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生存の意味と生活の意味

「今のままでいいんだろうか?」「こんな人生でいいんだろうか?」「なんで生きているんだろう?」「私の人生の意味ってなんだろう?」などと考えることがある。もし、単に弱気からそう思っているのなら必要なのは何らかの休息なり「充電」だろう。言い換えれば、それは心理的な問題、疲労の問題、病気の問題である。それはそれで対応したり付き合ったり一時的にはやり過ごしたりして何とかやりくりしていくべきだし、ときには専門家のアドバイスを仰いだり薬を服用することも必要だろう。

それはそれとして、他の動物も感じているかもしれないそういう気分を人間は記号列として、言葉として、疑問文としてなぜ上記のように問いかけるのか?ということは問題になり得る。どのような種類の疑問がそこに含まれていて、どのように解釈すれば、すなわち言い換えたり分析することで言葉の使い方としてうまく解(ほど)けるのかを考えてみたくなる。それは帰結としてはただの空転で終わるかもしれないし、ベターな自己表現につながって安定した表現に行き着くかもしれないし、少なくとも次からはバージョンアップした疑問から始めることができるかもしれない。

ところで今日、私はたまたまヨブ記をテーマとした映画を見た。それをみながら連想したことは人生の意味に対する問いかけというのは、(A)「なぜ私の人生は存在しなかったのではなく、存在するのか?」という疑問と(B)「なぜ私の生活は他のあり方ではなく、このようなさまであるのか?」という疑問とは分けて考えてみることである。

まず(A)「なぜ私の人生は存在するのか?」だが、(A1)意味という言葉を差異、すなわち違いとして捉えると「私の人生が非存在ではなく存在したことによってどんな違いがあるのか?」と言い換えられる。そして、深草が存在したことによって外界にどんな影響を与えたかはわかる。もし深草が社会と衝突して損ばかりさせられ、終いには罪人として捕まって非難されたとしたら、自分自身でも自分の人生は無い方がよかったと考えるかもしれない。だがこれは外面的な、深草vs社会の話である。偶然や確率の話である。また、(A2)意味という言葉を目標、すなわち狙い・意図として捉えると、それは例えば両親が深草を子供として作った理由である。それは自分たちの幸せのためかもしれないし、もっと経済的な事情があったのかもしれない。

一方、(A3)深草がどのような生活を過ごしているのであれ、なんで深草が「私」という意識であって、別の誰かが「私」であったり、そもそも誰も「私」でない状態ではなく誰かが「私」でなければならなかったのか?と考えることもできる。「私」は誰にでも生まれることもできたし、誰にもならないこともできたのだが、たまたまこの世にいる深草というくじを引いてしまった、と言い換えてもよい。

この場合、このような「私」について考えるのはムダである。なぜならば「私」は深草の生活にいかなる影響=差異ももたらしてはいない。言い換えれば「私」は機能を持たない。したがって「私」は外側から観測することはできず、それが存在するかどうかを外から意味づけることができないからである。また、(A4)「私」がくじ引きで深草を引いた目標・意図などというのを探るのもムダである。なぜならばそのような意図を持った存在はいないか、「私」の側からアクセスすることができないからである。というのも、仮に「私」の側からそのような存在にアクセスできるとしたら、「私」は自分が深草でなかったような可能性、つまり「私」と深草とを独立させて切断できるような世界を想定しなければならないが、そのような世界すら、言葉の上では考えられてもどこにも存在しないからである。

これら、「深草」という存在による差異、「深草」という存在の意図、「私」という存在による差異、「私」という存在の意図を挙げたが、(B)についても対応させると、(B1)「深草」というあり方による差異、(B2)「深草」というあり方の意図、(B3)「私」というあり方による差異、(B4)「私」というあり方の意図、となる。

(B1)「深草」というあり方による差異は深草という人物の投げ込まれた環境での育ちとその社会に対する影響だということになる。

(B2)「深草」というあり方の意図は、当然、深草という人物が投げ込まれた環境に対して反応し、自分でそれに立ち向かった結果として形成された深草の生活のあり方の方向性だということになる。

(B3)「私」というあり方による差異。これは描写するのは困難である。深草の側からみれば、彼が「私」という記号の使い方をマスターするまではその習得の経路に個性があるかもしれないが、いったんマスターしてしまえば、彼は他の人と同じように「私」という記号を使えるようになり、その結果「私」という文法的なあり方をすることは深草であろうと他の「私」が使える大人であろうと変わりがなくなる。したがって、この差異(意味)は「私」という言葉の使い方をマスターすると同時に消滅する。

(B4)「私」というあり方の意図とは、言い換えれば、「私」という言葉の文法をなぜ深草はマスターしなければならないのか?ということになる。それは有り体に言えば、深草は他の「私」と関係を取り結ばなければならないからである。深草は「私」という言葉の使い方や「あなた」という言葉の使い方を学ぶことで他者と関わることを学ぶ必要があるからである。しかし、これは浅い説明であろう。浅くはないがトリビアルな問い方としては、「深草」という固有名を排除して、「私」はなぜ「私」という形態を取らなければならなかったのか?と問うべきであろう。しかし、この浅くない問いにもやはり答えはない。なぜならば「私」はただそのまま「私」という言葉の使い方、メカニズム以上の何ものとしても捉えようがないからである。

こうして、少し細かく場合分けして考えてみると、意味を差異として捉えても意図として捉えても、この世の内側に対して影響を及ぼすという世俗的な意味か、この世の外側に対してアクセスしようとする無意味な悪あがきになるかのどちらかに陥るということがみえてくるかと思う。

(2,541字、2024.03.29)

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