遺書

※この内容は一部事実ですが、作者は生きています。

これは、私の遺書である。

この遺書は私の伝えたいことが伝わるよう、まとめたものである。
私が死ぬ頃には公開されているだろう。
死んでいなくとも、内容が伝わり、意志が伝わればいい。
より多くの人の目にとまって、記憶されていたら嬉しい。
私がどういう思いで毎日を過ごし、どんな価値観で生きていたか、詳細に書く。
小説を読んでいるかのように、読んでほしい。

私が死にたいと思い始めたのは、中学1年生の時からである。
理由は簡単で、成績が悪くて親に怒られたから。
教育熱心な親から逃げるために、毎日毎日、時間があれば自殺を考えていた。
某不登校系YouTuberのように、勉強がしたくないから、宿題をやりたくないから、という理由で自殺を考えていたのではない。
いくら勉強をしてもいい成績が取れなかったからである。
親はそれを「努力不足」だと判断し、私を苦しめた。
親が言うには、普通に勉強をしていたら、普通に授業を受けていたら、定期テストで90点は当たり前に取れると言った。
親の頭の良さや成績はタイムスリップしてみないとわからないが、私は普通に授業を受けても、良くて60点が限界である。
定期テストの平均点が毎回80点や90点で、それでも点が取れないのならまだわかる。
だが、平均点が40~50点のレベルの定期テストで、90点を取る方がレアケースだとは思わないだろうか?
60点でも親は当然怒る。
テストで褒めてくれたことなんて記憶上ない。
毎回、もっと上を目指せだとか、公立高校に受からないだとか、勉強しないとホームレスになるだとか、大声で怒鳴られた。
また、親は怒るとヒステリックになるため、物にあたる。
机の上に置いてあるリモコンや新聞を床に落とし、扉を閉める時もわざとバン!と音が鳴るように閉め、私のことを無視し、イライラする!と怒りながらご飯の支度をするのだ。
私にはそれがたまらなく苦痛だった。
親をどうしたら怒らせないか、機嫌を悪くしないかを常に考え、動かなくてはならない。
私がテストで高得点を取れば怒らないのは確実だが、いくら勉強しようが成績が上がらない。
いい成績を取ったとしても、褒めてもらえないのだ。
もう努力が無駄である。
私がどれだけ勉強をしても、「当たり前」として処理され、勉強ができない子は不当な扱いを受けるのだ。

親に「勉強ができない子は要らない!」と言われ、首を絞めて殺されかけたことだってあるし、「赤信号で道路を渡ったら車に轢かれて死ねるよ」と言われたこともある。
親は、勉強ができない子は要らないと強く思っているのだろう。
こうして親から不当な扱いを受けていたら、中学1年生なのに鬱になってしまった。
病院で診断をもらったわけではないし、独断だが、これは鬱である。確実に。
だって、中学1年生って、普通はドキドキして楽しいものではないか。
小学生と違って制服があるし、友達が増えて、体育祭があって、合唱コンクールがあって、毎日楽しいはずじゃないか。
なのに、親からの勉強の押し付けで鬱になるだなんて、こんな可哀想な人はいるだろうか。
毎日毎日死にたいと考え、定期テストが返された時は泣きながら帰り、家に帰ったらヒステリックな親が待っている。
中学1年生で自殺を考える人は少ないはずだ。
繰り返して言うが、毎日毎日苦痛だった。生き地獄だった。
家にも学校にも居場所がないし、勉強のために生きているから生きる価値も意味もなかった。
死にたいと何回も思ったが、死ねなかった。
カッターナイフで手首を切ろうと思ったのに、持つだけで震える。
大きなハサミを腹に突き刺そうと思ったのに、怖くて怖くて、無理だった。
飛び降りようと思って、手すりに足をかけるだけでもガタガタと震え、死ねない悔しさでまた泣いた。
心は死にたがっているのに、体は死んでくれようとしない。
もう誰か殺してくれよと思った。
殺されてしまえば、サクッと死ねるのだ。
交通事故にあってもいい、通り魔がきてナイフで刺されてもいい。
もう、早く解放されたいと思っていた。
死ねば親から逃げられるし、勉強をすることもなく、苦しみから逃げられる。
これが、私の中学生時代の死にたい理由だが、今はもう大人であり、また別の理由がある。それはまた後で話す。
ここからは、私の「死」についての価値観を伝えたいと思う。

