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「怪物」鑑賞直後のなぐり書きレビュー

 この作品は第76回カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞している。さらにクィア・パルム賞にも輝いているので、本来はLGBTQをテーマにしているのかもしれない。だが、私にはそれはモチーフのひとつにしか思えなかった。

 キャッチコピー「怪物だーれだ?」で登場人物の誰が怪物か?の謎解きと見せかけて、「怪物とはあなたたちのことですよ」と観客をドキッとさせようとしてるんじゃないの?と穿って観に行ったのだが・・・

本当にすいませんでした!

 スクリーンの中に怪物はいなかった。誰もが大切なものを必死に守り、失い、諦め、それでも生きていた。きっとお客さんの中にも怪物なんていなかったと思う。

怪物とはなんなのか?

 私は怪物とは”真実”なのだと思った。客観的な”事実=FACT”がある。だが、そのすべての側面、内包するすべてを知ることは難しい。よく、物事には表と裏がある。あるいは外と内があるなどと言われるが、そんな単純な二元論ではない。

”事実”の
どこを見るか?
どこから見るか?
誰が見るか?
どんな心情で見るか?
どんな先入観を持って見るか?

 気の遠くなるような組合せによってひとつの”事実”から人の数だけ”真実”が生まれる。100%まっさらでフラットな目で、360°全方位から物事を見ることなど不可能だ。

 人は自分が信じる”真実”という怪物に抗えない。

 ”怪物”と言う言葉の意味は「正体のわからない、不気味な生き物」だ。それは得体の知れぬ巨大な力で事実を歪め、脚色し、増殖し、連鎖していく。ネットの世界ではこう言うことがよく起こりがちだが、この作品ではネットは一切登場せず、家庭や学校や地域のリアル社会に何体もの怪物が跋扈していた。

 ”真実”と言う怪物に立ち向かう唯一の武器は知性や客観性なのかも知れない。自分にとっての”真実”が他の人にとっては全く違うものなのではないか?と俯瞰して見ることでしか”怪物”の正体を見ることはできない。それは単なる想像に過ぎないかも知れないが。

 自分だけの”真実”は、言い換えればただの”思い込み”。怪物に真っ正面から睨め付けられ身動きできなくなっている状態だ。どうしたって全貌を正しく見ることはできないけれど、それでも出来る限り視点を変えてみる。

 そんな悪あがきが、案外、差別や偏見に満ちた社会や意見の違う他人を理解し歩み寄るための第一歩になるのかも知れない。

 エンドロールの後、近くにいた高校生くらいの女の子たちは「意味がわからん」「難しすぎ」と話し、その中の1人は「胸糞わるッ!」と吐き捨てた。30代くらいのカップルは「ホラーだったね・・・」と苦笑いしている。

 同じ映画を見たのに感じ方はそれぞれに違う。それを多様性という光に変えるか?それとも怪物にしてしまうのか?と最後の最後に問われたような気がした。

 私は、この作品がちっぽけな人間に向ける優しい眼差しを感じ、ちょっと清々しい気持ちで劇場をあとにした。

最後まで読んでいただきありがとうございます。
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