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【あたたかい冬から春へ】



子供の頃、口ずさんだ歌のひとつに、とてもあたたかい歌がありました。
『かきねの かきねの まがりかど たきびだ たきびだ おちばだき…』
童謡の『たきび』が初めておおやけになったのは
昭和16年の『うたのおけいこ』というNHKのラジオ番組。


その日12月9日は、折り悪く、太平洋戦争が勃発したばかりの翌日。
焚き火そのものが資源の無駄遣いとか、敵機の攻撃目標になるからとして
歌うことさえ禁止されてしまいました。
また終戦後も、消防上好ましくないとして、クレームをつけられる破目に。
それでも『時』を経て、歌の趣旨が理解されるようになり
この歌は歌い継がれてきたのです。


朝方か夕方の、たいてい決まった時間になると、どこからともなく
白い煙が立ちのぼってきて、その場へ一目散に馳せ参じた子供たちは
そう…、それはあどけない僕らの姿。 焚き火の赤々と燃える炎はまるで
冬の寒さに逆らって咲く、美しくもたくましい花のようでした。

大人も子供も、眩しいほどの炎を囲んで
そこでは様々な会話がなされました。

学校のことやら、友達のことやら、下校時に子犬を見つけたことやら…。


すると、おとなの人達が突然、仲間に加わって、楽しげな会話を始めると
僕らは目を輝かせて、聞き入ったものです。
焚き火を仕掛けた老人が、笑みをこぼしながら中のほうの灰を掻き分けて
『僕ら、これ食べ!』と言う。 こんがりと焼けて、それはどこの店先で
売っているものよりも格段においしいに違いない焼き芋でした。


焚き火は、冷え切った体をあたためること以上に、ふれあいの場でもあり
万人の心をほのぼのと、させてくれる。 少し昔ならば、このような光景は
至る所で見られたものですが、今ははたしてどうか?

大人はともかく、最近の子供たちは昔ほど
外では遊ばなくなったように思えます。
寒いのが嫌いだとか、携帯のゲームに夢中だとか、熟に忙しかったりとか
なんとはなしに、寂しいような、つまらないような…。


しかし、そうした中で、昔ながらの『元気』を受け継いでいる
たのもしい子供たちの姿と出会うことがあります。
自宅から見える天神山の、あれは畑のあたり。
無邪気で、とても賑やかな歓声が、北風に混ざって聞こえてきます。


どうやら、探検ごっこか何かを…。
天候良く、見晴らしも良く、きっと心も体も弾むのだろう。
厚着をするのでなく、実に伸び伸びと、冬の寒さに馴染んでいるようす。
日本の明るい未来を背負って立つ子供らよ。
君らはやはり、そうでなくては…。


我が町、相生市の相生は、子供の遊び場として大変恵まれた土地だ。
狭い面積の中に、海も山も川も田畑も池も、ひと通りの素材が揃っている。
それだから、遊びの内容も体の動かしかたも、多種多様に変化したし
うまく適応できていた。 神社や寺などが多く、広場は容易に確保できたし家々の路地や生活道路が狭いので自動車も少なく『鬼ごっこ』や
『かくれんぼ』をするのにも最適だった。どんなに貧乏な家の子供でも
『遊び場』というものに、絶対に不自由を感じたことがなかったのである。
冬だからといって、家にこもっている子供は、めったに居なかった。


季節の移り変わりを、ふるさとの自然を通して、僕らは肌身に感じながら
育ってきたものです。 この場所にも、あの場所にも、僕らの刻んできた
沢山の思い出が残っている。 そしてきっと何十年後の未来までも永遠に。
昔から『子供は風の子、大人は火の子』と言う。
大人もまた、風の子であってほしい。

僕はなつかしいような眼差しで、子供たちの行方を見守っていました。



ところでこの冬に、あったかい話題が二つ。そのひとつは
日頃からお世話になっているご夫婦に、女の赤ちゃんが生まれたこと。
名前を『いこい』ちゃんと言い、正月も早々の1/2日に、めでたくご出産。赤ちゃんの幸せを何よりも願って、ご両親が命名されたお名前のなんと
素敵なこと。母親が退院されてからの数日後、小さな布団にくるまれた
赤ちゃんを、僕はありがたく抱かせていただきました。