毎日死ぬことだけを考えていたら、私は「死」というものに興味を持った。
「死」というものは魅力的であり、救済である。
先ほども述べたが、死ねば全てのものから解放されるのだ。
また、私は、人間は死んだ後にようやく愛されると思っている。
親だってそうだ。
もし私が中学生の時に自殺をしたとする。
親は散々私に「勉強ができない子は要らない」と言って怒っていたが、自殺をすれば手のひら返しをし、「どうして自殺なんてするんだ!」と言うだろう。
それを怒って言うのか、悲しくて言うのかはわからないが、死ぬということは、それほど人の意見や思考をひっくり返せるということだ。
親でなくても、これは誰に対しても言える。
人は、生きている間は冷たく対応をするのだ。
悩んでいる人がいたとしても、自分でなんとかしろと押し付け、自力で解決することを求める。
だが、その人が自殺で亡くなろうものなら、なんで相談しなかったんだ!、なんで言ってくれなかったんだ!と言う。
このような人間が社会にあふれているんだから、笑えてきてしまう。
生きている間は放置され、他人から突き放され、死んだ後にようやく興味をもたれる。
いじめ問題もブラック企業問題もそうだが、上の人たちは揃ってこう言う。
「今後このようなことが起きないように、見直し、改善を図る。また、残された人の心のサポートをし・・・」
何を言っているんだ?馬鹿馬鹿しい。
それを本人が生きている間にやらなければ、意味がないではないか。
人は、その本人が死んだ後から行動をする傾向にある。
きっと、私が死んだ後も、そのような言葉を発するだろう。
考えただけでも気持ちが悪い。吐き気がする。
きっと私が死んだ後も周りの人間は手のひら返しをするだろう。

そして、まだこんな幼稚な文章では、死が偉大かどうかなんて書ききれない。
そこで、ここからは自殺についての価値観を話していきたい。

自殺が正しいか間違いか、と聞かれたら、世の中の大半が間違いというだろう。
はたして、本当にそうだろうか。
先ほど、死というものは救済だと言った。
自分がどうしようもない苦しみ、辛さ、悲しさ、生き苦しさがあった時に、簡単に逃げられる手段が自殺である。
未遂した時のリスクは大きいが、未遂でも「自殺を図った」という事実には変わりない。
自殺がなぜダメだと言われているかと聞かれたら、様々な理由があるだろう。
せっかくもらった命を自分から捨てるなんて、と思う人。
周りが悲しむから、と思う人。
迷惑だから、と思う人。
理由は色々あるが、これらについて私が思うことを書きたい。

まず、せっかくもらった命を捨てるなんてダメだという人だ。
人間は、生きる権利もあれば死ぬ権利もあるのだ。
自分が生きたいと思えば生きればいいし、死にたいと思えば死んでも構わない。
自分の命は自分で管理するものである。
それを他人から「死んではダメだ」なんて、わがままだとは思わないか。
他人が自分の人生をコントロールし、制御なんてされていたら、ロボットと同じである。
私たちはロボットではない。
他人から死ぬなと言われても、自分は従う必要なんてない。

次に、周りが悲しむから、という人である。
自殺を何回も考えたことがある人ならわかると思うが、自殺を考えているような人に、他人を考えている暇などない。
どうしたら楽になれるか、解放されるかを考えているため、周りが悲しむとかどうだっていい。
あと、自殺を考える人は「悲しまれたい」と思っているはずだ。
自殺を決行するまでの間、辛い過去があり、報われなかったから、自殺という手段を選び、死んだ後に愛されようとするのだ。
先ほど人間は死んだ後愛されると言ったが、これがまさにそうである。
自殺をする人間は、悲しまれるために死ぬのだ。
生きている間、冷たい対応を取られ、放置されていたものが、死んだ後には涙を流され悲しんでくれる。
努力が報われた、夢が叶ったとは思わないだろうか。
周りが悲しむから自殺はダメだ、ではない。
悲しまれるから、あえて自殺を選んでいるのだ。
自殺をすれば手のひら返しをされる。
こんなに立派な方法があるだろうか。
こんなに簡単に幸せになれる方法があるだろうか。

