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関ヶ原を歩く

 天下分け目と呼ばれている戦いは世界中に幾らもあって、此の国の歴史の中で当てはまりそうなものは、中国大返しの末に羽柴秀吉が明智光秀を討った「天王山の戦い」か、その秀吉恩顧を旗印に掲げた石田三成を徳川家康が滅ぼした「関ケ原の戦い」くらいではないだろうか。同じ天下分け目と言っても、前者が一対一、光秀と秀吉(厳密には織田信孝らを含めた連合軍)の戦いであったのに対して、後者は、文字通り全国の諸大名を東西陣営に分けて争った、実に壮大な規模の戦闘であったところが大きな違いで、ただ共通するのは、天王山も、関ケ原も、たったの一日で勝敗が決したことである。一六〇〇年十月二十一日、道路も、鉄道も無い、インフラの全く整っていない、今から四百年以上も前に、東西両軍併せて二十万とも言われる軍勢が集結し、雌雄を決した関ケ原という土地を実際にこの眼で見たくなり、早春の関ケ原駅に降り立ったのは、平日の、よく晴れた午後の三時頃のことで、きっと日本人の誰もが知る地名ではあるけれども、ヒト影まばらな、誠に長閑のどかな地方の駅だった。現在、関ケ原駅の乗降客数は、年間千人を割っているというから、有史以来、この場所に最もヒトが集ったのは、今という人口飽和の時代でなくて、あの、四百年前の一日だったはずで、早朝から関ヶ原一帯は、いきり立つつわものたちの呻き声と、馬のいななきに満ち満ちていたに違いない。

 関ケ原は盆地である。奥州の上杉攻めから一転、西にとって返した東軍を率いる家康は、関ケ原を東西に貫く中山道に沿って軍を進め、盆地の東、桃配山に陣を敷く。その数、直属の三万騎に加え、麾下譜代の諸将の他、三成憎しの感情から東軍に加わった諸侯が四万数千、合わせて東軍の総勢七万から八万余。対する西軍は、豊臣五奉行の一人、三成を実質的な指揮官として盆地の西端、笹尾山に寄った直属六千の他、名目的な総大将で、当日は大坂城に在った大老、毛利輝元の名代である養子の秀元麾下二万数千を筆頭に、西国大名を中心とする諸侯が八万、合わせて西軍の総勢十万余。この、史上最も名高い会戦の面白いところは、その陣形にあって、数で優位を占める西軍が、盆地を取り巻くように周囲の山々に布陣して東軍を迎え撃つ、いわゆる鶴翼の陣を敷いたことは兵法の常道であるからともかく、数で劣る東軍が、西軍の陣地に距離を置くどころか、先陣を務めた福島正則を頂点とする魚鱗ぎょりんの陣を、盆地の中央において組んだことで、朝の六時頃に双方が布陣を終えた時、本隊である家康の陣も含めて、東軍は完全に西軍に取り囲まれる構図となっていた。しかも、家康が本陣を置いた桃配山(標高百メートル)の後背地である南宮山(標高四百メートル)には、西軍最大の兵力を擁する毛利勢が陣しており、仮に毛利勢が山を降りて中山道を塞ぐようなことがあれば、東軍は退路を断たれ、完全なる袋の鼠に陥るという有様で、後世、この陣形図を見たドイツの軍人メッケル少佐は、言下に「西軍が勝つ」と断定した。

 関ケ原は全体が戦場のようなもので、それは確かに、二十万ものヒトが盆地一杯に広がって生きるか死ぬかの大勝負を演じたのだから無理も無い話で、家康、三成はもちろんのこと、両陣営の名だたる勇将の陣地跡、あるいは戦没地を示す石碑やのぼり旗が、歩いてみて判ることには、至る所に散在していて、とりわけ興味深いのは、東軍の総大将、家康の陣地が、開戦当初に布陣した桃配山から、戦況の推移に従って位置を移した、より前線に近い場所へと陣替えをした、ということであって、最後に陣を敷いたのが、現在の古戦場記念館の辺り、名前も「陣場野公園」の中に碑が建てられている。公園から周囲を見渡せば、それは関ケ原盆地のほぼ中央、敵方の西軍諸将が陣取った山々から、真ん中に見下ろされる場所に位置していて、その一角、松尾山の小早川秀秋は既に東軍に付いて家康に与することを明らかにしていたけれども、まだ、南宮山の毛利勢は動かず、いつでも背後を衝かれる危険に晒されていた。要は、その大胆不敵な家康の動きの意味するところは、毛利勢が参戦することはないと予め知っていたからであって、実際、毛利一門の吉川広家を通じ、宗家の本領安堵と引き換えに戦闘不参加、傍観は約束されていたから、家康は後顧の憂い無く、陣を最前線まで進められた訳で、結果、否、初めから西軍の主力たる毛利(二万数千)の中立、また小早川(一万五千)の内応を承知の上で開戦に臨んだ、表向きは劣勢の東軍も、実は多寡逆転して、勝てる戦いを自信満々で始めたということである。

 だから、局地的に言えば、一六〇〇年十月二十一日に関ケ原で展開した戦闘は、天下分け目の戦いでも何でもなくて、そのずっと前から家康が仕組んでいた内応工作、調略を仕上げた日というに過ぎなくて、どうしても「天下分け目」という表現が使いたいのであれば、吉川広家が家康に対して毛利に二心無しという証文を提出し、小早川秀秋が家康の提示した恩賞に眼が眩んで同心し、上杉景勝を挑発して決起させ、開戦の大義名分を作ることが出来た日、それら家康の企てが成就した日を以て天下は家康へと分かたれた、天下分け目が成った日と言えるだろう。

