猟採集民による「神殿」の建設と、農耕の起源については関雄二氏の『古代文明アンデスと西アジア 神殿と権力の生成』が参考になる。

農耕の開始による拡大・成長

地球は面白いもので「心のビッグバン」を経たご先祖たちが、仲間で協力し合いながら、小型の動物を工夫して捕まえたり、さまざまな食べられる植物を工夫して集めたり、育てようとしてみたりしていたところに、突如として気候の温暖化が起こったのである。

暖かくなったことで作物の栽培がうまくいくようになったらしい。

作物がたくさん獲れるとなると、耕地の近くに定住する生活が合理的なものとなる。

定住生活はたくさんの子供を同時に育てることを可能にし、急激に人口が増え始めた、と考えられる。

こうして人類は、新たな「拡大」の時代に入るわけである。

ちなみに農耕牧畜に関して『反穀物の人類史』という面白い本があるのでご紹介しておこう。

定住農耕の広まりには凄まじいものがあり、一万二千年前から数千年をかけて、メソポタミア、エジプトから、ヨーロッパ、インダス、ガンジスや長江に黄河の流域とその周辺へ、ユーラシアの至る所に萌芽的な農耕地帯が広がるようになる

第二の定常化と「無」の思想

しかし、この農耕牧畜による経済の拡大、人口の拡大は、紀元前5世紀ごろに頭打ちになる。

第二の定常化②の時代がはじまるのである。

増大した定住人口を養うために、森林資源を再生を上回る速度で使い尽くしてしまいったり、耕地の養分を吸い尽くしてしまったり、ということが積み重なっていったらしい。

この定常化②の時期に仏教、老荘思想、「キリスト教やイスラム教の源流となる旧約思想」、ギリシア哲学などが一挙に登場した。

それらは大きく捉えると「無」や「空」、あるいは「有」のはじまり、物質以前、万物の根源に注目する思想である。これについて広井氏は次のように書く。

「外に向かってひたすら拡大していくような「物質的生産の量的拡大」という方向が環境・資源制約にぶつかって立ち行かなくなり、また資源をめぐる争いも深刻化する中で、そうした方向とは異なる、すなわち資源の浪費や自然の搾取を極力伴わないような、精神的・文化的な発展への移行や価値の創発がこの時代に生じたのではないか。(『無と意識の人類史』p.80)

定常化②で、本書のタイトルにもある「」ということに重い価値が置かれることになる。

なお、ここでいう「無」や「空」は、何もない静かな死の世界ではまったくなく、そこからあらゆる「有」を発生させる、創造的で生産的な「無」あるいは「空」である。そういう創造的で生産的な「空」については、下記の記事に書いているのでぜひご参考にどうぞ。

この紀元前5世紀ごろに始まった定常化②の時期は、つい400から300年ほど前まで続いたのである。

産業革命と資本主義、近代の拡大・成長

約300年前から400年前に始まった産業革命以来、人類は空前の物質的な豊かさを享受するようになった。食料の生産が劇的に増大し、人口は爆発的に増大したのである。

この最新の拡大を引き起こした原理が「資本主義」である。上に引用した図の中で「市場化」「産業化」「金融化・情報化」と書かれた資本主義は「「無限の拡大・成長」という原理を内包」したシステムである(『無と意識の人類史』p.65)。

資本主義のもとでは「経済社会あるいは世界そのものを”無限”の存在として捉える」考え方が広まる一方、「世界や人間の「有限性」ということへの認識が大きく欠落して」いくことになる(『無と意識の人類史』p.62)。

"限りない拡大"を目指す志向と、死を忌避し排除するという志向とは表裏一体の関係にある(『無と意識の人類史』p.277)

広井氏はこのように書かれている。

限りない拡大を志向する資本主義のもとでは、個人の生(人生)もまた、限りない拡大を目指すべきもののひとつに数えられることになる。

日々成長し、知識やスキルや健康診断のスコアまでも毎年向上し続け、年収は毎年増え、資産も増え、借りることができるローンの枠も年々大きくなり、不動産を複数所有し…。

資本主義をハッピーに生き、限りない拡大に成功した人生というのは概ね上記のような姿であると「みんな」が思っているのではないか?、とみんなで思っているところが、この資本主義の社会である。

自分はそういうことに価値があるとは思わないよ。」

という人も、自分以外の大多数の人々は拡大し続けることに価値を見出しているのだろう思っている

資産をためてそれを資本にして増やし拡大していくことを目指す活動は、この社会でおおむね「良いこと」のポジションに置かれる。その裏返しとして、資産を貯めることに反する活動(貯めようとしなかったり、せっかく貯めたものを戻ってくるアテのないことに使ってしまったりすること)や、資本を増やし拡大することを邪魔したり、それに反する活動は「悪いこと」のポジションに置かれる。

即ちここには下記のような4項からなる意味分節システムが動いている。

良いこと ー 悪いこと
|      |
拡大し続けること ー 拡大しようとしないこと

こういう具合の四項関係になるわけである。

ちなみに4項からなる意味分節システムの対象単位ということについては下記のnoteに詳しく書いたのでぜひご参考にどうぞ。

さて、この

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