次に、自殺が迷惑かどうかについてである。
これは結論から言うと、場所によって迷惑な場所はある。
自殺はほとんどの方法が迷惑である。
屋上から飛び降りても地面には無惨な死体が残るし、電車に轢かれても駅員はトラウマになるし乗客にも迷惑がかかる。
家で首吊りやリストカットをしても、その死体を処理するのは特殊清掃員だし、物件の評判も下がる。
どこか遠い海や山で死なない限り、自殺は迷惑である。
だがしかし、先ほどの話と同じように、自殺を考えている人にそのようなことを考える余裕なんてない。
自分の死体がバラバラになろうが、誰が処理しようが関係ない。
自分が死んだ後の話なんだから、勝手にやっておいてくれという話だ。
そして、ここまでダラダラ話しておいて申し訳ないが、私が伝えたいことはこんなのではない。

ここで一つ例を出そう。
もし朝、学校に行くため、会社に行くために電車に乗っていたとして、目の前で人身事故が起きたとする。
体はバラバラになり、もう死んでいる。
そこであなたは何を思うか?
学校や会社に遅れるから、ふざけるな!と思うか。
それとも、人が目の前で亡くなって悲しいと思うか。
私がこの社会の異常だと思うのが、前者の方が多いということである。
目の前で人が亡くなっているというのに、遅延した、学校や会社に遅れる、
何をしてくれるんだ、と怒る人が大量にいる。
もう一度言うが、人が亡くなっているのに、だ。
他人がどうでもいいと思っているのか、先生や上司に怒られたりするのが怖いからか、理由はわからないが、あまりにも自分のことしか考えていないのではないか?
親や友達が人身事故で亡くなったら悲しむくせに、赤の他人になった瞬間に「知らない人だから」と片付けて、知らぬふりをする人がたくさんいるのだ。
私はとても恐ろしい。怖い。
先ほど自殺は迷惑だと言ったが、それはあくまでも場所の話であり、本当は、迷惑だと思ってしまったら負けである。
私は人としての、精神面、感情面での話をしている。
言い方が難しいし、矛盾しているのだってわかっているが、迷惑だと思ってしまったら、冷たい対応を取っているのと同じであり、死んだ人が報われないのである。
何回も言うが、自殺を考えている人は報われたいと思っているはずだ。
なのに、亡くなった後も責められては心が痛い。
だから、人身事故が起きた時は「迷惑だ!」とか思うのではなくて、「今までよく頑張ったね、お疲れ様」と声をかけるべきだ。
そして、私がもし人身事故で亡くなったとしても、迷惑だと思わないでくれ。
迷惑だと思われたら、私が死んだ意味がなくなるからだ。
自殺が迷惑だ、と思う人がいるせいで、追い詰められて自殺をする人が増えていくのだ。
自殺はダメだと考えれば考えるほど、それが心の負担になり自殺するのだ。
こういった自殺のループを私は止めたい。
自殺で亡くなるのは、私で最後でいい。
だから、自殺は迷惑ではないと一人一人が思うことによって、自殺者の負担を減らすのだ。

ここまで価値観について話してきたが、どうだっただろうか。
死ぬということは、それだけ生き残っている人に印象づけ、生きていた証を残せる最高の手段である。
そして、伝えたいことを伝えられるチャンスなのである。
私が亡くなった理由も、伝えたいことが伝えたかったからである。
死というものは、今まで生きてきた証を、他人に見せつけることである。
それでは、私がなぜ死んだのかをこれから書こうと思う。

