#012-農業者としての祖父の想い出
写真は現在の中玉トマトの様子です。果実が大きくなり、少しずつ色付く準備が始まっています。5月中に今シーズン分の苗は全て定植が終わりました。
来週からキュウリの収穫が始まる予定です。
本日5/27は祖父の誕生日でした。生きていれば98歳になっていた年でしたが、残念ながら7年前に亡くなっています。
今日は私が農業者として最も尊敬する祖父の話を書きたいと思います。
生い立ち
私の祖父は大正13年(1924年)、大阪府内の農村に次男として生まれました。乳幼児死亡率が高い時代で、10人の兄弟のうち3人が1歳までに亡くなるという環境でした。
また小学生の頃、頼りになる長兄が不慮の事故で夭逝してしまいます。
この為祖父は長男となり、家計を支えるために進学を諦め10歳頃から本格的に農業に携わります。
徴兵そして復員
昭和19年、徴兵検査に甲種合格し、大阪第44師団所属になります。出征の際のとても暗い表情が印象的です。
その後は茨城県の山中で空襲から逃げながら延々と塹壕を掘る毎日でした。祖父は農業で鍛えられ身体が丈夫だったため、行軍も肉体労働も率先して行い、中隊のラッパ手を任されていました。
昭和20年に終戦し、運良く誰も殺さず、大きな怪我もなく帰郷します。
終戦の翌年に祖母と結婚し、3女1男に恵まれます。
しかし戦後の生活も厳しく、食中毒により次女を2歳で亡くすという悲劇も経験します。その後も家族の生活のために、夫婦で仕事に邁進する日々が続きました。
晩年の祖父
祖父は何歳になっても毎日畑に向かい、何度も熱中症や心臓発作で死にかけました。歯は全て無くなり手も指もボロボロになり、内臓の手術を受けても仕事は辞めず、それは88歳で心筋梗塞で倒れるまで続きました。
80歳になっても30kgの米袋を2つ両肩に抱えて運べました。その当時私は20歳でしたが、腕相撲をすると全く相手になりませんでした。
仕事以外の時は部屋でニュースを見るか新聞を読むかで、贅沢はせずモノにも興味なく、いつも寡黙で穏やかな表情をしていました。
対称的に祖母はとてもお喋りで、祖父は隣で黙って話を聞いていました。
祖父にとっての農業
祖父はどういう思いで人生の最終盤まで働いていたのでしょうか。
子供たちが独立したあとは収入の心配もなく、お金を遣うこともないので働き続ける必要はなかったはずです。
老後の趣味や健康のためという訳でもなさそうでした。
私は自分が就職する直前に、祖父になぜそんなに毎日働き続けるのかと質問しました。
その時の祖父の表情、言葉の調子を今でも鮮明に覚えています。
いつもの穏やかな表情で、ただ一言「それはな、あたり前のことなんや」と言いました。
当時はあまりはっきりと言葉の意味が分かりませんでした。
雨でも炎天下でも毎日畑に行く、40度を超えるハウス内で作業をし、冬に真水でネギを洗い、身体を傷めながら仕事をする事が当たり前だと祖父は言ったのです。
祖父の言葉の意味
あの会話から10年以上経ち、東洋哲学を勉強していた時にふと「これ、おじいちゃんみたいだな」と思いました。
東洋哲学における「真理」を無理矢理まとめると、「【宇宙の秩序】と【自分自身の内面】が一致すること」ではないでしょうか。
古代インド哲学の梵我一如や仏教の悟り、道教の道など、究極の境地はどれも「すべてはあるがままにある」と自然に受け入れているように思えます。
祖父は恐らく哲学を勉強してはいませんが、数々の苦難を経験したうえで全てが「あたり前のこと」と捉えており、それは悟りの境地に近いものだったのかも知れません。
悟りは体験するしかなく言葉で説明できないため、私は祖父の言葉を理解できませんでしたが、自分も農業を始めるなかで少しずつその意味を感じ始めています。
今も仕事に向かうときに、時々祖父の言葉や表情を思い出します。
自分はまだまだその境地には達しておらず、煩悩に惑わされ様々な不安を抱えて生きていますが、あの言葉の意味を考えると少し元気が出ます。
自分がいつまで農業をするのか分かりませんが、いつか祖父が感じていたものを真に理解できる日が来ることを期待しています。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
[本日の参考文献]
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