赤ちゃんはとても可愛く、まるでこの子が“福娘”や“天使”のように思え
しっかりと『福』にあやかれたような気持ち。
そのうえ僕は、自分がまだ独身であったにもかかわらず
『よし、僕も子供をたくさんつくらなくちゃ!』と
ついつい将来の夢を語ったものです。


もう一つの話題は、友人の結婚。1月の最後の日に、東京で式を挙げて
新婚旅行はなんと、北の大地 北海道へ。
スキーを満喫して、札幌の雪まつりに参加するらしい。
雪まつりは今や、冬の代名詞にして世界的な祭典。
大通り公園や、すすきの会場などの大雪像や氷像群や大勢のにぎわいが
遠く離れていても目に浮かぶ。 今年の開催は2月の何日からだったかな?
生涯の思い出に残るようなハネムーンになること間違いなし。


それにしても、一年中で一番寒い この時期に、それも日本中で一番寒い
北海道へ、どうしてまた…?と、最初は思ったけれど
しかし、本人たちがいわく『寒いくらいで丁度いい』と。
二人の仲はたいそう熱く、身も心も、じんじんと熱いから
寒くてもへっちゃら!などと、のろけているのだろう。 それならば本当に
冬の期間中も、暖炉は不必要かも知れない。 今度会ったら是非
大きな団扇で思いっきり扇いでさしあげようとも。そんなお二人の
末長い幸福を祈りつつ、これからの自身の励みと致しますか。


さて皆さんもこのような話題に触れ、あったかいと感じたに違いありまん。
寒い寒いと言っても、やがては春が来ます。
あと、ふた月。いえ、ひと月もたてば、寒さも必ず緩んでくるのです。
今は枯れ木の梅も、雪に埋もれた桜も、じっと春の訪れを待っている。


梅の花が万葉集に詠まれること118首、もしくは122首。
この数は、桜の花の約3倍にあたり万葉の昔から、『花』といえば梅
『梅』といえば大和の国を代表する花とされてきました。
『梅に鶯』とは、取り合わせ良く、美しく調和するもののたとえ。


梅には三百以上の品種があって厳しい冬を耐え、様々な春の草木に先立ち
花を咲かせることから『花の兄』の異名をもちます。
梅はまた、松・竹とともに『厳寒の三友』とも呼ばれ
慶事にも用いられる、おめでたい植物。 左遷に臆せず、のちに学問の
神様となられた菅原道真公の『飛梅伝説』も、広く知られるところです。


紫宸殿(平安京内裏の正殿)において
“左近の桜”が梅に代わって植えられたのは、桓武天皇の頃。
やがて平安時代から、単に花といえば『桜』をさすほど
桜は日本を象徴する花として、親しまれるようになりました。
もとより桜は農作業の目安とされ、或いは、お花見の定番として
慶長三年(1598)に豊臣秀吉が京都醍醐寺の三宝院で開いた花見の宴は
殊のほか盛大であったと伝えられています。


なお、前述が山桜なら、ワシントンのポトマック河畔の桜は主に染井吉野。
幕末の江戸の染井に発し、明治初年より急速に全国へとひろまり、1912年に当時の東京市長から、日米親善のために贈られたという歴史があります。
上野公園や青森県弘前公園の見事な桜も同種のもの。


足元を彩る草花に先立って、頭上の梅や桜が芽を吹き、花を咲かせれば
僕らの心をどんなにか、ほころばせてくれる。
自然というものの慈愛と素晴らしさに、思いを馳せるのも良し。

すでに春が来て、冬が遠いものとなったならば、寒かった今日この頃さえも
なつかしく感じられるはず。
この冬を、そしてやがて来る春を楽しみにしながら

今日からの一日を、大切に生きていよう。



  ※建礼門葵による冬のエッセイでした。
  生まれ故郷の相生で暮らしていた頃の描写です。
  イギリスの詩人シェリーの『西風の賦』の中の
  “冬来たりなば春遠からじ”  の一節が好きです。
  こんなふうな心境で、綴ってみました。


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🔷【秋の風物詩】|建礼門 葵 (note.com)


🔷【冬の風物詩】|建礼門 葵 (note.com)



🔷移り行く季節に|建礼門 葵 (note.com)



🔷『桜の花びらが散る前に…』|建礼門 葵 (note.com)



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