私が亡くなった理由はいろいろあるが、簡単に言うと、死ぬことでしか解決できない悩み事があったからである。
私は新卒で介護職員になり、高齢者の世話をしてきたが、見ているだけで限界だった。
寝たきり、植物人間、管で繋がれて呼吸だけしている人間。
もし、自分が寝たきりになったら「殺してくれ」と思うはずだ。
感情があるのに体が動かせないなんて、悲しいことである。
私は、寝たきりになりたくない。植物人間になりたくない。
70歳、80歳になって、寝たきりのまま死ぬなんて嫌だ!
もちろん、老いたときに全員が寝たきりになって死んでいくのではない。
今まで元気だった人が、自然と眠るように死んでいくこともある。
だけど、そんなことは老いてからしかわからないじゃないか。
いざ高齢者になって、体が十分に動かせない状態になって、死にたいと思った時、
死ねるだろうか?
残念ながら、それは無理である。100%、確実に無理だ。
体が若者の時と比べ劣っているわけだから、飛び降りも飛び込みも不可能だ。
電車に轢かれようとしても、ジャンプ力はないし、周りの人間に緊急停止装置を押されて救出されるだろう。
それと、日本にはまだ安楽死制度がない。
植物人間になっても、管で繋がれて延命させられるのだ。
本人がどれだけ死にたいと思おうが、生き地獄だと思おうが、医者の汚い医療によって延命させられるのだ。
家族が悲しむからとか、生きなきゃいけないとか、周りの勝手な判断によって生きさせられるのだ。
先ほど、「他人が自分の人生をコントロールし、制御なんてされていたら、ロボットと同じである。」と書いたが、これがまさにそうだ。
医療器具がリモコンで、植物人間がロボットなのだ。
植物人間とは、医者や家族、周りの人間のエゴで勝手に生かされ、本人の意思が尊重されない可哀想な人間なのだ。
さて、話が脱線したが、こんな思考の人間が介護職員でいいのだろうか?
高齢者を憐れみの目で見て、「自分はこんなふうになりたくない!」
「早く死にたい!殺されたい!」「管に繋がれて呼吸をしているだけの人間は、生き地獄だ!」
と怯えて、怖くて、ひねくれた思考で、こんな奴が介護をしていいわけがないのだ。
職場の人はみんな優しかった。
だから、みんな「何かあったら相談!なんでも、小さいことでもいいから!」と言った。
しかし、こんな不謹慎な相談を、誰に、どう話す?
話したらクビになるほどの内容だ。
どうして介護職を選んだの、だったらやめろと思われるだろう。
もう我慢するしかないのだ。
この悩み事に関しては、一生解決できないのだ。
私が、寝たきりや植物人間に対してのこの思考が消えるまで、変わるまで、ずっとずっと悩み続けなければいけないのだ。
私は毎日の夜、泣いていた。
「嫌だ、嫌だ、植物人間になりたくない、生きたくない、殺してくれ、殺してくれ」
って、ずっと、ずっと。
こうやって悩み続けることが生き地獄だった。
この悩み事を消すには、死ぬしかないのだ。
「老いたときにどうなるかはその時に考えればいい」とか、
「仕事を辞めればいい」とか、そんなレベルではない!!
仕事を辞めても、ずっと付き纏ってくる問題だ。
老いた時に死にたいと思っても、もう遅いのだ。
それなら、今のうちに死んだ方がマシだ!
何回だって言う、私は植物人間になりたくない!
寝たきりになりたくない、お前らのリモコンによって延命されたくない!
私はロボットではない、私は死にたい、生きたくない!!
周りが悲しむとか、法的にダメだとか、何も聞きたくない!
うるさいから、黙っていろ。
私の命は私が管理するのだ。
お前らの気持ちによって、医療器具によって、私は生きたくない!
私は生きていたらダメな人間なのだ。
この社会に何人もの人が生きているが、私の意見は少数派である。
誰もが前を向いて生きたいと思っているなか、私だけ死にたいのだ。
私のようなひねくれた思考の人は、生きていちゃいけない。
さっさと死んだ方がいい。