 蛇足ながら、どうやら学校では、関ケ原の戦いに勝利した家康によって、豊臣家は大きく減封されて六十五万石の一大名に転落したかのように教えられているようだけれど、それはいかにも誤解を招く、過程を無視した結果論に過ぎなくて、何も勝ちに乗じた家康が直接的に豊臣家の所領を奪った訳ではないし、秀頼幼少と言えども、まだまだ建前上は家康は豊臣家の臣下であって、将軍にもなっていない家康に、主家の領地を削るような力(名目)は無い。だから、より正しく理解する為には、豊臣家の経済基盤を知らなければならなくて、秀吉以来、豊臣家が領する土地は、摂津・河内・和泉など、大坂周辺の国々に過ぎず、それでも二二〇万石という収入を誇ることが出来たのは、全国に散らばる金山や銀山、また博多などの貿易地に代官を置き(太閤蔵入地と呼ばれる)、本当はその土地を治める大名に入るはずの収益を上納させていたからに他ならず、言うなれば、面としてでなく、点からの収入によって富を蓄えていた訳で、二二〇万「石」というのは、それら収入を米本位に換算した表現に過ぎず、何も二二〇万石の米が獲れるだけの広大な、面としての所領を有していた訳ではないという話で、だから、勝った家康が、西軍に付いた大名の所領を没収、東軍の大名に宛がい、あるいは転封させるなど、前例の無い規模で大名を動かし、列島改造を実行したことで、豊臣家のライフラインであった代官制度は、その領主交代の混乱の中で機能不全に陥り、太閤蔵入地と大坂とのパイプは寸断され、結果的に豊臣家は百五十五万石分の収益を吸い上げるシステムを失い、あたかも家康によって土地を取り上げられたかのように見えた、というのが、事の真相である。だから、豊臣家からすれば、いつの間にか稼ぎが無くなった、全国から上納されていた収益が届かなくなり、気が付いたら蔵入地も代官も消えていた、という魔法のように鮮やかな、主家に対する家康の巧妙な仕打ちで、ただそれは、秀吉が存命中、そうした脆弱な収益構造しか整備することが出来なかった、その課題が顕在化しただけのことで、カリスマ的な支配者であった秀吉という存在に頼り切った統治機構は、秀吉の死と共に、既に破綻していたとも言えるだろう。

 一世一代の大勝負に負けてしまったばかりに、石田三成は凡将の烙印を押され、戦い方を知らないと馬鹿にされることが多いけれども、よくよく考えてみれば、位階は従五位下(家康は正二位)、しかも奉行の身ながら、豊臣五大老の内、三大老(毛利・上杉・宇喜多)までも動かし、全国大名の半分を取り込み得た、表向きは家康に伍する陣営を短期間に築き得たのだから、その手腕は評価されるべきで、いくさとても、これは実際に関ケ原を歩いて判ったことだけれども、平面のみならず、高低、立面においても、東軍を包み込み、数も優勢、その布陣に落ち度があったとは(これも表向き)見受けられず、メッケル少佐でなくとも、勝負あった、西軍の勝ちと見るに何ら不思議は無い。ただ、亀の甲より年の功とはよく言ったもので、相手が悪かった。戦国の真っ只中に生まれ、信長から学び、信玄としのぎを削り、そして秀吉と丁々発止、天下を競った百戦錬磨、海千山千の老獪な家康と相対しては、一枚も二枚も家康の方が役者が上で、三成は戦う前から、家康の人望と調略、情報戦の前に敗れていた。要は器の大きさが違ったのであり、それは仮に毛利輝元(家康よりも十歳下、従三位)が大坂から参戦したとして、趨勢は変わらなかったであろうし、同格の前田利家(家康よりも四つ年上、没年時は従二位)が存命であったなら、せめてこの戦い自体を避けることくらいは出来たのかも知れない。

 つわものどもが夢の跡。実際、三成の本陣があったとされる笹尾山の懐に立ち、眼前に広がる関ケ原の盆地を眺め渡せば、左翼に伊吹山系の峻険、右翼に小早川が陣する松尾山、そして正面、家康本陣の背後には毛利勢がひしめく南宮山と、水も漏らさぬ布陣で東軍を包み込み、圧倒している様子が手に取るように判るもので、ひと度、戦いが始まれば、西軍の勝利は疑いなく、笹尾山からの眺めは、三成でなくとも、ほくそ笑むに十分な舞台であったと言えるだろう。だからこそ、開戦から僅か数時間、昼過ぎには雌雄が決し、半日で十万余の西軍は瓦解、散り散りになって潰走し、あたかも東軍を包んでいるように見えた伊吹山が、今や己の逃げ道を塞ぐ壁のようになって、三成の退却をはばんだ。なぜ、負けたのか、走りながら、いや、おそらくは最後(最期)まで三成には判らなかったのかも知れない。それは、戦後、家康の差配で、いつの間にか蔵入地を失い、斜陽の道を転落していった豊臣家と同じことで、大局観の欠如として片付けるには、あまりにも致命的な情勢判断の誤りと言わざるを得ない。厳島の戦いに散った陶晴賢、桶狭間の戦いに敗れた今川義元、滅び去った者たちに共通する話で、負けるはずの無い者が負ける時、それは戦いの前に負けているものである。

 大坂の空が紅蓮の炎で染まり、豊臣秀頼と淀殿が家康に追い詰められて自刃するのは、関ケ原の戦いから、十五年後のことである。

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