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劉備と諸葛亮 カネ勘定の『三国志』 【読書感想】

日本で人気の「三国志」だが、各人物のイメージのほとんどは西暦14世紀頃に作成された「三国志演義」から来てるはずだ。私自身は、三国志のイメージはほぼ横山光輝の三国志から出来ている。

結論から言うと、その三国志のイメージを、名君「劉備玄徳」と名軍師「諸葛亮公明」に焦点を当ててひっくり返すという試みの書である。タイトルにある「カネ勘定」やその他の記述、実際のエピソードで見れば、この2名は決して民思いでも誠実でもなかったのではないか…という姿が浮かび上がってくる。

①劉備ーだまし討ちも常套の放蕩エリート

史書によると、劉備は度量が広く、施しを好む人物であることが伺える。年少期は貧乏であり、母と二人で慎ましく暮らしており、そこからの成り上がりが演技の醍醐味の一つと言える。

しかし、劉備一族は経済力があったはずである。劉備の祖父である龍雄は「孝廉」という資格を持ち、最終的に県令(長官)となっている。これがどれくらいエリートかと言うと、人口20万人に1人という倍率であった。父の劉弘も役人である。

劉備は15歳の時に、著名な儒学者の魯粛の私塾に通うが、これはコネと学費の両方がないと困難である。しかし、当時の劉備は犬や馬のレース、音楽、ファッションに夢中であった。

仮に真面目だったとしても、魯粛が病になるまでの数か月しか通っていない。演技では勉学に励む少年であったが、とてもそうとは言えないのである。

②仁義なき入蜀

208年の赤壁の戦い後に荊州を制圧し、広大な領土を治めるように案った劉備。次に狙ったのは劉璋が治める益州であった。212年から214年にかけての両者の争いは「劉備の入蜀」と呼ばれている。

出典:はじめての三国志

本来、荊州から益州へ攻め込むのは至難で、長江をさかのぼり山がちの地域を突破する必要がある。

一方で、曹操を脅威に感じていた劉章は劉備を味方につけようと考え、益州に招き入れてしまう。それが裏目に出てしまった。劉章は劉備のために百余日の宴を開いた上で、兵や米、騎馬などの軍資に加えて絹織物などを分け与え、当時対立していた北部の張魯の討伐を依頼した。

しかし、劉備は北上せず、分け与えられた物資を民に配って人心を得ていた。当然、この物資は元々劉章のものであった。さらには劉備は曹操が孫権に攻めたことを理由に荊州に帰ろうとし、あろうことか更に兵士を借りたいと申し出る始末だった。

ついには劉備が野心を持っていることに気づき、激怒した劉章。白水関という関所の配下に、劉備との接触を禁じた。これを非礼と劉備は詰り、配下を切り殺して白水関を占領。その後は首都の成都へと向けて侵攻を始め214年に落とした。この時、成都には3万の兵があり、衣食も1年分あり、官民共々死を賭して戦う覚悟であったが、劉璋は「わしはもはや領民を苦しめたくない」と述べ、降伏・開城したという。なんとも酷い話である。

③諸葛亮公明──野心家で独裁的な宰相

諸葛亮公明と言えばその明晰な頭脳もさることながら、誠実で忠誠心の強い人物というイメージが強いだろう。

頭脳はともかく、性格に関しては独裁的で、政敵に容赦がなく民に負担を強いる軍事偏重人間だった─というのが本書の主張だ。

出師の表に次のような文がある。

(漢文)
臣は本(もと)布衣(ふい)、躬(みずか)ら南陽に耕す。苟(いやし)くも性命を乱世に全うし、聞達(ぶんたつ)を諸侯に求めず。
(日本語)
そもそも私は一介の平民でした。南陽で自分が食べていけるだけ農作業をする。どうせ乱世だし、無事に生きてゆければよい。そう投げ出しながら諦めて生きる存在であったわけです。なまじ諸侯に仕官して名を挙げるよりも、自分なりの生き方を模索する方がよいと思っていました。

出師の表の通りであれば、孔明は元々、野心がない人間だった。だが、仮にも主君への文に自分は野心家でありましたーと書くはずもない。

実際、若い諸葛亮は自らを管仲・楽毅といった歴史の名宰相になぞらえていた。

魚豢の「魏略」という本での諸葛亮は遊学中、学問を究めようとする徐庶など3人の友人に対し「君たちは仕官すれば、郡の太守(長官)にはなれるだろうね(俺はその程度で収まらないけど)」と言いながら小ばかにしていたという記述がある。性格がよろしくない(笑)

魏の歴史書なので孔明を批判的に書いた可能性は否定していないが、徐庶らは後に魏に仕えたため、「同じ国の人間に関する記述に全くの嘘を書いたとは思えない」と作者は述べる。

劉備の死後、諸葛亮は先代の劉備への「忠」を掲げて、主君である劉禅を差し置き政治を支配していた。そして劉禅はその指示にすべて従っている。

その後、魏への北伐を重ねたが、北伐の資金源はどこにあったのか?

もともと益州は肥沃な土地であり、南征によってそこから絹織物なども接収して歳入に関しては不足がないはずであった。

しかし、「今、天下は三分しています。私たちの益州が、一番苦しい状態にあります」と出師の表にも書かれている。これは軍事費に予算をつぎ込んでいたからだ。

もっとも隆中対(天下三分の計)を掲げていた孔明からすれば仕方ないことでもあった。この策は本来、益州と荊州の確保を前提として内政に取り組み、呉と連携すれば魏に対抗できるという前提であったが、この時に蜀は関羽が敗北して荊州を失っていた。ここからいくら良い内政をしてもジリ貧である。

そのため10万人程度と推計される兵を率いて、北伐に挑むしかなかったのである。北伐時には魏の民や周辺民族を拉致して取り入れており、原住民に負担をかけていた。

劉備と孔明が掲げた「漢室再興」「曹魏打倒」のために行った政治手法は「軍事最優先型経済体制」と呼ばれるもので間違いなく民への負担をかけていたのである。

本書の所感

私は横山三国志で育った人間なのだが、特に劉備の実像には衝撃を受けた。要はある程度の名家に生まれたアウトローで、傭兵を束ねる戦争屋的な人間であり、裏切りや詭道を用いて勢力を拡大してきたからだ。

ただ、孔明についてはあまり衝撃は受けなかった。確かに晴耕雨読を良しとする忠実な青年という像は崩れ、野心家であることは分かったが、当時の基準で率直に言ってそんな悪い人物に思えない。

主君である劉禅を無力化していた点が筆者は衝撃だったのかもしれないが、実際のところ当時の人々がどちらを信頼していたかと言えば孔明であろう。殺さないだけ、むしろ温厚だったのではないか。軍事偏重で民に負担を強いていた点も、珍しいものではない。

また、本の構成が全体的に半端に感じた。横山三国志程度の知識しかない私にとって、本書は結構読むのが大変だった。つまり、初心者向けといえるかは怪しい本なのだが、一方で三国志に詳しい人にとってはあまり目新しい内容はなかったはずだ。

筆者は経済史が専門であるはずで、カネと勘定の三国志という副題からも経済学的なアプローチを期待されたはずである。しかしその内容は「戦争には財源が必要で、英雄と呼ばれた人たちも土地と重い税を取ってたよね」ぐらいの話で、大したことは正直論じていない。この点は残念だった。

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