そして、死ななきゃ解決しない悩み事は他にもある。
それは家庭環境である。
私は実家暮らしで、父、母と共に3人で暮らしていたが、環境が最悪である。
父と母が喧嘩していて口を聞かないので、空気が悪すぎる。
私に対してはご機嫌のいい母だが、父の前だと無視をする。
もう、これがたまらなく無理だ。
理由もよくわかっていないから、解決しようがない。
正直、別居をするなり、離婚するなりしてほしい。
私が一人暮らしをすればいいのだが、貯金はないし、両親も反対している。
ずっとこの家で暮らしていかなければならないのだ。
この悩み事は死ななくても解決するという声も聞こえてきそうだが、解決するのが何年後かはわからない。
もうずっと、両親は死ぬまでお互いを無視するかもしれないじゃないか。
私の誕生日が来ようが、クリスマス、お正月になろうが、ずっと口を聞かず、最悪な空気で毎日を過ごすのだ。
3人で旅行に行ったり、笑いながら食事をしたりすることもないだろう。
私が死んだ後も、「お前のせいで死んだんだ」と罪をなすりつけ、お互いまた喧嘩をして、口を聞かないだろう。
死なないと解決しないと言ったが、死んでも解決しないかもしれない。
これは両親の問題だ。
私の中学校時代の話は先ほど触れたが、中学校時代と同じ気持ちである。
親のご機嫌とりをしながら生活しなければならない。
どうやったら、両親は仲良くなる?
どうやったら、口を聞くようになる?
どうやったら、また3人で笑い合える??
いくら思考をめぐらせても、私にはわからなかった。
私が何かアクションを起こさない限り、2人は喧嘩したままなのだ。
そのアクションは、生きている間だって本当はできる。
裁判所に相談するとか、いとこにLINEするとか、友達に聞いてもらうとか。
でも、仮に仲直りしたとして、またぶり返したらどうなる?
相談して解決したとしても、また喧嘩したら意味がないのだ。
その度に私がまたアクションを起こして、もう疲れるのである。
いつだって動くのは私だ。
私が行動しないとダメなのだ。
死ぬまでこれを繰り返していたら、どうなるだろうか。
私の心が限界である。
もう、今この遺書を書いている時だって限界だ。
耐えられない、今すぐ死んでしまいたい。
私は私の人生を歩みたいのに、親に干渉していては疲れる。
もう、解放されるためには死ぬしかない。
私が死んだ後、両親が仲直りしてくれるかもしれないという希望を抱きながら、死ぬしかない。
私が死んでもなお喧嘩して口を聞かないのなら、もうこの家庭は終わりだ。
というか、もうすでに家庭はバキバキである。
私が生まれる前も、父と母、祖父、祖母の間で、不妊治療について揉めていたらしいから。
私が生まれたのは母の不妊治療と聞いたが、その時点から喧嘩していたのなら、解決しようがないだろう。
今でも根に持っているのか、その話を持ち出すと母は不機嫌になる。
私が生まれる前から家庭はすでにバキバキに壊れていたと言うのに、それを私が直せるはずがないのだ。
どうしてこんな家庭に生まれてしまったのだろうか。
私が別の家庭に生まれてきていたら、きっと幸せになれたはずだ。
生まれる前から家族がギスギスしていて、生まれてからも教育虐待を受け、大人になった今では毎日毎日「死にたい、死にたい」と嘆いているのだ。

この2つのことが重なって、私は自殺を図ったのだ。
介護のお客さんに対して不謹慎な気持ちを持っていること、それを誰にも話せないこと、自分は植物人間にはなりたくないということ、家庭環境が最悪だということ。
それ以外にもまだ死にたい理由はたくさんあるが、細かく話すと長くなってしまう。
ここからは、私が死んだ後の話をする。

