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名前の不思議II

2022年7月に下記の記事を投稿した。名前、あるいは固有名詞の不思議さについてメモ書きしたものである。今日の記事更新はそれをリライトした記事を書いてお茶を濁すことにする。なお、リライトに当たってはなるべくOREO形式(Opinion-Reason-Example-Opinion)またはPREP形式(Point-Reason-Example-Point)に沿えるように注意していく。


(1)名前は偶然性と必然性との区別を越境する

物とその名前との関係は必然的だろうか。それとも偶然的だろうか? 結論から言えば、当初は事物に対して偶然に名付けられた名前も、時間を経ることによって、事物の偶然的な諸特徴から独立して必然になり得ると私は考える。言い換えれば事物とその名前の様相上の関係について、深草は偶然→必然の二段階説を取る。

なぜならば、確かに当初は物とその名前との関係は偶然的なのだが、時間経過や事物との触れ合いにより一定の慣れや愛着が生じると、名前とその事物とは引き剥がせなくなるからである。

例えばペットに対して名前をつけるケースを考えてみよう。確かに、最初はどんな名前をつけてもよい。イヌに「猫」という名前をつけてもよいし「ミケ」という名前をつけても「フミオ」という名前をつけてもよい。つまり、この段階ではどの名前を命名するかは任意であり恣意的(しいてき)であり偶然的である。これが第1段階である。一方で、時間が経ち、ペットに対して深く慣れ親しんだとしよう。すると、自分との結びつきが強いペットに対して、もはやその特徴(=内包、規定)ではなく、名前でしかそれを表現できないことがあるはずだ。つまり、同じ特徴を持った他の動物と交換不可能だと思えるほど愛着を持ったペットは、もはやその名前でしか表すことができない。なぜならば、唯一無二のペットが亡くなったとき、「また類似の特徴を持った別の個体を飼えばよい」というわけにはいかないからである。この第2段階においては、名前はもはやそのペットの諸々の特徴から独立しており、名前はそのペットに外挿(がいそう)されたものではもはやなく、そのペットの存在とぴったり張り付いた必然的なもの、他では有り得ない記号列と成る。

故に、当初は事物に対して偶然に名付けられた名前も、時間を経て事物と歴史を紡(つむ)ぐことによって、事物の諸特徴(これらは変化し得るし、偶然的である)から独立して必然(=可能性を排除した無様相)になり得る。言い換えれば、名前は偶然と必然との二項対立を越境すると言える。

なお、仮にこの結論が妥当であるとすれば、現在必然的にその名前でしかあり得ないと思われているような事物(個体)についても、かつてあったはずの第1段階に遡行して考えれば、その名前は以前は「偶然的」なものだったであろうと推定できる。すなわち、名前(記号列)と事物との関係を解体することも頭の中では可能になる。しかし、このとき我々はその関係を解体するために、名前と事物とが相互に使われてきた歴史をあっさりと切り捨てていることには注意しておくべきだろう。なぜならば、そうしないと、実際に名前を事物と共に運用している人たち(=運用当事者)に通じない議論を展開することになりかねないからである。

(2)名前はプライベートな所有物でもあり、パブリックな共有物でもある

人間の名前、人名についてはどうだろうか。ここでは名前はプライベートであると同時にパブリックな存在でもあると私は捉える。もしそうだとすると、名前はなぜプライベートなのか? また、名前はなぜパブリックなのか?

まず、なぜ名前がプライベートなのか? について。それは、自分の名前は自分のもの(所有物)だからである。言い換えれば、誰でも自分自身の名前について他人から勝手に変更されたり踏みにじられることに違和感を憶えるからである。例えば、我々は現に自分の名前にこだわる。自分の名前を他人がいつどのように使うかを気にする。日本語なら呼び捨てにするのか敬称をつけるのかといった問題も発生する。他人が自分の名前を茶化したり、あるいはわずかに間違うだけでも自分自身の内面が侵されたように感じることもある。だから、自分の名前というものは、自分の内面、自分の心に深く食い込んでいて、我々はそれに愛着を持っているとも言える。つまり、名前は我々のプライベートな部分、魂の部分に踏み込んでいる。だから、我々は自分の名前がどう扱われるべきかについて、他人に口出しされずに決めることができる権利を持っているように思われる。言い換えれば、それは社会的な立ち居振る舞いや物理的な身体のあり方によって規制されない、独立した自分の名前に対する〝尊厳〟であり、プライベートな権利である。したがって、名前は自分の専有物であるがゆえにプライベートな性質を持つ。

次に、なぜ名前はパブリックなのか? について。それは名前というものは、いったん名付けられてしまえば、それを使うのはもはや私自身ではなく、ほとんどが他人たちだからである。名前はその運用においてはパブリックである。だから、名前はその所有者の自由にはならない。それどころか、私は自分自身の名前を恣意的に変えることのは難しい。もし名前が私の他の所有物と全く同じであればこのようなことは起こらないはずだ。私は私が所有するマグカップを他の人に使わせないことができるし、自分のマグカップをいつでもぶち壊して廃棄処分にできる。ところが名前では同じようなことはできない。だから、名前は単にプライベートな所有物であるというだけでは言い尽くせ無いものである。したがって、この側面からみれば、名前はいったん成立してしまえば公共的な構造として固定されるのであって、さまざまな規制に縛られる(例えば日本人の名前はそれに使える文字が限られている)。あるいは、他の人と名前があまりにも重複していれば不便な思いをすることもある。また、名前が「売れて」有名になると、それはますます公共的な構造を膨らませてしまい、名前の所有者ですらコントロール不可能になってしまう。これらの現象からみて、名前はそれが幅広く運用されると、単に誰かの所有物以上の機能をみせることになり、そこに名前のパブリックな性質が生じる。

