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”強がり”という困った性質

はじめに

さて毎回恒例だが、最初に読者の皆様へのお断りがある。これは私と友人との交換日記である。そして、せっかくやるならとそのついでに公開しているにすぎない。どうかその点ご理解の上、お読みいただければと思う。

ぬか漬けのを読んで

さぁ、それでは今回もさっそく始めよう。まず前回の彼の記事について。タイトルは「小説」だった。
小説~妄想癖を満たす夜更けの時間~|ぬか漬け|note
モウソウヘキ。君が言うからなんともいやらしく聞こえる。だから普通に歩いているだけなのに、駅中で職質されるんだ。話を戻すが、彼が小説を読み始めたきっかけは学校の朝読書だとか。そんなのあったなーと懐かしい。また彼はいかにコスパよく多くの文字数を読むか考えて小説を読むようになったというから恐ろしい。一方私はとにかく活字アレルギーだったから、朝読書をしているふりをしながら、周りの人間観察をしていた。じっとしていられるやつ、していられないやつ。同じ教室にいろんな人がいて、それはそれはたいそう面白かった。(いつか教室という題名で話を書いても面白そうだな。余談だが、私が好きだった女子は分厚いハリポタや青と白の表紙の小説をいつもきれいな姿勢で読みこなしていたのをよく覚えている。その子が好きすぎて図書委員に入ったし、同じ本を借りて一生懸命読もうとするも難しくて読めず、とりあえず共感している風に話したりもしたくらい。いやーなんて健気。)
 そのあと彼は、自分が小説を好きになった背景を深堀る。彼曰く活字という情報の不完全さが彼にはちょうどよかったとか。確かに映像などに比べると解釈の余白という点においてはゆとりがあるようにも感じる。それともう一つは誰にもじゃまされないという点。すべては彼の脳内処理で完結するわけだから、その解釈は自分の好き勝手であり、周りの視線を気にする必要はないという。いったいどんな過去があるとそこまで周りを気にするようになるのか気になるところだ。いつかその点もっと深掘りをして欲しい。そして基本的な読者が私に限られるこの交換日記という場所で周りの目を程よく気にしないで好き勝手暴れるためのリハビリになるんじゃないかとか思っている今日この頃だ。とはいえ安易に自分の友人にnoteのアカウントを教えてしまうあたりが不可思議であろう。まぁ暴れようが暴れまいがどちらにせよ自分の好きを突き詰めたり、ちょっとした悩みとかを今の感情に素直にもっと話してみても良いのではなかろうか、なんて思った。

”つ”………強がる

さて、それでは毎度長くなるが私の番だ。彼は前回「小説」であったから、私は「つ」で始める。つ……
ツ?積み木、佃煮、通勤、、、ツーリズム!!!いや、ツーリズムで書いてみたけどもまとまらない。よし、決めた。
ちょっと無理やりなのだが「強がる」で行こう。この”強がる”がとにかく私の良くないところなのである。そんな自分の良くないところが最近また表れてしまったので、自戒の意味も込めてここに記したいと思う。

また”強がる”

 いま私は就職前の研修の一環として、とある店舗でアルバイトをしている。そこは衣食住の三分野がそろった小売店で、店舗の規模も神奈川県で有数だ。働く人もマンモス学校の一クラス以上いて、はじめましてを全員にちゃんと言ったのかあやしい…。なんならちょっとめんどくさくてある時期から言ってない。年が明けてからの新年のあいさつもまたしかりである。そんな今までに経験したことがない規模の職場に加えて、覚えることも盛りだくさんだ。結局新しい職場に行くとやっぱり仕事って基本的には一から覚えなおしだなと思う。今まで身に着けたことも多少なりとも活きなくはないが、場所が変われば一旦基本のきからだ。そんなことは重々承知しているのだけど、私は大学四年生で、周りのアルバイトは大学二年生や三年生が主力。同じようなタイミングでアルバイトとして入ったのは入学後ほやほやの大学一年生たちで、あとは何年もバリバリパートとして働いている鉄人たち。そりゃあ焦るでしょうよ。日々いろんなことを教えてもらいながら、早く自分も役に立ちたい。年下にも負けず、年上らしく頑張りたい。ましてやこれから社員になる身なのだから頑張らなきゃ。そんなことを考えて、焦っていた。
そして今年に入り、自分なりにどれくらいの業務習得が進んだのか整理する機会を得た。するとどうだろうか。まぁこれはできるっしょって強がる自分が顔を出す。こんなことできて当然だろう?って声をかけてくる。そして自分は、そりゃあもちろんと答える。でも内心はおびえている。自信はない。強がり続けるということは背伸びをし続けるということでもあり、背伸びは永遠には続かない。そういうことはこれまでにも身をもって知っている。