まず最初にキッパリというが、私が死んでも社会は何も変わらないだろう。
社会にはもう期待していない。呆れている。
日本でたった一人の女が死んだところで、社会のルールや常識が変わるはずがない。
ニュースや報道番組で「名古屋の会社員が死亡、自殺か」みたいな見出しで、1日、いや、数十分取り上げられて終わりだ。
なんなら新聞の小見出しのところで取り上げられるだけで、ニュースにも映らないかもしれない。
それくらい、私は生きる価値のない、ちっぽけな人間なのだ。
しかし、私がこうやって長い遺書を書いている理由や、死んだ意味は、確実に存在する。
社会に期待はしていないしうんざりしているが、誰かがこの遺書を読み、共感してくれたり、涙を流してくれたり、社会に対して訴えてくれたのなら、それが私の救いである。
自殺する時、この遺書は実際の紙としてプリントアウトし、飛び込みならその時持っていたカバンに、首吊りなら死体の付近に置いておく。
読むのが親か警察か、マスメディアか、ツイッターの誰かか、はわからないが、確実に人には見られるだろう。
私はより多くの人にこの遺書を読んでもらいたいと思っているが、残念ながら、読んでもらえないかもしれない。
だけど、それなら私の死んだ意味がなくなる。
私の生きた証が、努力が報われない。
それでは困るのだ。
アニメや漫画の見過ぎだと思われるかもしれないが、私はこの社会を変えた、大きな存在になりたい。
一人が自殺したところで何も変わらないのはわかっているが、それでも、社会に何か大きな影響を与えた、勇気ある自殺者になりたい。
そうだ、自殺は勇気ある行動なのだ。
自殺というものは手のひら返し、生きた証を他人に見せつけることができる、伝えたいことが伝えられる、死んだ後愛される、夢が叶う、努力が実る。
自殺を図るものはかっこいいのだ。
だから、私も死んだ後は、「死ぬなんてダメだ」と言うのではなくて、「死ねてよかったね」と言うべきだ!
「ようやく解放されたね、今まで辛かったね、頑張ったね」って、
「自殺って痛くて苦しいのに、死ねてえらいね、勇気あるよ」って!
それが、私の1番かけてほしい言葉だ!
私の自殺だけは、褒めろ。
生きている間に褒められたことがない。
認められてこなかった。
承認欲求が満たされなかった。
誰からも、愛されてこなかった。
だからこそ、自殺だけは褒めて、褒めて、賞賛してくれ。
生きる価値がない人間が自殺をした時、ようやく価値のある人間になるのだ。

そして、私の伝えたいことはまだ足りない。
社会が今どんなふうになっているのか、これからどんなふうになっていってほしいかをテーマ別に書いていく。
私が死んだ後の社会に、何か一つでも影響があり、叶っていたら嬉しい。
それが数日後だろうが、数年後だろうが、いつだっていい。
今から話す内容は、個人で意識して変えられるものと、法的に無理なものとに分けられるが、これを読んでいるあなたがもし変えられると思ったら、意識して実践してほしい。

