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私的文章論

 参議院と二千円札と風圧の足りないエアタオルに共通しているのは、どれも世の中の役に立たないという一事であって、そんな謎々まがいの例を挙げるまでもなく、無くなっても困らないものなど、それこそ世界には掃いて捨てるほどある。身近なところでは、書店の一角を占める「作文術」とか、「ライティング」とか、要するに「文章の書き方」を論じている書物もまた、そんな役に立たない代物の典型ではないだろうか。確かに、段落の始まりは一文字空けるとか、文の終わりは句点で閉じるとか(昨今SNSの世界ではタブーとされているらしい)、文章論以前の、原稿用紙の書き方は、言葉が意思疎通の手段である以上、誰でも知っておかなければならなくて、それは、個性とか芸術を謳う前に、読み手を書き手の思惑通りに読ませる為にも、必要なルールであることを認めなければならない。ただ、それでも世の中には、何を書くべきか悩んでいる、上手な文章を書きたいと願っている向きも多いようで、書店の棚には、「これで小説が書ける」とか、「作家が教える秘密」とか、誘惑的なタイトルが手招きして並び、屋上屋を架すように、平台には幾つもの新刊が積まれているのだから、それなりの需要はあるようで、ただ、冷静になって考えてみなければならないのは、それら文章作法の通りに書いてみたところで、その書き手の、つまりはハウツー本を書いた著者のコピーが単に量産されるだけであるという話であって、言葉の芸術である文学の、それはつまり独創的であるという謂いでの文学が、実用書から紡ぎ出されるはずもない。

 それでは、先人の知恵であるところの文章論には、何も学ぶべきことは無いのか、という話にもなって、それは文章論に限ることなく、小説にしても、論文にしても、あるいは新聞記事にしても、巧みな文章とされる名文には、あまねく書き手が伝えようとしている何某かのメッセージ、思想が宿っているという点にこそ着目すべきで、どれほど語彙が豊富で、美辞麗句を尽くしたところで、メッセージ性の無い文章というのは、気の抜けたビールのようなものである。要は、書き手が世に問いたい、これだけは伝えておきたいという思想があって、初めて文章は文学に、作品として成立するのであって、それを小説として脚色するのか、論文で理詰めにするのか、あるいは記事として事実を端的にまとめるのか、それは外形的な話に過ぎなくて、これは前にも書いたことだけれども、文学というのは、何も小説に限ったものではない。だから、仮に何かを書きたい、と切実に願う向きがいたとするならば、大作家の文体研究など始める前に、先ずはその「何か」をこそ見つけるべきで、必ずしも字引を座右に置いて、徹夜で机に噛り付かなくとも、街を歩くなり、旅に出るなり、取材と言うほどのものではなく、書きたくて仕方が無くなるような、誰かに伝えたい衝動に駆られるような、その「何か」のヒントを探した方が、よほど文学の為になる。詰まるところ、何を言いたいのか訳の判らない一冊の本を書くよりも、明快なメッセージを込めた一節の詩の方が、読み手の満足度は高くなるという話で、仮にそのメッセージ、思想に読み手が共感せずとも、それはまた別の話で、朗々と訴える書き手の姿勢は、自ずと音楽のような調べとなって現れ、蛇行する文体の緩急と強弱が読み手を酔わせ、その心を打つ。

 だから、これは経験から言えることだけれども、書きあぐねている、というのは、上手い表現が見つからないのでも、構成が組み立てられないのでもなく、実は単にメッセージ性が無い、その文章に、どうしても読み手に伝えておきたい思想が無いことに起因するのであって、見方を変えれば、思想、すなわち文章の魂さえ確固として見つけられたのであれば、後は如何ようにも膨らませられて、四百字であろうと、二千字であろうと、その思想を核にして、比喩を使い、事例を挙げて、いくらでも書けるものである。よく文章修業などと言って、名作を書き写したり、カルチャーセンターの添削を受けたり、色々と方法はあるようだけれど、何も修業などと苦行まがいの面白くもない営為に時間を費やさずとも、実は一番手軽に、費用対効果も高く、誰でも試みることの出来る訓練の方法は、何でも良いから一つの対象について、予め決められた字数で一文を書いてみることで、例えば、路傍に咲いた花一輪、これを四百字で書いてみる、あるいは二千字で書いてみる、もちろん忘れてはならないのは、思想を宿すという一事であって、ただ花の色だとか、形状について、見たままの結果を延々と書き綴ったところで、それは事実を言葉、それも字引のような無味無臭の言葉に置き換えたに過ぎなくて、書き手の魂、独創性が感じられない文章は、読み手の心を揺さぶることもない。書き手は、その花にどのようなインスピレーションを得たのか、散り落ちた花びらに人生の悲哀を託す、新芽の若々しい緑に時代の黎明を見る、そうやって、観察日記ではない、文学という芸術が、言葉の中に火を灯し、花と言わず、鉛筆でも、消しゴムでも、眼に触れたモノを即席に書いてみる習慣を身に付けることで、書き始める、作品を創る、という気構え、心理的な気負いは次第に無くなって、やがて書かなければ気が済まない文士の体質になってゆく。

 もう一つ忘れてはならないのは、必ずしも書き手は、読み手に迎合する必要は無いという姿勢で、確かに、職業作家ともなれば、読み手が読みたくなる、時代や社会が求めるテーマを扱わなければ部数が伸びることもなく、版元には敬遠されて、生業として成り立たないのかも知れないけれど、果たして書き手は、自分の意に反した文章を書き続けられるか、という話で、それこそ苦行以外の何者でもなく、書き手にとっても、読み手にとっても、愉しみであるはずの文学が、文が苦になってしまう。何も文章を書く向きの全てが全て、文学賞を目指して作品を書いている訳ではないのだろうけれど、往々にして近年の文学賞は、世相を反映した作品が受賞しているという傾向が見て取れて、多様性とか、ジェンダーとか、LGBT的な背景設定が加点の対象となり、あたかも文学は社会の鏡たらんと気負っているかのような重苦しい作品が好まれているということもまた事実としてある。確かに、誤って学問を名乗り始めた頃の文学まで遡れば、ポストコロニアルとか、クィア理論とか、素人に言わせれば、背伸びして武装した不自然さが芬々ふんぷんと漂った衒学的げんがくてきな文学は、愉しみであるはずの(愉しみでしかない)文学を、かくも難しく、面白くもない話に堕してしまった経緯があって、そうした悲喜劇的な文学史の末裔である現代の文壇が、良く言えば硬派な、悪く言えば説教臭く暗いだけの主題こそが文学であるという見当違いな自負に絡め取られていることもまた、情けない現実としてある。

 それでも、志ある書き手は、文学は学問ではなく、愉しみの為にあるという原点(鉄則)を忘れず、あくまで書き手自身が書きたい、伝えておきたいと感じたこと、文章の魂を、読み手の心に響くよう、出来ることなら美しく、音韻にも気を配って伝えることを心掛け、理論にかぶれず、自身も愉しんで書き続けていれば、その内に文章もまた上手くなるのではないだろうか。そして、たとえ時代遅れの、あるいは独りよがりの主題であろうと、一人でも読み手の心に届き、打つことが出来たのなら、書き手冥利に尽きるというもので、それこそが、文字だけで創り上げられた世界、文学の醍醐味とは言えないだろうか。詰まるところ、この段落が、拙文に込められた魂であり、思想であって、ただ、文末を断定的に言い切ることの出来ないところが悲しい身の上で、未熟な書き手の文章論こそ何の役にも立たないではないか、とお叱りを頂戴するならば、それに返す言葉などあるはずもない。

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