したがって、名前は単純な所有物でもなければ、完全に誰のモノでもない共有された構造(例えば婚姻の構造など)でもなくて、その両方の性質を同時に合わせて持つ。言い換えれば、名前は私自身の特殊な内面性(=アイデンティティ=実存)に紐付く私秘的なものであると同時に、公共の場において私の身体や発言を指し示し識別するためのIDとして私自身にも自由にならない公共的構造をも帯びている。

(3)固有名詞だけが同一性を担保する

固有名詞はそれ自体で何か同一なものを表現しているわけではなく、それ自体が何かの同一性を担保している。なぜならば、固有名詞とそれにまつわる概念や事物について変化しないものは固有名詞それ自体以外にはないからである。詳しく言えば、そもそもおよそあらゆる概念には典型的には三つの要素から成っている。すなわち、特徴の束(内包)、特徴が当てはまる対象の集合(外延)、そして特徴の束についてタグ(名前)である。このうち、特徴の束はその要素が追加削除されたり交換されたりする。一方、特徴が当てはまる対象の集合は固有名詞の場合、たった一つに固定されていて動かしようがない。その「たった一つ」の同一性を担保するのは何か重要な特徴(本質的な特徴)というわけではなく、タグ、すなわち固有名詞そのものである。

例えばダートマスという地名を考えてみよう。それが指す町はダート川の河口にあるが故にそう命名されたという。しかし、仮にダート川が消滅したとしても、「ダートマス」という街が消滅するとは限らないだろう。だから、我々は「ダートマス」という固有名詞の指示対象について「ダート川の河口にある」とかその他移ろい得る特徴付けを使うことはできないのである。ダート川が消えても、ダートマスはダートマスであるとしか言いようがない。したがって、そこに同一性を担保して永続しているのはその名前だけなのである。

(4)神は祈られるための名を持てない

いくつかの前提を置くと、一神教の神 God が名を持つことはひどく困難になる。名を持つのが困難だと何が不都合かというと、神に固有の機能であるはずの人間の祈りを受けるという役割が果たせなくなるからである。ではなぜ神はその名を持てなくなってしまうのか?

まず、神様の名前について考えてみると、一つの前提としては「人間が神様に勝手に名前を与えたり、神様の特徴を認識してそれにちなんだ名前を与えることは立場の上下からみて傲慢」である。だから、神の名前は神自身から人間に授けられなければならない(例えば旧約聖書ではモーセはシナイ山で神から直接その名前を教えてもらったことになっている)。だが、ここで祈るための音を与えてもらっただけでは人間にとっては不安極まりない。なぜならば、その音を唱えることで神に祈りが届くのかどうか、音を教えてくれた相手は本当に神なのかわからないからだ。神はそれにふさわしい特徴(例えば奇跡を起こし授けるなど)を持っているはずで、それを確認したいと思うのが人情である。

次に、もちろん単に神の名前を正しく認識し、呼ぶということだけでも重要である。なぜならば、それが日々祈祷するということひとつにも欠かせないことだからである。ところが、上に述べたように我々は神の特徴というのを必ずしも知らない。いや、むしろまったく知らないと告白するのが知的存在者として謙虚な態度とすら言える。また、もしかすると、我々が知っていると思っている神の特徴は偽物の神の特徴かもしれない。フェイクの神は〝デミウルゴス〟と呼ばれたり、偶像と呼ばれたりする。「それらを崇拝してはならない」という前提もこれまた置かれている。

したがって、偶像崇拝を回避して、本物の神の特徴、我々が祈るべき神にふさわしい特徴をどうにかして見つける必要があった。その努力の一例が「神の存在証明」である。この試みが歴史上何度か行われてきたが、それも神の正しい特徴認識を前提としなければ、(たとえ証明が成功していたとしても)偽の神の存在を証明したことにしかならないだろう。例えば、神が世界の設計者であるとか、世界の第一原因(=自己原因)であるといった特徴づけというのは、我々の経験の延長で神に何がしか「良き」特徴づけをしようとしているに過ぎない。一方で中世の神学者アンセルムスは神の特徴として「偉大さ」と「存在」だけを考えたが、これらは彼の存在論的証明の中で我々の経験を常に超越するようなものとして作動する装置であった。

我々の経験を考えるたびに超越するような装置は言わば常に概念操作を要求する概念であって、それを考えるたびに毎ターン常に我々の概念を飛び越える。だから我々が名前で呼ぶたびに、それは名前で呼び切れない余剰を呼び起こす……。つまり、神の名を呼ぶということは、通常の概念にもとづいて事物の名前を呼ぶこととは異なる呼び方であり、それこそが神の名前を呼ぶ、すなわち祈りの特殊性なのである。別の言い方をすれば、我々は神の名という特殊な名前を他の事物や人間の名前と同じ意味で呼ぶことはできないということである。


以上のことから、名前というのは一般に考えられている二項対立を越境する性質を持ち、また事物が常に先行して名前はそれに従属するだけであるとか、超経験的なものに対する呼称をどのように扱うべきかについて多くの課題が残っていることが多少なりともうかがえるのではないだろうか。あまり共感を呼ぶことはできないと思うが、私はこれらのことに深く関心を寄せている。

(4,827字、2024.05.03)

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