安楽死制度

これは前にも少し触れたが、日本には安楽死制度がまだない。
それと、安楽死制度というものは、高齢者やガン患者の人に対して行う措置であって、私たち自殺志願者には無関係な話である。
私たちが死にたいと思っても、自殺をするか、他人に殺してもらうかしかないのだ。
これは、私が思うに、不平等だと感じる。
生きたい人が生きて、死にたい人が死ねる社会になればいいのにと思う。
生きる権利もあれば、死ぬ権利もあるのだ。
自分の命は自分で管理するものだと何回も言っているが、安楽死制度がないせいで、自分が死にたいと思ったときに死ねない。
苦しくて、もう生きたくないと毎日嘆いている人が、なぜ自殺でまた痛い思いをしなければならないのか?
そして、自殺をしたら周りから「自殺は迷惑だ!」「ここで死ぬな!」
「死にたいなら、一人で死ね!」と、罵声を浴びせられる。
こんなに不当な扱いを受けるくらいなら、安楽死制度をとっとと認めた方がいい。
安楽死制度がなくとも、「自殺センター」と名付けた、自殺場所を作るのがいい。
死にたい人や自殺したい人が集い、そこで自殺を図るのだ。
部屋には首吊り用のロープが設置されており、首に縄をかける。
手の届く位置にはボタンがあり、ボタンを押すと足元が外れ、そのまま首吊りができる。
なんて便利なシステムだろうか。
これが実際にあったら、誰にも迷惑をかけず、一人で死ぬことができる。
もう周りから、「自殺は迷惑だ」なんて思われることもない。
別にボタンじゃなくとも、単に踏み台と縄を用意した部屋があればいいのだが、
これはぜひ実装してもらいたい。
「自殺がしたい」となった時に、「じゃあ自殺センター行こう」となれば、誰にも迷惑をかけず、一人で死ぬことができるのだ。
自殺した後の死体を片付ける人も、自殺志願者や、死ぬことに対して賛成派の人が行えばいい。
彼らは「自殺は迷惑だ」なんて思っていないだろうから、死体を片付けるのも苦はないだろう。
ここまで話してきたが、これが現実化するまでには何十年もかかるだろう。
私が死んだ後すぐ作れなんてことにはならないだろうから、こんなのもあったらいいなと思うくらいでよい。
生きたい人が生きて、死にたい人は自殺センターに行く。
人身事故が起きた時に、「自殺は迷惑だ!」とブチギレる人、自殺センターができたらもうそんなに怒ることはないぞ。よかったな。
自殺迷惑派の人間がこれでいなくなるのだ。
社会としてはメリットしかないだろう。
飛び込み自殺で電車が遅延することもなければ、飛び降り自殺で他人を巻き込むこともない、家で首吊り自殺やリストカット自殺をしてワケアリ物件になることもない、本当に、誰にも迷惑がかからないのだ。
なぜこんな便利な部屋を、政治家や警察たちは作ろうとしないのだろうか?
私はこんなに天才的な発想をしているのに、これが現実化しないのが悲しくてたまらない。
インターネットで自殺と検索したり、ツイッターで自殺とワードを入れると、
必ず相談窓口とか、ホットラインに繋がるようになっている。
自殺志願者を代表して言うが、私たちが求めているのはこんな馬鹿げたものではない。
私たちが求めているのは、死にたいときにすぐに死ねる場所である。
「誰にも迷惑をかけず、死ねる場所」を求めている。
これを見ているのが警察だか、マスメディアだか、誰かわからないが、私たちはお前らに訴えている。
早く安楽死制度を作れ、死にたいから早くしろ、と。
私たちは相談に乗ってほしい訳ではない。
相談して解決するような悩みなら、死にたいなんて思わない。
私はお前らが憎い。殺してやりたい。
もし殺人が許される社会なら、真っ先にお前らを殺している。
綺麗事を並べ、死ぬことはダメだと勘違いしている馬鹿げた警察官らが嫌いだ。
自殺が迷惑だと言うなら、さっさと安楽死制度を作れ、哀れな政治家め。
生きることが正しいと思っている人は、全員馬鹿だ。
私が死んだ後、安楽死制度ができたり、自殺センターができたりする可能性は低いが、お前らの心を洗脳してやりたいと思っている。
私の自殺を、お前らの心に埋め込むのだ。
ただ悲しいね、で終わらない、何か別の感情を抱かせる。
私の死が、ただの「死」ではないことを、お前らにわからせてやる。

受験・学歴・就活制度

次に訴えたいことはこれである。
日本人はいつからかわからないが、頭の良さ、学歴で人を決めつけ、進学や就職をするという決まりがある。
これはどこの国へ行っても同じだろうが、どうしても許せないことである。
なぜなら、学歴だけでは人の内面までわからないからだ。
日本は昔と比べたら、学歴重視ではなく内面重視になってきているし、「差別のない社会を目指す」という風潮になってきているが、受験や就活という制度を無くさない限りは、これからも永遠に苦しむ人が増えるだろう。
私が中学生、高校生時だった時も、勉強、成績というものに苦しめられてきた。
頭の良い人がトップに立ち、悪い人は不当な扱いを受ける。
これがきっかけで学校内でもいじめが発生するし、家庭でも教育虐待というものが発生するし、いつまで経っても差別や虐待がなくならないのである。
いい加減この制度を無くすか、緩和し、勉強が苦になって自殺する人が減ることを願う。