一番最初に強がったとき

 一番最初は多分小学生のそろばん塾である。小学一年生くらいからはじめたのだが、いつも帰りにそこのおばちゃんから飴玉や十円のチキンラーメンがもらえるのが楽しみだった。最初こそ純粋にうまくなるのが楽しかったのだが、そのうち宿敵が現れる。小学三年生の頃、同い年で仲の良かったヤツが一瞬で同じ級に追い付いてくる(そろばんは10級から10段くらいまである級と段位制だった)。私が二年くらいかけて三級になったのを、ヤツは飛び級して一瞬で三級にものの半年くらいでなっていた気がする。本当は自分も、彼ももうちょっと時間がかかっていたかもしれない。とにかく自分とは比べ物にならない速さで追いつかれて、翌年には追い抜かれてしまっていた。よりによって仲の良い友達だったのもありとにかく悔しかった。本当。
 何とかうまいことやって、自分も追いつけないだろうか。多分このことからそう考えるようになった。なんとかしてアイツに勝てないか。ちょっと余談だが、野球においてもヤツとは同じチームでプレーしていて、レギュラーを争っていたりと何かと”競争”や”勝ち負け”という言葉がちらつく頃だった。でも結局彼に追い付くどころか、彼の背中は遠くに行ってしまった。うまくいかなくなったそろばんへの足はどんどんと遠のいてしまった。
 そのまま翌年には別の街へ引っ越すことになり、この争いは急に終わる。だがその引っ越し先でも、別の形で強がりが顔を見せる。うまく自分から声を掛けられない。だから、一人で何かをしているふりをする。そのせいで最初は完全になじめなかった。以前よりも田舎とされる街に移ったことで、前の街へのプライドを内側に抱えて日々を過ごしていた。別に自分から話しかけなくたって、誰か物珍しがって話しかけてくれるだろう。そう胡坐をかいていたがために一緒に遊ぶ友達を見つけるのには苦労した。他にも神奈川にはなかった遊びなんかのルールをつい知ったかぶりしてしまうともうわからないまま一緒に過ごすしかない。それはそれは楽しくなかった。

強がって、失敗して学んだこと ”3つの教訓”

とにかく他にも強がった(知ったかぶり、できるふり、ごまかす等含む)過去を挙げたらきりがないのだが、その中で学んだことがある。
教訓1
「強がっても強くなれない」

 まず何よりも強がっちゃうあなたはこれを肝に銘じるべきだ。できるふりをしたり、なんとなくやっちゃったりすると、とにかく全く成長しない。物事がうまくいかないときは、たとえ長年の経験を得ていたって初心に立ち返る必要がある。そうすればきっと原因が見えてくるのだ。強がるということは、本質の正反対。表面をどれだけ塗り固めたとて、中身はスカスカなのだ。ではどうやって立ち返るか。もし立ち返るべきものが見当たらなければ、情報収集をするに限る。調べる。読む。聞く。何でもして、原因を探し出すのだ。

教訓2
「強がらないために大切なのは”わからないから教えて下さい”の一声」
強がっちゃう時、とくに顕著にみられるシチュエーションが”わからない”に直面した時だろう。そんな時はちょっと怖いかもしれないが誰かに勇気をもって助けてもらおう。結構聞けばちゃんと優しく教えてくれる。みんな想像するほど怖くない。とはいえそのやさしさに甘んずることなかれ。何度も同じことを聞くということは、次第に他人から自分への不信へとつながる。大切なのはメモを取り、振り返れるようにするということである。メモは自分を助け、自分の成長を支え、次に誰かに教えるときにも役に立つ。それだけじゃないが、とにかくメモだ。メモってさえいれば、あとでそれについて考えることもできる。とはいえメモはメモリー(記憶)であるからして、記憶されないような管理をしていては意味がない点は決して忘れてはならない。

教訓3
「強がらないということは謙虚であるということ」

 そして最後に伝えたいのは、強がらなければ謙虚であることができるのだ。謙虚であることにどんな意味があるかって?まず何より自分が成長できる。別に成長を求めないって?そんな人でも謙虚であることは信頼につながる。ちょっと信頼がいらないっていうのはどんなシチュエーション顔もいつかないのでこの辺りで勘弁してほしい。話を戻して、そんな風に信頼を得つつ、謙虚である結果として一歩一歩を着実に歩みながら前進することができるし、自分に自信を持てる。私は長らく自己嫌悪の思いに駆られていた。でもそんなもメンタルヘルス的に風通しが悪いし、なにより楽しくない。せっかくの人生楽しく豊かに生きた方がたぶんいいから、その為にも強がるってのは遠回りだ。謙虚であれば、素直で在れるし、誠実で在れる。自分の限られた生きる時間を無駄にしないためにも、強がらず生きていこう。きっとそうすれば、楽しく、自分に自信を持っていきていくことができるから。

おわりに

 これを書いていて再三思うのは、自分のゼミへの向き合い方だ。あれは反省しなければならない。やってこともないこと、まだできないであろうことをそのままに突っ走ていたあの当時。そりゃあ先輩や教授のOKが得られるわけがない。あれは強がっているということにさえ気が付いていなかった、強がるということの最悪版であろう。私自身ローカルに飛び込んで色々やってきたつもりでいた。だから多少なりとも自信もあったし、なんでもやればできるとおもっていたが、やっぱりそんなに甘いわけがない。きちんとした質を保ったものを作るためには、その作り方がわからなければわかる人に聞いたり、自分で調べたり、何かを参考にした上で形作っていく。そうあるからこそ時代の変化に合わせた良いものを生み出すことができるってものじゃないか。おまけに過去の先人たちの取り組みを振り返って作ったとなれば、それは一人で作ったのではなく、時を越えて過去の先人との共同合作であり、最大の尊敬の表しかたであろう。どれほど自分が今まで横柄で、不遜で、高慢で、傲慢だったことか。多分去年の毎日読書とかもそういう謙虚さ、誰かに教えを乞う姿勢とかがみられるなら、”いいね”に値したんだろうな。もう繰り返さない。そう心に決めて、一歩ずつ歩み直したいと感じる。

ps,友人へ 取りやめた原稿”ツーリズム”を書いていた時に思い出した。
だっ!!!!てか、水曜どうでしょうのバイク旅東日本編の世界の歩き方買い忘れた!!!!!!!ショックすぎる。(涙)調べれば転売対策だろうか。多くがリアル店舗のみでの販売になっていて買えぬ。明日の朝にでも電話かけてみるかな…。SHOCK!!!!
→ちなみに在庫は見つからなかった。友よ。日本版貸してくれえ。乞。








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