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脳死と心臓死について〜人魚の眠る家を見て〜(ネタバレ注意)

脳死と心臓死。   

脳死は、脳こ全ての活動が死んでいる状態。

また脳死判定は、『臓器提供の意思表示』があって初めて行われる。 

子どもの場合、 
この臓器提供の意思表示は保護者の判断となるのだが、 
この映画は、正にその『脳死』について考えさせらる映画だった。   

プールの事故で溺れたミズキ。
判定を受ければ恐らく脳死と言われるであろう。 

夫が経営するIT企業の社員が行っている最先端技術を用いることで、ミズキは人工呼吸器が無くても生きていけるようになった。 
 
また彼の研究している特殊な機器を使えば、身体を自ら動かしているように見せることもできる。 
笑顔を作ることもできる。 
機器を使えば、、、。 

だが実際、ミズキは自分の意思では動いていないのだ。

それでも母親とその彼は、まるで夫婦のように手を取り合ってミズキの成長を望み、動くことを喜ぶ。 

仕舞いに母は、脳死状態(仮)の娘を散歩に連れ出し、 
弟の入学式にも連れてゆく次第だ。

そう。側からみれば、  
毎日のように死人を運ぶ女性なのだ。

しかし 
前述したように、彼女は機器を使えばささいな動作は可能なのだ。

それがより一層母には
『娘が生きている』という思いを強くさせる。 


物語の終盤では、母親が取り乱して娘を刺し殺そうとした場面があった。 

自ら警察を呼び、娘に刃先を突き出しながら彼女はこう言う。

『ここで私が娘を殺せば、私は罪に問われますか?問われるのであれば本望です。私の手によって生きている娘を殺した事になるのですから、、、』

法の抜け穴をかいくぐったその言葉。 
確かに冒頭に述べたように、 
判定が実際に行われるまでは、脳死とは見做されない。本人、又は家族が臓器提供の意思を示すことで、初めて行われる脳死判定。

車椅子に座った、
眠り続けているその少女は、やはり法律上は生きているのだ。  

幻の生き物『人魚』が眠っている家が、 
そこには確かに存在していた。 

しかし幻はやはり幻なのである、、、。


物語の最後、
家族は、医者に判定を依頼し、判定の結果脳死となった。 


後日娘の葬儀が行われた。 
彼女の命日は、『母が夢の中で、娘から別れを告げられた日』である。
 
 
そして葬儀の最中、医者が西島秀俊演じる夫に送った言葉がある。
『ミズキちゃんは今も生きているということになりますね。』 

これは
『命日は奥様が娘の死を受け入れた日になりましたが、貴方はミズキちゃんがいつ亡くなったと思いますか?脳が止まった時ですか?心臓が止まった時ですか?』 
そう医者が夫に質問した際、

『体の死をもって死んだと考えたいですね』そのように夫が答えた事に対する返答である。

ミズキの心臓は現在、臓器を提供を受けた少年の体となり生き続けているのであった。 

このような結末で物語は終わる。


脳の死か。心臓の死か。
この考えはすごく難しい問題だと思うが、  
現段階の私は、『脳の死を以って人は死ぬ』と考える。   

というのも、これは私の経験からよるものである。 

私はゲイだ。
男性の体を持ちながら、考えや思考は、一般的に女性に近いものを持っている。

つまり私にとって体とは容器であり、 
人間の本質は魂なのだ。
 
そしてその魂は、 
各々の『脳』にあると思っている。 
そう。魂の在りかは、心臓では無い。  

思考し、行動を決定する場所は脳だと思うのだ。  

 
そのため、 
私の存在がなくなる事 
=私の脳が活動を終える事 
 
そう思うのである。  


死の定義には様々なものがあると思う。 
肉体的な死。精神的な死。社会的な死。 
 
例えば、
『人々から忘れられた時。それが本当の意味での死だ』と言う言葉を何処かで聞いたことがある。 
これは社会的な死を意味するだろう。 

このように、 
死については色々な定義がある中、
やはり今の私は、脳死を『死』と捉えるのがしっくりくる。
 
ミステリーでありながら、人々の繊細な心の動きを豪快に描き出し、先の読めない展開と大胆な感情の揺さぶりで、読者の心を惹きつける。

東野圭吾はやはり凄すぎる。

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