そして、また話題が変わってしまうが、ここで再度私の感情をぶちまけようと思う。
この遺書を書き始めたのが2022年4月上旬だが、今この段落の文章を書いているのが6月下旬である。
本当は最初のうちに全部書き切ってしまい、すぐにサクッと自殺する予定だったが、数ヶ月経ってしまった。
怖くて死ねないのだ。
本当に死にたいと思っているならこんな長い遺書を書かずにぱっぱと死んでいるが、私の心の中で未練が残っていたため、死ねなかったのである。
死にたい理由は前とそんなに変わっていないが、少し戸惑っていることがある。

職場の人とご飯を食べに行ったり、同期と遊んだり、好きな人と会ったりすることがあったが、その日の夜に死にたくなるのである。
楽しいことがあると、その後に猛烈に病むのだ。
薬を飲んでも抑えきれないほどの不安感に襲われ、自分が自殺したり、殺されている映像、声、全てが頭の中でグルグルと、幻覚のように見える。
今まではただ「死にたい」と思っていたのが、「早く死なないと」と思うようになった。
楽しいことを純粋に楽しめないのだ。
罪悪感に襲われ、心が「助けてくれ、殺してくれ」と訴える。
自分が生きたいのか、死にたいのかすらわからなくなる時もある。
本当は私が生きている間に誰かに打ち明けたかった。
「死にたいです」って言ってしまえたら、もう楽になれる気がした。
仕事の先輩に言いたかったけど、いう勇気がなかった。
「大丈夫?」って返ってくるだろうけど、大丈夫じゃないほどに病んでいるから、
先輩たちもどう対応していけばいいかわからないはずだ。
迷惑だって、思われるのが怖かった。
ひたすらに曲を作って、先輩たちに「聞いたよ、よかったよ」って言われて承認欲求が満たされるどころか、死にたいと思ってしまう。
なんて情けない人間なんだろうか。
「私」という人間が本当に生きていていいのか、先輩たちにどう思われているのだろうか、怖くて、怖くて。どうしようもなかった。
何にも理由はない、ただ死にたくて、鬱が襲ってくるから、対処法がわからない。
先輩たちにはいつも迷惑ばかりかけて、ごめんなさいすみませんってずっと謝っているけど、今では「打ち明けられなくてごめんなさい、何が何だかわからないけど鬱が襲ってきて、死にたくて」って言えばよかったって意味での罪悪感が強い。
私は結局こうやって間接的に伝えるしか手段がないのだ。
勇気がないから言えない、情けなくて、弱い人間だ。

遺書って、終わりがないものに見える。
私がいつでも死ねるように書いているから、これからもまだ何か伝えたいことがあれば書いていくかもしれない。
だけど、私の中では完璧な自殺計画がある。

飛び込み自殺をするならば、「自殺は迷惑じゃない」と大量に書き記したメモをばら撒いて死ぬ。
パッと舞う遺書に、飛び散る鮮血、バラバラになった遺体、なんてインパクトのある自殺法だろうか。
伝えたいことが伝えられる気がした。
それと、死ぬのなら10月18日に死にたいが、限界があるかもしれない。
もしその日にいいことがあれば死なないし、何か嫌なことがあったら死んでしまおうと思う。
健康状態で死にたくないから、死ぬ前に大量に薬を飲みたい。
こだわりがあるとしたらこの辺りである。

長くなってしまったので、遺書はこの文章で最後にする。
私が死んだ理由は色々あるが、伝わっただろうか。
まだ伝えきれないことがあるのが悔しいが、いつまでもこの遺書を書いていたら死ねないので、早く死ぬためにも終わりにする。
私は早く死なないといけないので、早く人生を終わらせる。

生きたいのか死にたいのかわからないままだけど、早く死んで解放されます。
「今までよく頑張ったね」って褒めてください。
「辛かったね」って言ってほしい。
私は生きる価値がない人間だけど、誰かの支えになっていたらいいです。
私の自殺はちゃんとした理由のある自殺です。
それだけわかっててほしいです。

最後に
私がもし自殺未遂をして、生きていたら、殺してください。
私は植物人間になりたくないので、よろしくお願いします。


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