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互助会

継続可能でお互いに確かな満足感や実利が得られて、ナアナアにならない互助会をつくるには、どうしたらいいのだろうか? やっぱりそういうものは会社やマフィア、自治会になってしまうのだろうか? 他の道はないのだろうか?

ラジオ体操

例えばラジオ体操の会というのをやりたいと以前から思っている。毎朝、お寺の境内のような場所で、予約不要で任意参加で集まってやるのが理想だ。早朝じゃなく、夕方にやってもいいかもしれない。少し身体を動かした後に、めいめいに仲のいい人たちと関係を深めてくれればいい。特に地理的に近いところにいる人たちがどんな顔をしているのか、どんな人柄なのか、他愛もない話をするだけでも地域にとって素晴らしい効果があるし、安心感や愛着が生まれるものだ。少なくともアーリーリタイア後にどうにかして企画し実行したいと思っている。

人文学のサークル

20年余り、人文学のサークルの幹事をやらせてもらっている。アマチュア主義のサークルで、プロの指導を仰ぐ気はなく、実際、社会人向けに毎回完結式でメンバーシップもなくやっている。だから、本当はサークルというよりもその都度の「イベント」であると言いたいのだが、なかなか伝わりにくいようでサークルと言っている。

実際のところ、私が創始者ではないし、今は去ってしまった多くの方のご協力のもとに継続できてきたというところが実に大きい。そして新しく来た人にそれを証言できるのはもはや私だけとなってしまったというのも悲しい事実である。私自身も惰性で継続している部分が無いとは言えないが、一方で、自分がやっているような会合がこの社会から無くなってしまったら、代わりになるような場所も見当たらない(そういう場所が無く、新たに生まれて増えないということは、私はつまり世間の相場からみれば割に合わないことをしているということなのだろう。多くの人にとっては自分自身の就職や出世や結婚や育児、家庭の方が大事であろう)。

先輩サークル(STUDY UNION)があり、そこの理念の一つが「社会的選択肢を増やす」なので、最低限、それに沿って、他では得られない体験や教育機会を特にアマチュアの社会人に提供するという目標はその都度達成できているものと思う(会合の品質にはばらつきがある!)。

私のサークルも言わば人文学に関心のあるアマチュアの互助会とも言えるだろう。ただ、そこで交される話題に参加者の実存が乗る場面もあるものの、深い人間関係や助け合いに至るかどうかを担保するものではないし、それをやるには主知主義的過ぎるという傾向もある。

生活協同組合

会社ではないけれど、もっと実利的にお互いの生活をサポートできるような関係を築けないのだろうか? と考えるとそれは結局「生協」である。生協のスーパーマーケットで毎日食料品を買い、生協の保険に入り、生協のお葬式を挙げる。そういう生協経済圏というのもあるのだろう。

だが、既存の生協はちょっと組織としてデカ過ぎてお互いの顔がみえないのがつらいところである。確かに組織に規模、すなわち人数は必要だ。組織にとって何よりもつらいのは人手不足だからである。例えばいわゆるNPOと呼ばれる団体もこの人手不足のためにズサンな組織運営をやらざるを得ないようになっているところがたくさんあるようだ。生協はその点は克服しているから便利である。

外部市場で評価される便利さと寂しさ

外部の経済市場でも評価される、つまり値段のつくような便利さ、サービスというものがなにか「互助会」でも受けられれば便利だと思う一方、そのようなサービスというのは人の顔がみえにくい匿名的なものでもあるので、寂しい側面もある。いわゆる「ぬくもり」が感じられないというヤツだ。この二つは永遠に両立しないのだろうか? なにか抜け道はないものか……。と日々首をひねっている。

(1,578字、2024.04.04)

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