涙の薫り《短編小説》
『君の涙の薫りは静かなピアノの余韻がする…』
そう言った彼を探して、私はまた今夜も街を当てもなく歩く。
偶然貴方に逢える可能性は、きっとゼロに近い。
貴方が実在するのかすら、私には分からない。
愛を知らない私と、愛に傷付いた貴方との出逢いは、雨の日に偶々入ったBARだった。
お酒が弱い私は、甘いカクテルをゆっくり飲んでいた。
お店のドアが開く音がして、少し濡れた貴方が入って来た。
一つ空けて腰掛け、貴方はストレートを頼んだ。
一口飲んでから、何気なく私を見た。
私は気付かない振りをして、またグラスを傾けた。
「君の睫毛、とても長くて美しいね」
私はマスカラは塗らない。
地の睫毛が濃く、長いせいもあるが、マスカラを塗ると痒くなってしまうから。
「ありがとうございます」
私は素っ気なく言い、会話を遮断しようとしたが、彼は静かな声で話し始めた。
「もし、愛した女に別の男が居たら…潔く別れるべきかな? 」
その時、彼が傷付いている事に気付いたが、私はあまり他人の内情に深入りしたくないタイプだ。
「さぁ…それはお2人で話し合うべきじゃ…」
「うん…そうなんだよね。…愛なんか知らなくて良いものかもしれない」
成り行きと言えば成り行きかもしれない。
その夜、私は彼に抱かれた。
何故かは分からない。
同情とも好奇心とも違う。
不意に零れた涙を彼は、そっと舌を這わせてから言った。
朝になって、彼の姿はなかった。
代わりに一枚の漆黒の羽根が落ちていた。
私はそれを摘んで、光にかざした。
光の加減で七色に光った。
「鴉…」
昔、遠い昔に羽根を怪我した鴉を保護し、回復してから空へと放した。
しばらく私の上を旋回し、それから遠くへと飛び立った。
私の左薬指には、先日受け取ったばかりのダイヤが輝いていた。
私は愛を深く知らない。
指輪を羽根の代わりにベッドに置き、初夏の風が吹く中へと足を踏み出した。
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